「流動化する社会」での視座
これまで以下の視点で、現代をどう捉えるかを話をしてきました。
1)心を開発する時代
2)歴史の中での現代の位置付け 近代〜現代
3)ネクストソサイエティ/最適化社会・自律社会
4)社会的幸福
5)個人的幸福
6)戦争の時代、経済の時代、宗教の時代の展開
7)コト消費経済の意味と時期
8)資本主義と民主主義の対立
9)現代の廃藩置県と松下村塾の意味
*ご関心のある項目こちらからどうぞ。https://note.mu/kennyketchup/m/m2edba033caa5
大きな変化が来るという人は大勢いますが、どう変わるのかは誰も予見できませんし、まして、どう準備をすればいいのかは誰も教えてくれません。しかし、古い固定化した社会がどんどん解けていくのは間違いありません。私たちは、流動化する社会をWaLa社会 「Work anywhere Live anywhere/働くを自由に暮らすを自由に」と捉えます。変化の激しい時こそ、世界観・宇宙観が大事になります。世界をどのように見るのか。そのことを、皆さんと共に、順に理解できればと思います。
<視座の持ち方>
1)観察者の視点
2)主観と客観
3)ことば (記号と象徴)
1)観察者の視点
例えばある人たちが 対象Xについて話をするとき、当然、対象Xを同じように認識している前提で話しています。しかし、彼らの脳内にある対象Xは全く異なります。目の前で同じものを見ていても、見ている角度が異なるだけで、違ったものを見ていることになります。私たちは、同じものを見ているときは同じものがあると言う前提にたちますが、実は視点が異なると全く異なっていると言う認識が必要です。
さらに、ここに時間軸を加えたとしましょう。そうしますと、それぞれの脳の中で物語が動き出します。そうなると、一つの事象は全く異なった質感を伴ったものとして刻まれます。例えば桃太郎のお話があります。
「昔々あるところに、おじいさんとおばあさんが住んでおりました・・・と始まり・・・・桃太郎と名付けました。」
で前半が終わります。後半は、要約すると
「きびだんご、さる、きじ、犬、鬼退治、
・・・・めでたしめでたし」
ですが、視点を、赤鬼の息子、赤鬼太郎に移すとどうなるでしょう?「ある日、家族で食事をしていると、桃太郎という乱暴者が、犬と猿とキジとともに急遽襲いかかってきて父を殺し、家財を強奪して帰った許すことはできない敵」となるでしょう。ここから復讐の物語が始まり、別の物語のプロローグのようです。
視点の違いで、物事は全く異なります。あらゆる物語は、視点を定めることから始まります。
2)主観と客観
先の事例は、対象をどの角度から見るかという例で話しましたが、「主観と客観」では、別の人物が、同じ角度から同じものを見たケースです。私たちは、よく「客観的か?」という言葉を使います。ある一つの客体を見たときに、視点を伴わない客観的真実というものが存在するという前提の世界観です。
しかし、観察者のいない、絶対の真理などというのは、決して存在しないのです。これが、存在するということ自体が、デカルト以降の二元論から生まれてくる世界観でありむしろ、現在の我々がそれに囚われているのです。
Aさんには、AさんのXの把握の仕方が。
Bさんには、BさんのXの把握の仕方が。
・・・・
これには限りがありません。最大公約数は見つけれますが、実は、あらゆる視点から見た主観を統合した客観というのは存在しないのです。物理学では、観察者のレベルに合わせて、客体の存在レベルが確定することがすでに
明らかになっており、私たちが前提としている世界観が崩壊するような発見がミクロレベルではなされています。これを、認知の世界にも応用すべきでしょう。客観的存在、客観的絶対的真理はないという認識の変容は、わたしたちに世界観の変容を迫ります。
3)ことば(記号と象徴)
ことばもそうです。近代の世界観においては、一つの言葉は、ある絶対的・究極的存在を表すかのように思いますがそのようなものは、どこにも存在しません。私たちは、言葉を使い、会話をしますが、それこそまさに、現実空間の上に仮想空間を作りその中で暮らしているようなものです。
このため、禅に代表される東洋の伝統的考え方では、言葉に執着しないように戒められます。禅問答は、そのためにあるようなものであり、禅問答に言葉で応えようとすることは意味がありません。真理は、言葉の奥にあるということです。それをエネルギーとしてとらえ、そのため瞑想、黙想、修行など、体験が重視されます。そのような状態ですと、言語を超えたイメージが心に、より深い場所から浮かび上がってくるからです。また、そこで浮かび上がってくるイメージは、心身の状態によって全く異なる曖昧なものです。
よって、世界がどのように見えるかは、外側ではなく、自らの内側にあるという世界観として発達しました。
西洋では、その逆であまり、力が内側に働くことはなく、外側に向いたため、マニピュレート(介入操作)することで、人類は20世紀まで大きく文明を発展させることができました。しかし、一定以上の幸福レベルには届かないという限界が、科学的に見え始めたのが20世紀であり、21世紀、私たち人類が進化するには、西洋の知恵に東洋の知恵が弁証・昇華していくことが必要となるでしょう。
「流動化する社会」で「働くを自由に暮らすを自由に」生きていくためには、自分とは何かを知らねば、おそらく流れに押し流されてしまうでしょう。
「流動化する社会」多くの人が、自分を見失いそうになるでしょう。この流れに抗い、自分を知り、二本の足で立って生きていくためには、自分が何を見て、どう捉え、何を語っているのか、改めて考えることが必要なようです。