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中学受験対策を中心とした「学びの指導者」が、1100年の時を超えてあの「学問の神様」に導かれていたことを知る話。

今回の話は先日投稿した以下の記事の続きである。

この記事をお読みでない方は、先にこちらの記事をお読みいただくと、より今回の話の流れがわかりやすくなると思う。

前回の話はサブタイトルにもあるように、様々な「38」が私を後押ししているという話だ。

あの話を客観的に見れば、起こった「偶然」を自分に都合良く解釈することによって、前に進む気持ちを生み出そうとしているようなところがある。

私個人としての驚きを超えるレベルで驚かれた方はほとんどいらっしゃらないだろう。

たまたま数が一致しただけじゃないかと冷めた見方をする方も少なくないはずだ。

前回の話はそう思われても仕方のないくらいにこじつけ的な要素も大きいのだが、今回はそんなレベルの話ではない。

今回の記事もある程度下書きはできていたのだが、調べを進めるごとに次々と今まで知らなかった事実が判明した。

またもや驚きの「偶然」と不思議過ぎる「縁」が見つかったのである。

にわかに信じがたいレベルの話と言って良い。どんどんハードルを上げてしまっているが、それくらい稀有な話だと思う。


ここから前回の話の続き。

湯島天神でのあまりの「偶然」に驚いたわけだが、その参拝の帰り道、いろいろなことを考えた。

菅原道真公を祀る神社としては私の自宅からは亀戸天神の方が近いのにも関わらず、湯島天神にこだわっていたのも何かの「縁」なのだろうかと。

湯島天神にこだわっていなければ、「38」という数をここまで意識していない。

先の記事でも述べた様々な「38」にまつわるものに気づき、あらためて今が人生のターニングポイントであるように感じた。

その上で何か他に考えること、知っておくべきことがあるのだろうか。


そこで思い出したのが京都で一人暮らしをしていた大学時代のこと。

これは大学卒業後、かなりの時間が経ってから気づいたことなのだが、2年生から卒業時まで3年間住んでいた自宅の近くに、「菅大臣神社」という菅原道真公とゆかりのある神社があった。

いつ気がついたのかと言えば、それはコロナ禍の時期。3,4年前だろう。

なかなか外出できない状況ということもあり、その頃はYouTubeの「街歩き動画」をよく見ていた。

京都の街歩き動画も頻繁に見るようになり、当時住んでいた場所もなんとなく気になったのでGoogleマップであらためて地図を見てみた。

すると当時の自宅の近くに「菅大臣神社」という場所があるのを見つけた。

しかしその時は「へ~、そうだったんだ」くらいにしか思わなかった。

そういう神社はたくさんあるのだろうし、特に大きな驚きはなかった。

そんな感想だったため、特に詳しく調べようともしなかった。

この頃にはすでにこのブログも書き始めているため、大きな驚きがあれば記事として書いていたことだろう。


【一つ目の驚き】

湯島天神での参拝後、この「菅大臣神社」について調べてみることにした。

さすがに菅原道真公ともなると、全国にゆかりのある神社は1万以上あるらしいのだが、この神社はそれらの中でも特に由緒正しき神社である「菅公聖蹟二十五拝」および「洛陽天満宮二十五社順拝」の一つであることがわかった。

それもそのはず、この地はかつて道真公の邸宅があった場所とのこと。

遣唐使を廃止したことで有名な道真公だが、宇多天皇に重用され、醍醐天皇の時代には右大臣にまで上りつめたものの、昌泰の変により大宰府に左遷され、そこで生涯を終える。

菅大臣神社があるのは、道真公が大宰府に左遷される前に住んでいた邸宅の跡地なのだ。

また諸説ある中の一つではあるものの、菅原道真公生誕の地ともされている。

その神社は当時私が住んでいた家の本当に近所で、自宅のあった区画と道一本隔てたような区画。おそらく徒歩2分くらいの距離でしかない。

しかし家から駅へと向かう方角とは違っていたため、また今思うと実にもったいない話だが、当時は近所を散歩するような習慣がほとんどなかったため、そこに3年間住んでいたにも関わらず、全くその存在に気づいていなかった。

今のようにGoogleマップのようなものでもあれば、その存在にすぐに気づけていたことだろう。

神社の名称だけでなく、その区画の町名も「菅大臣町」ということなので、非常に目につきやすい。

神社の写真を見ながら大学生当時の記憶を辿ってみると、さすがに見かけたことくらいはあるような気もするが、それほど規模の大きい神社ではなく、まさかそんな由緒正しき神社だとは夢にも思わなかった。

