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二階からツイドル

 車内放送で次は終点の中野に着くとアナウンスが流れた。昼は既に過ぎ夕方と言うにはまだ早いこの時間帯の乗客は少なく、次が終点ということもあってかまばらだった。柔らかな日差しが車内に差し込み、ここが田園地帯を走り抜ける地方の路線だと錯覚するような穏やかな時間が流れていた。
 座席に座っている隼人の目線は手元のスマホに注がれ、先程つぶやいたツイートに来た返信を確認していた。
『かわいい!』『どこで髪切ってるの?』『髭生えてる〜』
 代々木上原の美容院で散髪をしたあと、新宿でタピオカを買いマルイの化粧室の鏡でストローを咥えながら撮った自撮り写真には、数分しか経っていないのにもかかわらず返信が十件、いいねが六十件来ていた。
 隼人は髪を切ったときのツイートには特に気をつけている。自分が最も盛れている散髪直後の自撮りはTwitterでは特に反応が良いからだ。同じようなツイートだと飽きられてしまうため撮影場所やアングルなどはできるだけ変えるようにしている。隼人は返信に対して一つずつメッセージを送り始めた。
 中野に到着した電車のドアが開くと席に座っていた数人の乗客たちがゆるゆるとホームに出ていき、ホームで待っていた一組の男女が車内に乗り込み座席についた。隼人はまだ返信を続けていた。
『ありがと!』『友達のところ〜』『最近生やしてるんだ〜』
 隼人はこの瞬間がたまらなく好きだった。自分の容姿を多数の人が見て反応してくれる――こんな幸せなことがあるだろうか。どんなに嫌なことがあってもこの瞬間はそれを忘れられる。返信やいいねの数が増えるたび隼人の心は満たされていった。
 ――この電車は、中央・総武線、各駅停車、津田沼行です。
 無機質な車内アナウンスに気づきはっと顔を上げると既に車内の座席はぽつぽつと埋まっていた。スマホを手に持ちながら足早にドアに向かいホームに出ると柔らかな日差しが隼人の足元に差し込んだ。
 ホームの先には春の陽気とともに中野駅の南口の街が広がっていた。
 総武線のホームからは東西方向に伸びる中野駅に対してそれを南北に貫く中野通りの南側の街並みを見下ろすことができる。通りの真上にホームがあるので、ここから眺めると道路の両脇に立ち並ぶビル群が左右対称に並んで見える。隼人は春の陽気も相まって、いつもなら足早に過ぎ去り目にもとめないこの景色をぼんやりと眺めていた。
 高いところから人を眺めるのが好きだった。小さい頃両親に連れられていった東京タワーで他の子供と同じようにはしゃいでいた隼人が感じていた高揚感の理由は、あのときはうまく言葉にできなかったが今思うと米粒のような通行人たちを見られたからではないかと思う。足元のガラスから見えた駐車場の車とその間に見える人々、眼下のサッカー場で蠢いている人々……。六本木ヒルズやレインボーブリッジには目もくれず目を凝らして小さい人々をずっと見ていた。
 ホームから見える中野通りの両脇の歩道にはたくさんの歩行者たちが行き交っていた。隼人はそれを見ながらあの時の高揚感を僅かに感じていた。
 ホームを降り北口改札を抜け中野通りを北上していく。自宅まで歩いている最中もポケットのスマホからは心地よい振動が続いていた。

   *

 三月下旬にしては寒く風の強い日だった。生憎空は曇り、風に至っては桜が全部散ってしまうのではないかというくらい瞬間的な突風が代々木公園に吹き荒れていた。
 二畳ほどの黄色と茶色のチェック柄のレジャーシートの上には今日の天気とは対象的なカラフルでちまちまとしたお弁当が並べられていた。
「どう? かわいいでしょ?」
 タケシは誇らしげな顔をしながら水筒を手に持ち二つの紙コップに紅茶を注いだ。熱いから気をつけてねと言いながら湯気が立つ紙コップを渡しながら幸せそうな顔を隼人に向けた。

