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長生きすること——自分に課せられた責任です

1955(昭和30)年に歌舞伎座の新派公演で初舞台を踏んで以来、舞台だけではなく映画やテレビなど幅広い作品に出演し、歌手としても活躍してきた水谷八重子さん。今もエネルギッシュな日々を送る水谷さんの元気の秘訣に迫ります。

健康365 2023年7月号より
[みずたに・やえこ]——1939年、東京都生まれ。1955年8月、歌舞伎座の新派公演にて水谷良重の名で初舞台。同時に歌手デビュー後、舞台、映画、テレビに幅広く出演し活躍。1995年、二代目水谷八重子を襲名し、劇団を牽引。『滝の白糸』『日本橋』『婦系図』『鹿鳴館』など新派の古典で魅力を発揮する一方、山田洋次監督の脚本・演出『麥秋』『東京物語』『家族はつらいよ』などの新作でも新たな一面を見せる。主な受賞歴は、菊田一夫演劇賞、松尾芸能賞大賞、芸術選奨文部大臣賞、文化庁芸術祭賞、都民文化栄誉章、紫綬褒章、旭日小綬章など。

光明媚な熱海で戦争の悲惨さとは無縁の幼少期を送りました

私が生まれたのは1939(昭和14)年の春でした。

生家は東京都の麹町にありましたが、すぐに太平洋戦争が始まったため、物心ついてほどなく、熱海に疎開することになりました。おかげで、大空襲に見舞われるようなこともなく、戦争の悲惨さを知らずに過ごせたのは幸いでした。

熱海では野山を駆け回り、おなかが空いたら野イチゴやグミの木の実を採って食べるという、女の子らしからぬおてんばな日々を過ごしました。物のない時代だったはずですが、疎開先の庭には大きなトマトがたくさん実っていて、「栄養があるからどんどん食べなさい」と、毎日のようにすすめられました。おかげで一生分を食べ尽くしてしまったのか、トマトは今でも苦手な食べ物の一つなんです。

「女の子らしからぬおてんばな日々を過ごしました」

熱海での生活は何不自由なく、楽しい思い出ばかり。ただ一つ残念だったのは、ツベルクリン検査で陽性反応が出たために、せっかく海が近いのに海水浴ができなかったこと。でも、戦時中なのですから、これもぜいたくな悩みでしょうね。

東京の自宅に戻ってきたのは、小学校4年生の時でした。

わが家は父が歌舞伎俳優(14代目守田勘弥)で、母が女優(初代水谷八重子)という家庭でしたから、将来なりたい職業など考えることもなく、私たちの世界のしきたりどおり、6歳の6月6日に「お稽古はじめ」を迎えてからは、戦争中ですがお稽古が当たり前のように生活の一部になっていました。

踊りのお稽古には、芸者さんたちもいらしていて、見習いの私たちは「ねえさん」と呼んで慕っていました。子ども心に、そのしとやかな姿がとても格好よく見えて、おままごとの代わりに、番傘を使って芸者さんごっこをやりながら、「大きくなったら芸者さんになりたい」と、真剣に考えていたものです。

一方、子どもの頃からお芝居の世界に身を置いていた母は、自分が学校生活というものをほとんど経験していなかったことから、私にはできるだけ普通の暮らしをさせてやりたいと考えていたようです。そのため、お稽古の毎日でしたが、なるべく学業にも本腰を入れるようにと、事あるごとにいわれていました。

今になってみればその親心はありがたいのですが、当時の私は勉強が苦手でしたから、できるだけ学校に行かなくてすむように、毎日言い訳ばかり考えていました。ある日、「女優になりたい」とみずから宣言したのも、そうすれば学校をやめさせてもらえるかもしれないという、当時なりの浅はかな知恵だったわけです。

