三日坊主日記 #10
三日坊主と称した甲斐があった。やはり継続は難しいのだ。
記念すべき10回目の日記、どれを話題にしようか。
などと前置きを置くがもう決まっている。二年弱付き合った彼女と別れた。ふったのは私からだった。失恋ダメージが無いわけではないが、二年弱付き合ったにしてはあまりにもダメージが少ない。
痛い、少しは痛いのだ。だが同時にあっけなさを感じている。好きだったことは確かなのだが、もう以前ほど好きではなかったのだろう。
客観と擬似的な平等の視点を捨ててここからは主観のみで書いてみることにする。
彼女の性格が変わってしまった。原因はたぶん、彼女が[成功]に溺れたからだ。
彼女と私は部活が同じだったのだが、私が色々あって辞めてしまった。理由は他だけでなく自分にもある。自分がどこか気づかない所で、慢心と無理があった。アクセルを踏みすぎた結果コーナーを曲がりきれず、ガードレールに何度も激突しクラッシュ。一発ドカンと突っ込んでしまえば終わりのF1のような人生じゃなかっただけ優しかったのだろうが、自分自身を制御し切れなかった。自分の力量を超えたようなことを精神論のみで突っ切った結果、周りに多大な迷惑をかけて蒸発したのである。
言うなれば、人生最大の大失敗だ。
だが、そんな失敗を犯したいまでも、その周りは私を一友人として扱ってくれる。むしろ前よりもずっと親密に。私は仲間、という点ではとても恵まれていたのだ。
それからは、過度に受け取りすぎ、と言われることが少々あるが私はその仲間たちにずっと謝意と敬意と感謝を抱いて接しているつもりだ。
話を戻そう。私がこのように失敗した反面、彼女は成功した。経験と成功体験を積み重ねて自分に自信がついたらしい。とても喜ばしいことだ。
それだけなら良かったのだが、それからというものの彼女の言動にはある種のエゴと肥大した自尊心が見え隠れするようになった。
実際私もそんな道を通ったことがある。なんとなく、感覚的に彼女の気持ちは分かった。
しかしどうしても、彼女にそれを伝えることができなかった。私がなにも言えない立場だったからである。ちなみに彼女の成功に嫉妬心はなにもなかった。辞めてから数ヵ月後には私は部活自体に未練を切れていた。
恥も忍ばずそれを彼女に言うべきだったのか。
言動からにじみ出てくる成功体験への依存が彼女を違った方向に導き、彼女は、彼女と私が以前に嫌っていたはずのナルシシズムに溢れたエゴイストに近づいている。成功体験ほど恐ろしいものはない。
私がその道を通ったときは、たまたま失敗の神様に愛されていたのか、何度も自分を見直す機会が得られた。治療不可まで堕ちることはなかった。だから感覚的には時間をかけて失敗が彼女をもとの道に戻してくれると、勝手に考えていた。
でも私は待てなかった。私は全て許すだけの懐の深い人間ではいられなかった。彼女の私に対する言動行動は愛情の欠くものになっていると感じていた。全て明るくかつポジティブに捉え彼女の言葉のナイフを受け止めていたつもりだったが私は器が小さかったのかもしれない。彼女を許す力量は、なかった。
どうにもできないと感じるようになってからは彼女への幻滅が始まり、愛情を感じることもなくなり、いまに至った。フる勇気のなかったはずの私からついに別れを告げる言葉が出た。ここまで文の繋がっていないような殴り書きを書いたが、原因は彼女だけでなく私にも非があったのだろう。人間、自分の短所など早々気づかない。彼女が気づかないように、私もなにか重大なことに気づいていないのだ。
最終的に、ただ、縁がなかった。そう考えるしかない。
ひどい話だが、私が全てに対してやる気のなくなるようなどん底に落ちる感覚を味わわなくてよかった。少しの間続く痛みだけだ。
先手を打つように言うが、彼女にそれを伝えなかったお前が悪い、お前の責任だ。という意見には全くもって耳を貸すつもりはない。そういうなら、お前が俺の立場になって全く同じ体験をしてみろ。
お前は必ず、俺と同じことを言う。
無理な話だとわかっている、責任感も感じていない訳じゃない。ただ、これに関しては他人の主観を挟ませる余地は絶対に与えない。これが地獄でなければ、なんというのか。
楽しい時間を過ごさせてくれたあの頃の彼女に、多大な感謝を込めつつ、当時の自分をここに供養する。