 今日はタケシと付き合い始めてから三ヶ月目の記念日だった。元々隼人のTwitterのフォロワーだったタケシとはTwitter上でやり取りをし合う仲だった。
 昨年十一月に隼人が新宿に新しくできたスタバで自撮りと共にツイートした際、ダイレクトメールで『新宿のスタバですか? 実は僕もそこにいるんです』と連絡があった。店内を見渡すと窓際の席に青いニット帽を被った二十代前半の男性がこちらを見て手を振っていた。
 ずっと会ってみたかったんです、たまたま会えるなんて奇跡ですね、と偶然を強調しながらタケシは向かいの席につき話しかけてきた。しかし、その前に置かれていた新作のフラペチーノにはまだ口をつけた形跡が無かった。
 タケシと隼人は同い年だった。隼人と同様自撮りを定期的にTwitterに載せていたタケシには、可愛らしい顔立ちのお陰で隼人程ではなかったがそれなりのフォロワー数がついていた。こちらのTwitter界隈では有名なうちの一人に入ると隼人は感じていた。
 それから何度か二人で出かけた。二人で出かける際は画像付きのツイートをつぶやくことを欠かさなかった。二人で同じ場所にいることは直接的には明言せず二人のツイートを詳細に見比べると同じ場所にいることがわかるような、いわゆる匂わせツイートを二人で散々投稿した。そして昨年のクリスマスにタケシから告白され隼人は承諾した。『偶然の出会いから一ヶ月。大切な人と付き合うことができました』と二人のキス画像付きのツイートをタケシが投稿し、隼人はそれに対し『これから共に歩んでいこうと思います』とコメント付きのリツイートをした。おめでとうございます!お似合いですね!……何十件も来る返信やいいねに隼人はこれまでにない幸福感を感じていた。

「食べる前に写真取らなきゃ」
 タケシはスマホを手に取りお弁当と桜が見えるようなアングルで写真を数枚撮っていた。
 タケシと付き合いだしてからフォロワーは目に見えて増えた。特に若い女性が増えた印象だ。二人の薬指に指輪がはめられた写真、夕焼けで手をつないだ二人の影の写真、二人きりのエレベーターでキスをしている写真……。ツーショットの単純なエモい写真を載せるだけで反応は段違いだった。
 タケシと一緒にいるときにはこれからどんなツイートをするかということが常に頭の中にあった。二人の時間はその言葉通りの意味ではなくフォロワーたちからのいいねを貰うためのネタ集めの時間だった。タケシは隼人にとっていいねを稼ぐためのアクセサリーのひとつだった。
 こういったイベントもタケシがすべてセッティングしてくれる。レジャーシート含めその上に並べられているちまちまとしたこのお弁当もすべてタケシが持ってきたもので、隼人が今日持ってきたものは何もなかった。
 幸せそうに写真を撮っているタケシを見て、隼人はあの時東京タワーの展望台で感じた高揚感が今自分の中にあることに気がついた。

 強風もあって二人は一時間もしないで代々木公園を後にした。山手線が下に走る神宮橋を渡っているとタケシがこの後目黒川の桜見に行かないと誘ってきた。それと同時に隼人のスマホが振動した。
『今夜いける?』
 スマホにマッチングアプリの通知が表示される。サトシさんからだった。
「タケシ、ごめん、この後予定あっていけないわ」
 隼人はそう告げるとタケシは、そっかじゃあ仕方ないね、と言って詮索しなかった。
 サトシさんに返信をする。『いけますよ』
 
