自由に葉を広げる
ようやく一日が終わった。放心状態で何もする気が起きない。ソファに寝ころんだまま、無暗にスマホをいじる。指で画面をなぞれば、次から次へと情報が現れる。情報は表面を滑り、泡のようにどこかへ消えていってしまう。頭の芯がふやけて、ぐにゃぐにゃに溶けてしまっているかのようだ。自分の中を何もかもがサッと素通りしていく。もう寝たほうがいい。スパッと切り替えて朝早く起きれば本を読んだりする時間ができるのではないか。何度もそう思うが、指は画面をなぞり続け、身体はぐったりとソファに沈んだままだ。Facebookのアプリを開き、何ともなしに画面を見ていた。カナダの林業学校の時のクラスメイトがタグ付けされた写真。突然、目に飛び込んできた。女子会だろうか?どこかのレストランで集まる友人たちの中、その少し強気な表情の彼女がいた。最後にメッセージを交換した時から3年以上経つ。
日本への帰国が明日に迫ったので、アパートの自分の部屋の掃除を済ませた。服や林業のテキストなどかさ張るものは、昨日郵送の手配を済ませた。大きな段ボール一つに何とか詰め込んだが、ダメージの保証をつけたら$300ドルほどかかってしまった。もう部屋にはほとんど物が残されていない。スーツケースに入らない服は、アパートの一階のクローゼットに置いて行こうかと考えている。新し目の服であれば、ルームメイトの誰かが使ってくれるかもしれない。置いておこうと決めた服を掴み、一階までおりる。この時間はルームメイト達は航空学校で働いているから誰もいない。部屋はしんと静まり返っている。クローゼットには、いくつかハンガーがかかっていた。ハンガーを手に取り、一枚ずつ服をかけていく。青のダウンジャケット。この3年間冬になると,、いつも着ていたなと思い出す。全ての服をハンガーにかけ終わり、一階を見渡す。一人でいると何だか落ち着かない。駆け足で二階の自分の部屋に戻る。部屋にあるのは、スーツケース。バックパック。あとは机の上のパソコン。何か大事な忘れ物はないだろうか。忘れ物を取りにこの町まで戻ってくるには、日本は遠すぎる。
椅子に座り、パソコンを立ち上げた。窓を開けると少しむっとするような風が入り込んでくる。夏の気配。そうだ、この町に初めて来たのもこんな夏の日だった。ゴオゴオオ。目と鼻の先にある空港から飛行機の飛び立つ音。ガソリンの臭い。明日のこの時間にはモントリオール空港に移動しているだろうか。モントリオールから、映画を何本か見る。機内食を食べて寝てしまえば羽田に到着する。もうここですることは何もない。メールをチェックし、動画を見て時間を潰す。Facebookをチェックしながら林業学校のグループを見る。どうしようかと迷ったが、クラスメイトに向けてさよならのメッセージを書き込む。少し経つと、彼女がすぐにメッセージを返信してくれた。教科書に載りそうなほど丁寧な文章で「あなたの夢が実現できるといいね」と書かれていた。
恰好をつける余裕もなく、目の前の生活に四苦八苦している。森林をしごとにすることは後回し。ソファの上でもぞもぞと体勢を変える。林業学校で森と格闘した日々。皆と過ごした2年間。林業学校の懐かしい日々を思い出し、今の自分を見て、夢は実現できたのか?と心の中で叫ぶ。スマホを傍らに置き、天井をじっと見つめる。最近、カナダで過ごした日々や今の家族との暮らしを文章にしながら、微かな鼓動のようなものを感じている。カナダで過ごした日々が、自分の中で少しずつだが芽吹き始めている。暮らしの中で、その思いや気持ちを言葉にする。言葉はゆっくり育ち、自由に葉を広げていく。気が付けば、もう23時を過ぎていた。ソファから身体を起こす。ぐっと大きく伸びをする。そう言えば、彼女からのメッセージは「またね」で終わっていたなと思い出す。
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