やはり京都という場所に住むと、そのあたりの感覚が麻痺する。至る所に歴史的価値の高い場所や建造物が存在している。

当時の自宅の正面にも連日観光客や修学旅行生が押し寄せるような重要文化財があったり、菅大臣神社とは反対の方向に家から5分ほど歩くと、あの「本能寺の変」が起きた場所があったり。やや時間はかかるものの二条城や清水寺も徒歩圏内。

祇園祭のエリア内でもあり、祭りの当日はあまりの人の多さで駅までの時間が普段の数倍かかり、家庭教師のアルバイトに遅刻しそうになったこともあった。

学生時代、歴史への興味が強く日本史が大得意であった私でも、実際にそこで暮らしていると、そういった歴史的価値の高いものが日常の景色に溶け込むようになってしまっていた。

今思うと本当に贅沢な話である。

卒業後、特に40代になってからは、大学生当時に京都という場所にいながら非常にもったいない4年間を過ごしてしまったものだと痛感するようになった。

あまり後悔をするタイプではないのだが、京都をくまなく散策しなかったのは人生における数少ない後悔のうちの一つかもしれない。


実はこの場所に住むことになったのにも、奇跡的なめぐり合わせがある。少しでも何かのタイミングがずれていれば、ここに住むことはなかった。この記事を書くこともなかったことになる。

世の中全てタイミングが関わっているとはいえ、このタイミングはなかなかのもの。

数分、いや数秒レベルのタイミングのおかげでこの地に住むことができた。このあたりの詳細についてもまた別の機会に書こうと思う。


【二つ目の驚き】

ここまで書いた上で、間違ったことを書いてはいけないなと思い、あらためて当時住んでいた場所の周辺を詳しく調べていたところ、さらなる大発見があった。

大宰府左遷前に菅原道真公が住んでいた邸宅は、「白梅殿」と「紅梅殿」という二つ。

「白梅殿」の方が現在の「菅大臣神社」であり、そこが先に述べた通り当時の私の自宅から徒歩2分くらいの場所。

そして実は「紅梅殿」の方は当時の私の自宅と同じ区画内だった。

その当時の道真公の地位からすれば、おそらくその区画一帯が紅梅殿の敷地だったのだろう。

大宰府左遷にあたって詠んだ以下の句

「東風吹かば 匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」

この句を詠んだ地としても有名とのこと。まさに道真公が大宰府左遷前に暮らしていた場所なのである。

菅原道真公が約1100年前にそこで暮らしていたということ。時を超えてほぼ同じ場所で私も暮らしていたということ。

そのご利益を授かっているのだとすればこの上なく有難いことである。


【三つ目の驚き】

二つ目の驚きだけでも十分だったのだが、すぐに三つ目の驚きが襲ってきた。

「紅梅殿」の書斎である「山陰亭」では、主に中国史を扱う紀伝道の講義が行われ、そこで学ぶ塾生から多数の官僚試験合格者が輩出されたとのこと。

後世には「菅家廊下」という呼称で伝えられることになるこの場所は、菅原道真公が主宰する塾だったらしいのだ。

なんという「偶然」と「縁」なのだろうか。

藤原道長や織田信長といった歴史上の大偉人が住んでいた場所に私が住んでいたとしても、驚きはするが、私にとっては特に縁を感じるものではないだろう。

しかし現代において学びの指導を生業とし、塾の運営に携わっている私にとっては、日本の歴史上唯一無二の「学問の神様」との「縁」を感じざるを得ない。

学問の神様が暮らしていた場所、そして学びを授けていた場所で私も暮らし、その私が後に学びを授ける仕事に携わるようになったのだから、本当に奇遇なものだ。

この区画には公園があり、大きなマンションが建っているわけでもなければ、そこまで家が密集しているわけでもない。そもそもそれほど多くの人が住んでいるわけではない区画なのである。

だとすると、ここで暮らした経験があり、なおかつ学びを教えるべく塾を開いた経験もある人というのは極めて少ないことが予想される。

何らかのご加護があることを期待したくなってしまうところだが、ここまでの事実を知ってしまった以上はより一層気を引き締めて、「学び」を伝えることに力を注いでいきたい。