 御茶ノ水駅の聖橋口改札を左に出て直進してくと、左手の眼下にあった線路がいつの間にか古めかしいレンガ造りの高架になっていた。神田郵便局の交差点を左折した先にある神田川を渡る橋の上からは、きれいに二方向に分岐した高架の路線と夜空に輝くオフィスビルが見えた。
 サトシさんの家はこのすぐ先のマンションの一室だった。橋を渡りマンションに入り502のボタンを押す。入って、との声と共に自動ドアが開いた。
 エレベーターで五階に上がり鍵のかかっていないドアを開くと微かなディヒューザーの香りが含まれた空気が顔にかかった。額縁にはめられた絵画が掛けられている廊下の先からはリビングのオレンジ色の光が漏れていた。玄関のドアを閉めると部屋着姿のサトシさんが奥から出てきた。
「ごめんね、また急に連絡しちゃって」
「いいですよ。嬉しいです」
 四十三歳にも関わらず部屋着姿の上からでも身体のシルエットが引き締まっていることがわかる。千代田区外神田にある1LDKのこのマンションに来るたび、なんだか自分が洗練されるような気がした。
 タケシがアクセサリーだとしたらサトシさんはなんだろう、と隼人は考えていた。
 リビングに入りソファに座るとそのままキスを始める。タケシとするキスとは全く違うベクトルのキスだった。いつもの香水の香りが鼻に届き性欲が刺激されるとともに、冷静な自分がそこにいるのが分かった。
 服を脱ぎ下着姿になりながらも隼人は考えていた。都合のいい時に呼ばれセックスをするためだけの存在。隼人はサトシさんの素性をほぼ知らない。性欲解消のために会うという一義的な目的があったがそれ以外にもサトシさんと会う目的があるような気がしていた。
 タケシの向こう側には常に観客がいた。隼人はその観客から拍手をもらうために完璧な演技をしていた。それに対してここは舞台裏だった。隼人にはサトシさんとのセックスが自分を唯一さらけ出せる場所のような気がしていた。観客がいない性欲だけでつながっているこの関係性が隼人にとって真の自分を体感できる唯一の場所だった。

「今日は泊まってく?」
「うーん、明日仕事なんで、ちょっとしたら帰ります」
 シャワーを浴び脱衣所から出てくるとサトシさんがキッチンの換気扇の下でタバコを吸っていた。
「そっか、忙しいところありがとね」
 サトシさんは強く引き止めるようなことをする人ではなかった。隼人が泊まりたいと言えば受け入れてくれたし帰りたいと言えばそれに従った。
 なんとなくだがサトシさんはセックス中だけではなくセックス後のこの時間も楽しんでいるのではないか、と隼人は思っていた。しかし表情をあまり表に出す人ではないので実際のところどう思っているのかは測りかねた。
 下着を履いてソファに座りスマホをとる。Twitterを開き確認するとタケシが日中に投稿したツイートにはいいねが五百件ほどついていた。よくもまあこんなどうってことない写真にこんなに反応できるよな、と隼人はタケシや自分のフォロワーに対して感心していた。
 タバコを吸い終わったサトシさんがウォーターサーバーから水を持ってきてくれた。隼人はそれを飲みながら続けてTwitterを見る。セックスの後はいつも大体こんな感じだった。サトシさんは隼人の隣に座りテレビを眺めていた。特に会話はなくテレビの音とセックス後のけだるい雰囲気が室内に充満していた。
 サトシさんの横顔を改めて見る。サトシさんは自分から話はあまりしないし無表情が多かった。隼人はサトシさんが何を考えているのか知りたかった。ただ、この雰囲気も好きだった隼人は自分からサトシさんに対して色々と質問することはしなかった。
 隼人はサトシさんの肩に頭を預けた。預けられた頭にサトシさんの手が伸び軽く撫でられる。
 自分のことをしっかりと見てくれているように感じた。ここには、いいねの数や観客の目で定義される関係性はない。Twitterの自分ではない自分をサトシさんはしっかり認識してくれている。それがとても安心で心地よかった。隼人はセックス中から考えていたことについてそう結論づけた。
 ソファに座った二人は笑うでもなく無言でテレビから垂れ流されているバラエティ番組を見つめていた。隼人は時々クスッと笑ったがサトシさんはじっとテレビを見たままだった。

