その人の才能はオーバースペックな「過剰さ」に表れる。
note(ノート)の方では、できるだけproactiveなことを書きたいと思っている。
ある編集者の方が、才能の一つの表れは「過剰さ」にあると言ったことがある。
確かに、何かを生み出すということは、その何かを生み出すぎりぎりのところに達するエネルギーだけがあるのではなく、そこからあふれでいる、まさに源泉かけ流しの状態があって、そこからうまく絞り込んで「にがり」を入れて固めたものが世間で見るその人の作品になっている。
それで、世間は、往々にしてその人=作品だと思いがちだが、才能のある人ほど、そこから溢れてしまっているものがある。
もし、世間で流通し、認められる何かを生み出すことをその人の「スペック」だとすると、才能がある人はすべて「オーバースペック」だということだ。
以前、パリのピカソ美術館に行ったとき、ピカソがほんとうにいろいろなものをつくっているので笑ってしまった。
ダンボールに蝶を貼り付けたり、散歩をしている途中で見つけた鉄くずでへんな動物みたいなものをつくったり、ピカソの作品として世の中に流通させることもさすがにできないだろう、みたいなヘンなものをたくさんつくっていた。
だからこそのゲルニカであり、青の時代なのだ。
夏目漱石が難解で緻密な文学論を書いたり、俳句をつくったり、下手くそな絵を描いていたことはよく知られている通り。
養老孟司さんというと世間では「唯脳論」や「バカの壁」が「スペック」だと思っているかもしれないが、いつもキンドルを持ち歩いていて、そこには大量の英語の探偵小説が入っていて、あっという間に読んでしまう。
英語で探偵小説を読む「オーバースペック」な養老孟司を世間はあまり知らない。
もちろん養老さんの大好きな昆虫、特にゾウムシは言うまでもない。
人間はオーバースペックでいい。何のためにこんなことをやっているかわからないようなことがあっていい。
それがその人の肥やしになる。腐葉土になる。
こう書くと、オーバースペックなのは特別な人だけだろうと思うかもしれないけど、そんなことはない。
ヒント。子どもの頃のことを思い出そう
とりあえずこうやってメモしておきます。