中学受験対策を中心に指導しているとなると、菅原道真公という「学問の神様」との関わりは合格祈願という部分での関わりだと思われるかもしれないが、私としては「学び」というものへの真剣な思いがある。

学びが人を変え、世の中を変えていく。

そう信じて指導にあたっている。

一般的な受験対策とは一線を画した「学び」を提供してきたし、これからもさらなる「新たな学び」の形を提案していきたいと考えている。

そういう真剣な思いがあるからこそ、ここまで述べてきたような「偶然」との出会いが嬉しかったのだ。


指導者になった後、導かれるように湯島天神へと足を運ぶようになり、キャリアの節目となるような教材作成にまつわる「38」という数が、湯島天神参拝のためにいつも上っている石段の数と一致した。

そして今回述べてきたような「偶然」との出会いがあった。

他にもまだまだ「偶然の一致」や「ただならぬ縁」を感じる事実があるのだが、あまり多くのことを書きすぎても話のまとまりがなくなりそうなので、「驚きの発見」についてはここまで。


【「驚き」の序章】

大学時代のエピソードで思い出したことがあるのでそれを一つだけ書いておこうと思う。

私の指導者としての入り口は、大学時代の家庭教師のアルバイトであると言えるだろう。

その経験があったおかげでこれまでのようなキャリアを積み重ねることにつながった。

大学時代のアルバイトとして家庭教師は非常にポピュラーであり、入学直後には大学にも数多くの家庭教師派遣会社の方がアルバイトの勧誘に来ていたため、私もかなり軽い気持ちでその場で登録を行い、軽い気持ちで会社からの連絡を待っていた。

しかし京都という街は大学が多いこともあって、家庭教師が供給過多。しかも私自身は家庭教師にこだわっていたわけでもなく、1社にしか登録していなかった。

その1社も大手の会社ではなかったため、なかなか指導の依頼が来なかった。

そんな中、家庭教師のことをほとんど忘れていたような時期に、突然その会社から連絡があった。

依頼内容はある意味京都らしいもの。お寺のご住職の中学生のお子さんの指導ということだった。

家庭教師の登録をしたのは大学の近くだったため、指導契約の際に初めてその会社に赴いたわけだが、そこで「驚き」があった。

実は「この驚き」が今回の記事で語ってきた「驚き」のルーツと言えるかもしれない。

その会社は、契約したばかりの物件のすぐ近くにあったのだ。

たしかに会社のある「四条烏丸」という場所はオフィス街でもあり、他にも家庭教師の派遣会社はあるのだが、間違いなく2年生時から暮らした自宅から最も近い会社だった。

今はその会社は無くなっており、正確にどの場所だったのかを調べることはできないのだが、私の記憶が確かならば「白梅殿」、現代の「菅大臣神社」にかなり近い場所だったように思う。

あの物件の契約直後に、道真公と深いゆかりのある地に近い会社からの依頼で、私の指導者としての道が始まっているのだ。

あの当時はまさかこんな未来になっていると想像できるはずもない。


日々生活している中で見過ごしている「偶然」や、紙一重のところで出会うことのなかった「縁」も数多くあるのだろう。

だからこそ人生は趣深い。運良く気づけた「偶然」や、出会うことのできた「縁」は大切にしたいものである。


私との出会いが何かが好転する「きっかけ」になった。この仕事を続けていると、そういう言葉をいただく機会は多い。

この記事を何気なく読まれている方の中にも、これが何かのきっかけになる、そんな「偶然」や「縁」があるかもしれない。

この記事もこれまでの記事も、そんなことを思いながら書いてきた。

知識を与えるだけでなく、先につながる「きっかけ」や「ヒント」を与えること。

それが指導者の務めだと思っている。


【別の「驚き」はまたの機会に】

いろいろと調べるうちに何段階も驚きの層が積み重なって、最終的にはなんだかよくわからない複雑な感情になった。

あまりにも出来過ぎた話なので、ブログに書くと嘘くさくなるのが困るなあとも思った。笑

そんなわけで今回もいくつかの話は割愛しようと思う。ここに書いたこと以外にも道真公との妙なつながりがいろいろとあった。

日本はこんなに広いのに、これだけたくさんの街があるのに、私と深いゆかりのある場所なんて数えるほどしかないのに。どうしてそんなにピンポイントで……。

そんな話はまたの機会に。

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