 水を飲み終えると、隼人は身支度をして玄関に向かった。
「忘れ物ない? 今日はありがとね」
 サトシさんの目にはこころなしか寂しさが浮かんでいるような気がした。
「いえ、こちらこそ、また」
「またね」
 玄関のドアが閉められるとディヒューザーの微かな香りが途切れ春の少し湿っぽい夜の街の匂いがした。

   *

 トレーニングベンチに座りながら鏡越しに自撮りをする。ジム来たよ、と自撮りのツイートを載せるとその直後からいいねの反応が来た。
 夜の少し遅い時間であったが来館者は多く皆思い思いのトレーニングに励んでいた。隼人は平日の仕事終わりに気力があれば中野駅近くのこのジムに来るようにしていた。もちろん、ジムに来た際は自撮りを欠かさない。というよりは自撮りのためにジムに来ているといった方が正確だった。ここにはいつも一時間くらい滞在するが、はじめと終わりのストレッチをダラダラと行い、最初にベンチに行き自撮りをした後ダラダラとトレーニングをする。トレーニング中もTwitterで返信しながら行うので実際にトレーニングをする時間はおそらく十五分くらいである。
 後ろからした咳払いに気づき顔を上げた。ベンチを見渡すと先程まで三台空いていたベンチがすべて埋まっており、咳払いをした男性がダンベルを持って後ろに立っているのが鏡越しに見えた。
 隼人は気にせずTwitterをしながらトレーニングを続けた。すぐに右隣のベンチが空いたので後ろに立っていた男性は機嫌が悪いことを見せつけるように早足に空いたベンチに座りトレーニングを始めた。
 今日は特に人が多かった。他の種目のマシンもほぼ占有されており空いているものはあまり無かった。マシンの種目もいくつかやろうと思っていたが、自撮りできたので今日はこれで終わりにしてしまおうと思った。
 ベンチでのトレーニングを終えると、ストレッチゾーンに行きクランチと軽いストレッチをした後、更衣室に向かった。今日も実質のトレーニング時間は十分くらいだった。

 外に出ると雨が降っていた。近くのコンビニでビニール傘を買い中野通りを北上し自宅を目指す。新井の交差点を過ぎると駅前の雰囲気が無くなり住宅街のそれが現れてくる。雨が降り出した中野の住宅街は帰宅する通行人たちと街灯と車の走行音で構成されていた。パラパラと降っていた雨は少し歩いただけで本降りとなり、雨粒がビニール傘にぶつかると大きな音を立てた。
 ふと横に目を向けるとマンションが立ち並ぶ中にぽつんとカフェの立て看板があるのが見えた。こんなカフェあったっけ、と思いながら店構えを見ると最近オープンした様子で、一階がレジカウンターと少しの客席、二階がメインの客席となっているようなカフェだった。白を基調としたシンプルなレイアウトで雨が降っていることもあって客はあまり入っていなかった。
 家に帰っても特にすることはなくなんとなく寝るまでの時間を潰したい気分だった隼人は傘をたたみながら店のドアを開きレジカウンターでホットティーを注文した。
 注文したホットティーを持って二階に上ると一組の男性客しかいなかった。窓側にカウンター席が四席並びテーブル席が四つほど並ぶ、小ぢんまりとしたレイアウトだった。
 窓側のカウンター席には誰も座っていなかったので一番右の席につき荷物と傘を左の椅子に置く。湿っぽい店内にはジャズピアノのBGMが流れており、テーブル席にいる客が会話しているのが聞こえた。
 ホットティーを啜りながらTwitterをチェックする。先程の自撮りには百五十のいいねがついていた。スマホから目を外すと窓から夜の中野通りが見えた。本降りの雨が降っている通りは路面が街灯の明かりに照らされつやつやと光っていた。濡れた車道を車が走り去る音がBGMに紛れてこの二階席にも聞こえてくる。歩道では傘をさした通行人たちが足早に駅と反対方向へ通り過ぎていく様子が見えた。通行人たちのビニール傘の端からは雫が流れるように滴っていた。
 ぼんやりと窓の外の風景を見ている中で、あの高揚感が隼人の中にあるのがわかった。
 隼人は何となくこの高揚感の理由がわかった気がした。