16歳で初舞台を経験し68年にわたって全力を尽くしてきました

初舞台は16歳。歌舞伎座新派公演のステージでしたが、特に万感の思いでこの日を迎えたわけでもなければ、緊張した記憶もありません。正直、あの時自分が舞台の上で何を考えていたのかもよく覚えていないくらいで、ただいわれるまま、粛々と舞台をこなしたように思います。

けれど、その初舞台の初日が、歌手としてのレコードデビューの日でもあったので、私の日常は一変しました。それまで普通の女の子として過ごしていた毎日から、芸能一本の生活に切り替わったのです。

私としては、晴れて学校をやめることができたのですから、万々歳。そのためにお稽古をがんばってきたといっても過言ではなく、非常に晴れやかな気分でした。できるだけ学業を続けてほしいと願っていた母は、かたわらで少し渋い顔をしていましたけどね。

ともあれ、役者としてのお稽古と舞台、歌手としてのレッスンとステージ……。毎日は急に忙しく、慌ただしいものになりました。まだ十代の遊びたい盛りの時期なのにと、ふびんに思う人もいるかもしれませんが、そうではありません。幸い母は、「仕事も遊びも全力でやらなければだめよ」という考えの持ち主でしたから、忙しい合間を縫って、私は積極的に街へ遊びに出かけるようにしていました。

特に〝銀ブラ〟は楽しかったですね。まだ世間にそれほど顔を知られているわけではなかったですから、気兼ねなくウィンドウショッピングができましたし、あるウエスタンバンドの〝追っかけ〟もやったりして、寝食を忘れて遊び回りました。

そんな新人時代から、気がつけば早私のキャリアも68年目に入ります。ずいぶん長いこと舞台に立ちつづけているものだと、我ながら感心してしまいますが、何よりも幸いだったのは、それなりに忙しく過ごしていながら、これまで大病とはほとんど無縁でいられたことでしょう。丈夫な体に生んでくれた両親には感謝しなければなりません。

私もいい年齢になりましたから、これからはもう少し食事の内容を考えたり、適度な運動を心がけたり、健康維持に気を使わなければならないと思います。何事も無理なく、ですけどね。

長いコロナ禍を経て歌に、舞台に、再びスポットの下へ!

私にとってこの仕事の最大のやりがいは、お客さんに喜んでもらえること。それがすべてです。お客さんに必要とされているから、日々の稽古に熱が入りますし、舞台に立ちつづけることができます。

本来、芸能とは娯楽ですから、それがなくても人が生きていくことに支障はありません。にもかかわらず、こうして求めつづけていただけるのはほんとうにありがたいことですし、間違ってもお客さんをがっかりさせて帰すわけにはいきません。

私たちはお客さんに喜びを与えたいですし、逆に私たちも客席からエネルギーをたっぷりといただいています。これはきっと、野球やサッカーなど、スポーツ選手も同じ思いなのではないでしょうか。

もちろん、長いキャリアの間には、うまくいかなかったことだってたくさんあります。例えば、東京の舞台では喝采を浴びた演技が、関西の舞台ではまるで通用しなかったなど、東西の文化の違いに悩まされたことも。

でも、そんなこの仕事ならではの難しさも、多くの先輩方のお知恵を借りながら、どうにか乗り越えてきました。一つの困難を乗り越えると、そこには確実に成長を感じることができますし、その積み重ねで今日までやって来られたと感じています。

3年前から始まったコロナ禍では、一気にやることがなくなり、ほんとうにすべてが無に帰してしまったような気持ちになりました。これまで舞台に稽古にと慌ただしくしていた日常が、ぱったりと何もなくなってしまったのです。

自分の中で、「舞台に立たない生活」というのが今ひとつピンとこず、どうしていいのか分からず、日がな一日、ぼんやりとテレビを眺めることぐらいしかできませんでした。一時は、このままもう二度と舞台に立つことができないのではないかと、不安にさいなまれたこともありました。それが今年の初め辺りから少しずつ世の中が通常に戻りはじめたことを、今は心からうれしく思っています。

