夏の終わりに虫と戯れる
新卒で入社した会社を年末に辞めて東京から実家に戻ったが、手持ち無沙汰の日々が続いた。手持ち無沙汰と言うよりも、何となく何も手につかず、落ち着かないと言うほうが正しいのかもしれない。何年かぶりの自分の部屋は、高校卒業後に家を出た時とほとんど変わらない。
何日かすると部屋でじっとしていることに耐えられず、ジャケットを羽織り、用もないのに家を出る。とは言っても、都会と田舎でもないこの地元に遊べる場所なんてほとんどない。それでも、少し外の空気を吸いたくて、玄関横に停めてある父の自転車に跨がる。雨除けがないから、自転車は所々に錆が目立つ。チェーンに至っては、全て茶色に変色している。ペダルを回転させる度に、ギィーギィーと軋む音がする。とりあえず、前には進むのでOKだ。平日の昼下がり、住宅街を当てもなく彷徨う。世界には自分一人しかいないんじゃないかと思うぐらいに誰も見かけない。時間がゆっくりと流れてる。
住宅街を抜けると、田んぼが目に入る。梅雨の季節には、田んぼから蛙の大合唱が今もまだ聞こえるのだろうか。少しブラブラしていると、よく通っていた近所の図書館にたどり着く。懐かしさが込み上げ、駐輪場に自転車をとめる。本を読みたい気分ではないから、外のベンチに腰をかけて空を見上げる。家に居ずらかった時や学校に行きたくなかった時、図書館は逃げ込める僕の聖域だった。ゆっくりと流れる時間にまだ上手く馴染めず、意味もなく携帯を触る。「何かしろ、折角の時間がもったいないだろう?」と耳元で誰か囁く。東京に住む友人にメールを送るが、返信はない。これから仕事をどうするかという不安は燻っているが、仕事を辞めたことに後悔はない。
館内にある自販機で缶コーヒーを買い、ベンチに戻る。平日のこの時間帯に皆何をしているんだろう?仕事をしている時は、仕事だけしか目に入らなかった。世界は仕事だけで構成されているはずがない。こんな風にベンチに座っていると、今まで見逃していたものが目に飛び込んでくる気がする。少し寒くなってきたので、家に引き返す。自転車は相変わらず軋んだような音を立てている。
働いていた時、お金を払ってでも時間を買いたいと思っていたけど、今は時間だけはたっぷりある。2階の自室に戻り、やることもないから部屋の片付ける。押し入れの中に、教科書や答案に紛れて埃まみれのプレイステーションを見つける。いくつかソフトがあったが、「ぼくの夏休み」を見つけて手に取る。このゲームでは、主人公が夏休みに虫を捕ったり、探検したりしてゲーム内で自由に遊べる。お気に入りで攻略本も読んでやり込んだ。そういえば、小学校の夏休みには、田舎の祖母の家に遊びに行き、リアルに虫や魚を採りに駆け回った。草を踏んで、飛び出てくるカマキリやバッタをタモでつかまえる。恐れを知らずに水路に入り、鮒や鯰を追いかけた。夏の終わりの終わりまで、虫や魚を追いかけて走り回った。子どもの頃に好きだったことが天職に繋がると友人が言っていたけど、さすがに虫採りは仕事に繋がる見込みはないだろう。虫採りって、子どもの頃以外にする機会がないじゃない。
いやいや、そうでもない。36歳になってもタモを振り回しながら必死に虫を探している。
「虫50種の標本」を作ることが、カナダの林業学校での夏休みの宿題だ。平日はクリスマスツリー農園で働き、週末は学校に隣接する森で虫をつかまえるというサイクルがこの夏休みで習慣になった。しかし、もう夏も終わりに近づいている。50種を夏休み中に達成するため、ツリー農園でも虫を捕ると決めた。
ツリー農園のオーナーが、もみの木に薬を散布しない方針なので、僕にとっては幸いなことに農園は虫が豊富である。昼休み中にタモを手にして虫を探す。白い蝶が何匹か飛んでいる。蝶の動きは予想をつけるのが難しく、空中で彼らに勝てる見込みは低い。草の上に着地した瞬間を狙い、そろりそろりと近づきタモを被せる。しかし、するりとかわされる。逃すものかと農園の脇道をドタンバタンと飛んだり跳ねながら、蝶を追いかける。待ってくれ。10分ほど追いかけ回し粘ったが、逃げられた。
他に虫はいないか?草むらを進み、草を踏んで虫を追い立てる。すると、バッタがキチキチキチと音を立てて飛び出してくる。見た目は、日本で見かけるバッタとそう変わらない。「せいやっ」という掛け声とともにタモを草むらに叩きつける。広い農園で虫採りをしているのは僕一人、タモを振りかぶり、草むらに叩きつけるを繰り返す。数分間の格闘を終え、ヘトヘトになりながらバッタをジップロックに入れる。気がづいたら、昼休みも終わりかけだ。物置き小屋に急いで戻り、「虫どうしようか?」と考える。ジップロックの中では、バッタが暴れ回っている。同僚のアシュリーが「ここに保存しておけば?」と小屋の隅に鎮座している小型冷蔵庫を指さす。仕事終わりのご褒美のアイスを冷蔵庫に入れてあるが、バッタと一緒なのは気にならないのか。うーむ。保管に良い場所は他に見当たらないし、選択肢はなさそうだ。仕事終わりに毎回アシュリーがアイスをくれるが、今日は貰わないでおこう。
虫の中には、舐めてかかると痛い目を見る虫もいる。午後にもみの木の葉を剪定していたら、木の根本近くの葉を切った際、カリバチの巣を気づかずに叩いてしまったようだ。慌てて、剪定用のブレードを放り投げ、全速力で逃げる。遠目でもわかるぐらい、木の根元をカリバチが数匹飛び回っている。ブブブッという不気味な羽音は、巣を攻撃された彼らの怒りを表わしているんだろう。これはヤバい。距離を取りながらカリバチの様子を見まもる。今日の作業はまだ残っているから、置き去りにしたブレードを回収しなければならない。15分程たつと、先ほどまで聞こえていた羽音が聞こえなくなった。体勢を低くし、ゆっくりと木の側まで移動し、サッと素早くブレードに手を伸ばす。しかし、その瞬間、もみの木の葉の陰に隠れていただろうカリバチが、ブブブッと音を立てものすごいスピードで一直線に僕に向かってくる。振り払おうとする僕の手をあっさりとかわし、手に一撃。頭に響くような痛みが走る。「うわおおおっ」という意味不明な叫びをあげて、逃げ惑う。ようやく小屋まで逃げのびたが、痛みが酷く、水道で手を冷やす。すると、同僚が近づいてきて「そういや、俺も去年刺されたわ」と言う。そういうことは、先に言ってくれ。
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