   *

 エレベーターの扉が開くと眩い光が飛び込んできた。扉の向こうの一面のガラス張りからは真っ青な青空が見えた。
「うわ〜!きれい〜!いこいこ!」
 タケシはエレベーターに乗る前から興奮気味だったが展望デッキについた瞬間からさらにハイテンションとなった。今回はタケシの要望でスカイツリーに行くことになった。隼人もタケシもスカイツリーには行ったことがなかったので今度の休日はそこに行きたいというタケシの強い要望だった。
 高いところが好きな隼人自身もやや乗り気だった。事実エレベーターで展望デッキに登っている最中、高度が上昇していくことを示す液晶パネルを見つめながらワクワクした気持ちになっていた。
 先に行ってしまったタケシについていく。休日のスカイツリーの展望デッキはかなりの混雑だった。窓際にはぴっちりと人が張り付いていてなかなか空いている場所がみつからない。
 タケシを追いながら少し歩いたところでちょうど二人分のスペースが空いていた。
 やっとの思いで窓際に行くと今まで青空しか映し出されていなかったガラス張りの窓に地上の構造物が初めて映し出された。
 見下ろして最初に目に飛び込んだのは川だった。蛇行している川にいくつもの橋がかかっている。その脇には高速道路が川に沿って走っており、とても小さい車が走っているのが見えた。ビル群はとても小さく昔鉄道博物館でみたジオラマを連想させた。小さい頃東京タワーの展望台で眺めた時はもっと高層ビル群が近くにあったような気がした。
 眺めは最高だったのだが高度が高すぎるせいか人は全く見えなかった。
「めちゃくちゃキレイだね〜! とりあえず写真撮ろ!」
 タケシはツーショットの写真を何枚か撮った。隼人は画面に映る自分をチェックしながら顔を作ることを忘れないようにした。
 写真を撮った後また二人で眼下の景色を眺めた。隼人はあの高揚感を感じられると思っていたがそれが自分の中に無いことに気がついた。
 眼下の絶景を眺めているタケシを横目で見る。タケシは眼下の景色を眺めながら先程撮った写真を早速ツイートしようとしていた。
 隼人はその様子を見ながら、タケシと自分は同類なんだろうな、と思った。隼人がタケシの背後の観客を見ているようにタケシも同じように自分の背後の観客を見ている。タケシと自分が繋がっているのは愛でもなんでもない、観客の目線と拍手だった。
 そもそも、自分とタケシは繋がっているんだろうか。付き合っているからといって安易に繋がっていると解釈してしまっていいんだろうか。自分とサトシさんとは繋がっているんだろうか。繋がっているとは――?
「すごい、もう五十いいねついたよ。みて」
 タケシが誇らしそうにTwitterの画面を見せてきた。Twitterが無かったら自分たちは絶対に付き合ってないだろうな、と隼人は感じた。

