男前すぎて映画を破綻させてしまうアラン・ドロンについて
久しぶりにアラン・ドロンの映画を観たら男前すぎて2重にびっくりしました。ひとつはめちゃくちゃ男前であること。もうひとつは、男前すぎて映画が成り立たないこと。観たのは2本。
1本は『暗黒街のふたり』です。共演はジャン・ギャバン。アラン・ドロンさんはかつて銀行強盗をやらかして服役し、更生しようとしています。保護司としてギャバンさんがあたたかく見守ります。
二人の関係性は親子のようです。それは良いんです。それは良いんですが、アラン・ドロンさんがもうヤバい。
ヤバいというかずるい。かっこよすぎです。なにもしてなくてもかっこいい。出所後は印刷工の工員として働きます。普通に働いてます。こんなかっこいい人が普通に働いてる、ということが不自然なんです。オーラ出まくり。こんな一般人いないよ、と。元モデルか役者だろうと思ってしまいます。元犯罪者という設定がぜんぜん頭にはいってこない。
いっそのこと前科者じゃなくて元モデルか元役者という設定にしてほしかった……。ところがそうすると、更生しようとしている前科者の悲哀が描けない。映画として成立しなくなってしまうんです。
というわけで元受刑者の若者の物語として素直に観ることができず、かといって元モデルという裏設定で脳内変換することもなく、アラン・ドロンさんの映画として観ることになりました。
もう一本は『サムライ』です。
アラン・ドロン先輩が殺し屋という役柄です。殺し屋なんですが、犯行現場で顔とシルエットと複数の人に目撃されてしまう。その後あっさり警察につかまり、面通しを受ける。
大丈夫なのか、と思いました。
だってやたら目立つんですよ。トレンチコートとハットがあまりにも決まりすぎていて。あんな男前を見たら目に焼き付くよ、と。
なのでほとんどの人がアラン・ドロンを現場にいた人として証言します。そりゃそうです。展開としては説得力あります。顔をおぼえてないといったら嘘くさいです。でも、いいのかなと。変装しろよ、コートのエリ立てるなよ、もっと地味な服装しろよ、そんなに目立ちまくって殺し屋としてどうなんだ、とかいろいろと気になってしまいました。
この『サムライ』、画面に緊張感が漂っていて、監督とアラン・ドロンさん、ふたりの神経質ぶりがビシバシ伝わってきます。
オープニングにはこんな字幕が。
「サムライの孤独ほど深いものはない。さらに深い孤独があるのは密林の中の虎だけだ」武士道より
虎? 日本っぽくないと違和感を感じたところ、監督のジャン・ピエール・メルヴィルさんのインタビュー集(「サムライ ジェン=ピエール・メルヴィルの映画人生)を読んだらこんなことが書いてありました。
「日本人は、あれは私がでっち上げたものだとは知らないんだ!」
けっこういい加減。