先の4月半ばには、私の誕生日に合わせて、バースデイライブを催しました。久しぶりのステージということで、感覚を取り戻すのにだいぶ苦労しましたけれど、コロナ禍で染みついたサボりぐせもどうにか解消させることができました。

そして今は、『三婆(さんばば)』という次の舞台に向けたお稽古に、全力を注いでいます。

「どの『三婆』とも違う、新しい世界をお見せできるのではないかと思っています」

タイトルどおり、三人のおばちゃまの奇妙な共同生活をユーモアたっぷりに表現したコメディです。波乃久里子さんのほか、渡辺えりさんとの初共演ということで、私自身とても楽しみにしている舞台です。

これまで何度も演じてきた演目ですが、どの『三婆』とも違う、新しい世界をお見せできるのではないかと思うので、ぜひ期待していただきたいですね。

老いには逆らえなくても元気に長生きすることが私のいちばんの責任です

最近、不思議に思うのは、年齢を重ねれば重ねるほど、舞台本番に向けた緊張が強くなることです。

それは老いによって、自分が最大限の演技をきちんと皆さんにお見せできるのかどうか、という不安が日増しに大きくなっているからでしょう。

ハッキリいえば、去年できたことが今年も確実にできるとは限りません。これまで何度も口にしてきたせりふが、今回もそのまますらすらと話せる保証はどこにもないのです。若い頃は怖いもの知らずでしたが、今は常にそうしたプレッシャーにさらされています。84歳というのは、そういう年齢なのだと思います。

体も同様で、使えば使うほど疲弊しますし、傷みやすくなるのもしかたのないことです。そのために、自信がどんどん揺らいでいくのもまた、自然の流れでしょう。

こんな状況に置かれた私が果たすべきなのは、内心の怖さや不安を、いかにお客さんに感じさせることなく、満足していただけるかということです。

願わくば、こうして不安を乗り越えて表現するものが、若い頃には出せなかった味や深みにつながればいいのですが、こればかりはお客さんが感じることがすべてです。せめて、そう感じていただけるよう、余念なく準備をし、お稽古に全力を注ぐことが私の役目でしょうね。

ただ、弱音ばかりを吐いているわけではありません。私には、まだまだ元気に長生きしなければならない理由と責任があります。それは一緒に暮らしているネコの存在です。

水谷八重子さんと愛猫。愛猫から学ぶことも少なくないという

今年で16歳になる、一般的に見れば老猫ですが、まだまだ向こう3年、いや、5年は生きるでしょう。私の知り合いの飼いネコには、29歳まで生きた例もあります。

とにかく、この子の最期を見送ってやらなければなりません。だから、私自身が道路を横断する際も、周囲に車や自転車が走っていないか、いつも最大限に気を配るようにしています。

面白いもので、ネコから学ぶことも少なくないんですよ。例えば、ネコはちょっとした段差の上り下りや、私のひざに乗ろうとする前に、いちいち体をぐっと沈めて伸びをしてから動作をするんです。人間でいう、ストレッチですね。ネコだってこうしてまめにストレッチをしているんですから、人間である私も、もっと常日頃から心身のメンテナンスを心がけなければなりません。

そして、私が老いていっそう意識しているのは、「自分で自分を壊さない」ように配慮することです。

例えば、新聞や雑誌を読みながらテーブルに長いことひじをついた姿勢のままでいると、腕や首の神経が固まって不調を起こすことがあります。つい長時間ずっと座りっぱなしになってしまったり、らくだからと体を起こさずに寝たままでいたりするのもよくないでしょう。日々のなんの気なしの行動だからこそ、自分で自分の身を意識的に守ってあげなければなりません。

皆さんも、自分自身をしっかりいたわりながら、健康長寿を目指してがんばってください。そのためには、理由はなんであれ、「長生きすることが、自分に課せられた責任なのだ」と、自覚することがいちばんではないでしょうか。

水谷八重子さんからのお知らせ(舞台は終了しております)