   *

 いつものようにソファに座りながらウォーターサーバーの水を啜っていた。サトシさんは換気扇の下でタバコを吸っている。
 何気なくつけられたテレビから発されるバラエティ番組の笑い声が部屋のBGMとなっていた。隼人はTwitterをみながら時間を潰していた。
 隼人はこの時間が好きだった。セックスが終わった後、二人の本来の目的が終了してしまった後のこの時間、何をするでもなく二人が同じ空間に居続けていることがとても心地よかった。
 ソファからはダイニングキッチンに立ちタバコを吸っているサトシさんの横顔が見えた。相変わらず無表情だった。
 隼人は最初にサトシさんと会った日のことを思い出していた。マッチングアプリでメッセージを数回交わした後、その日にセックスしようということになり隼人がサトシさんの家に行った。
 サトシさんの第一印象は家とルックスで構成された。今まで他の人の家にセックスに行くことは幾度となくあったがサトシさんの家は今まで行ったどの家よりも洗練されている気がした。そして、サトシさんのルックス――マッチングアプリの写真通りの精悍な顔立ちだったし、何より四十を過ぎたとは思えない体つきは隼人にとって驚愕だった。そもそも四十過ぎの人とヤリモクではあまり会わないということもあったが。
 その後もサトシさんから呼び出しがあったら隼人がサトシさんのマンションに行ってそのままセックスをするのがルーティンとなっていた。セックス後の時間でもお互い雑談をするということは最初からあまり無かった。隼人はそれが心地よかった。
 そう思えば最初に会ったときからサトシさんとの関係性は表面的には変わっていなかった。隼人の方は最初は性欲解消目的だったが、その目的がだんだんと変質していることを自覚し始めていた。サトシさんはどう思っているんだろう? 最近はそういった思いが首をもたげていた。
 サトシさんは単純に自分がタイプだから自分とセックスをしているんだろうか?
 セックス目的で会ったのだから普通に考えればそうなのだが、最近サトシさんとセックスをしているとどうもこの疑念が頭から離れない。サトシさんの無表情から何かを読み取とろうとするが、何も読み取れなかった。
 タバコを吸い終わったサトシさんが隼人の隣に座った。メンソールのタバコの残り香がふわりと顔にかかる。
 サトシさんは足を組みテレビを見つめながら言った。
「昨日の自撮り可愛かったね」
 隼人は不意を付かれてサトシさんの方を見た。
「え、サトシさん自分のTwitter知ってるんですか?」
「うん? 言ってなかったっけ?」
「いや、最初会った時Twitterとかはやったことない、って言ってたから……」
「ああ……。それは他の人とやりとりはしないって意味でアカウント自体は持ってるんだよね。君すごい有名人だから一回やってみたくてマッチングアプリで声かけたんだよ」
「そうなんですか……」
 サトシさんは、テレビを見ながら淡々と話していた。
 淡々としているサトシさんと対称的に隼人はなんとも言えない気持ち悪さを感じていた。さっきまで感じていた居心地の良さが嘘のように消えてしまい居ても立ってもいられなくなった。
 隼人は半分残っていたグラスの水を一気に飲み干すと、帰り支度を始めた。

 サトシさんのマンションを後にし神田郵便局の手前の橋で立ち止まった。分岐した路線を眺めながら手すりに寄りかかり自販機で買ったホットコーヒーを開ける。
 ちょうど中央線と総武線の電車が奥から走ってくるのが見えた。神田川の水面に車窓から漏れた光を反射させ騒がしい走行音をたてながら二つの電車は隼人の左右両側へと分岐し後方へと走り去っていった。
 結局サトシさんも観客だった。この事実が隼人をひどく空虚な気持ちにさせた。今振り返ると、サトシさんとのあの関係は唯一の人との繋がりだったように思った。演技をしている自分ではない自分を見てくれている人がいるという絶対的な安心感がそこにはあった。
 そして、あの高揚感――あの高揚感は演技をしている自分に拍手をしている観客を見て自分が上にいると感じられることで得られる優越感だった。あの東京タワーで見た米粒みたいな人々をTwitterを通して見て嘲笑していたということが今になってはっきり隼人にはわかった。
 隼人の周りにいる人はみんな米粒になってしまった。隣にいる人は最初から居なかった。それに気づいた。
 手に持っていた暖かかった缶コーヒーはすっかり冷めてしまった。
 隼人は、初めて寂しいと感じた。

   *

『ねえ、急にどうしたの? 一回会って話そうよ』
 ベッドの脇のサイドテーブルにおいてあるスマホが振動し画面にメッセージが表示されているのを薄目で眺める。タケシからのLINEのメッセージが昨晩からひっきりなしに来ていた。まだ返信していない。
 まぶたは重く身体もだるかったが、頭は不思議とスッキリしていた。
 カーテンで閉じられた寝室の窓からは外の明かりが少し漏れ出し、今日が晴れであることがなんとなくわかった。
 常夜灯の明かりの中ベッドに横たわりながらぐるぐるといろいろな事を考えていたら、いつの間にか朝になってしまったようである。色々なことを考えたが結局結論めいたものは出なかった。
 今まで家ではほとんどつけていなかったテレビをつけてみた。黒かった画面が明るい青空とテロップを映し出した。テレビの中では女性キャスターが今日の天気を解説していた。
 普段はベッドで寝ながらスマホをダラダラと見つつ起床するのだが、今はできるだけスマホを見たくなかった。
 改めて自分の部屋を見回してみるとスマホ以外に暇を潰せるものがほぼほぼ無いことに気づいた。自分の生活の中心がそれであったことが今振り返ってみるとよくわかった。
 今日は自分の目で世界を見てみよう、と隼人は思った。

 昨日あの橋の上でTwitterのアカウントを削除しタケシには別れを切り出した。
 タケシは突然の出来事でパニックになっているようである。それもそのはずである、隼人からは何も説明していない。
 繋がっていたと思っていた人も隼人の一方的な思い込みだった。その人も隼人が嘲笑の笑みを浮かべながら高いところから蔑んでいたあの観客たちの一人だった。この事実に隼人は半分打ちのめされていたが、その一方で米粒として眺めていたあの人々と繋がりたいという気持ちがふつふつと湧いてきた。
 スマホを家に置いたまま外に出ると、カラッとした空気とともに朝の気持ちいい光が目に飛び込んできた。今までスマホとこんなに離れたことがなかったのでそわそわした気持ちになる。しかし隼人はその気持ちも含めて楽しんでいた。
 今日はタケシと吉祥寺で古着屋をまわる予定だった。でももう行かない。それは自分が行きたいところではないから。
 Twitterを辞めて初めて、自分のやりたいことがなんであったかということを考えさせられた。自分のやりたいことはなんだろう、と考える自分が少し悲しくもあったが同時に新しいことをはじめられそうな予感もしていた。
 なんの気なしに外に出てみた隼人はゆっくりと家の周りを歩き始めた。なんとなく今まで見ていた景色と違っているように感じた。
 少し歩くと、路地の向こう側の小さな公園の敷地から桜の枝が飛び出しているのが見えた。あそこに桜があるということ気づいていたが、いつも通り過ぎてしまっていた。隼人は桜の下に行き、そのひと枝を見てみた。桜の花は大方散ってしまい、小さい新緑の芽が枝から顔を覗かせていた。小さな公園には誰もいなかった。風が吹くと桜の地面に落ちていた桜の花びらが小さなピンク色の渦を巻いていた。さらさらとした風の音と爽やかな春の朝の匂いが心地よかった。
 何にも無くなってしまったけど不思議とわくわくしていた。これからは人と繋がれる、という根拠のない想いが隼人にはあった。
 朝何気なくつけたテレビの天気予報では今日は初夏ほどの最高気温となると言っていた。まだ午前中の早い時間であったが日向を歩いていると少し汗ばんでしまうほどの陽気だった。

 ぶらぶらと歩いていると路地は中野通りにぶつかった。その角を曲がるといつか雨の日に入ったシンプルなカフェがあった。以前訪れたのが雨夜だったため改めて見ると印象がだいぶ違った。テラス席があるのには気づかなかった。
 隼人はドアを開け入店しアイスコーヒーを頼んだ。
 入り口でアイスコーヒーを待ちながら春の陽気に包まれた中野通りを眺めた。通行人がこころなしかゆっくりと歩いているように見えた。バスが通り過ぎると街路樹の新緑が少し揺れた。あの日に見た中野通りとは全く別の場所のように感じた。
 今日は二階ではなく一階のテラス席に座ろう、と隼人は思った。

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