【夢を、諦めました】
『シーシャで日本を盛り上げる』
『日本のシーシャで世界を獲る』
シーシャは自分の人生にとって、一筋の光でした。
シーシャの可能性を信じて突き進んできた僕でしたが
夢を諦めることにしました。
でも、生きてる。
まだ生きてるぞ、おれ。
いろんなことが重なり、自分の人生でかなり大きな挫折を味わった。
辛いこととか、悲しいこととか見せるつもりもなかったし、すべて逆転して成功してから語りたかった。
誰にも見せたくない部分だし、本当にダサいと思うけど、さらけ出してみてまた0から頑張ってみようと思う。
1万字ありますが、時間がある人は見てみてください。
上京、ビックになるぞ
シーシャには関係ない話。
ただの夢見る少年の話。
高校の時、社長になる!ビッグになる!
と決めて上京してから12年
がむしゃらに走ってきた。
もう30歳か。
社長になるなら時給で働いてちゃあだめだ。そう思って18歳の頃、フルコミッションの光回線の飛び込み営業を始めた。そう、あのマンションに来るちょいと迷惑な営業。笑
バイトじゃなく契約が取れた分だけ給料が出る、完全歩合の世界で挑戦することにした。
飛び込み営業ってとてもきつい(笑)「死ね」「帰れ」と言われるのは当たり前。チンピラに監禁されたり追い回されたり、木刀で殴られそうになったりするハードコア系の営業だ。
それでも夏の暑い日も、雪の日も、社長になる夢のために、ピンポンし続けた。10代の自分に怖いものはなかったし、元気しかなかった。
この経験で、鋼のメンタルを作れた気がした。
契約が取れた分だけ成果が上がる。とても大変だったけれど、こんな嬉しい体験は初めてだった。
営業成績は一番。
20歳の時にそのままの勢いで営業会社を立ち上げる。
売るものも、事業も本当になんでもよかった。自分の城が欲しかった。
これで念願の社長。学生起業家だ。
でも、社長なんて30万円あれば誰でもなれるんだよな。
調子がいい時ももちろんあったけど、ほとんどはうまくいかないことばかり。
飛び込み営業って本当にきついので大人でも現場は1年持たない。
営業成績が良かった自分は、成果が上がらないスタッフの気持ちが分からない。
「え?なんで営業出て契約取れないの?(笑)」
そんなことを平気で言っていた。
マネジメントのマの字も知らない調子に乗っていた自分は、メンバーにも厳しく当たり、売上もなかなか上がらず、最初は30人ほどいたメンバーたちも少しずつ減っていった。
このままでは会社がつぶれる。そんな状態。当たり前だ。
当時の自分は、飛び込み営業は学生には難しい!他の方法を見つけないと!と思っていた。
もちろんそういった理由もあっただろうが、自分の傲慢さに気付く事はなかった。
民泊との出会い
そんな時に友人から「インターネットを5部屋分、契約したい」と連絡が来る。何事やと。
これが民泊との出会いだった。
当時はAirbnb(民泊)全盛期。
海外の方はインターネットがないと部屋に泊まらないらしく、これはチャンスだと思った。迷いもなくフルベット。
小さい企業が勝つにはグレーなところに局地戦を仕掛けるしかないのだ。(ランチェスター戦略だと本で学んで実行した(笑))
即日、飛び込みは中止。全員にタブレットを配り、民泊のオーナーに宿泊用のメッセージで突撃しまくった。
舞台はリアルの飛び込みから、ネット上の飛び込み(スパムメッセ?w)に変わった。
飛びこまなくてよくなり、契約もたくさん取れるようになり、最高月商も叩き出した。うまく波に乗れた。これでメンバーのモチベーションも下がる事はない。!
ここから快進撃の予定だった。
だが、そんなに人生は甘くはない。そんなバブルは長く続かない。
民泊の法律は改正されることになり
それは実質、民泊禁止。のような法律だった。
この法律によって新たな民泊物件は作られなくなってしまった。
その方たちに向けて商売をしていた僕たちは、その日から新規の案件がストップ。おもしろいくらい完全に仕事がなくなった。
一つの業界が突然、無くなってしまう可能性があるということを学んだ。
一度目の崩壊
売上も仕事もない会社に価値はない。
借金でスタッフの給料を払うような生活。
泣きっ面に蜂とはよく言ったものでこのタイミングで〇百万円の投資詐欺にも合う。楽してお金を稼ごうとしたらあかんですな。
ハードなマネジメントでも残ってくれた数少ないスタッフも、そんな僕の状態を見かねたのか少しずつ離れていった。
最後に残ってくれた一人のスタッフ。
いつも夢を語り合っていた相棒。
「俺はマキシムを信じてここにいるよ!でも俺が離れたら、この会社もマキシムも終わる時やろうね笑」
冗談まじりに言われた一言は今も忘れられない。
やがて、彼にも給料が払えなくなり
思ったよりも早くその時が来てしまった。
若い時期に人生を巻き込んでしまったのに、本当に申し訳ない。いつか恩返しがしたい。
同期が就職して働き始めるころ、おれは、ひとりになった。
サラリーマンになんてならねえぞ!と調子に乗っていた自分の現実は、とても厳しく、仕事も仲間もすべて失ってしまった。
そんな中たまに会った友達からは『よっ社長!おごってや!』とか『仕事無くなったら、雇ってや!』と、お決まりの冗談を言われるのだが、その時の自分はクソみたいな苦笑いしかできなかった。絶対這い上がろうって思った。
ひとりだなんて、今逃げ出したいくらいきついだなんて、誰にも知られたくなくて、笑顔で振る舞っていた。その現実から逃げるように浴びるように酒も飲んだ。20代前半の自分にはつらい経験だった。
仕事がないから、駆け込みで銀行から借りた資金を食い潰しながら、なんとか生きていた。
生きてはいたが、その頃の記憶は今もほとんどない。
学生起業だ!なんだともてはやされていた自分、調子に乗っていた自分はこんなにも価値がない人間だったのか。ジュース一本すら買えない、そんな時期もあった。生きていても意味がないとも思った。
同期は大企業で活躍している、起業している社長の友達も華やかだった。
なんで俺はこんなにダメな人間なんだ。
そんな気持ちだった。
新たな挑戦
それでも生きていかなければならない。
挑戦しなければ生きている意味がない。
諦めない。俺ならできる!
腑抜けた自分を奮い起こして、YouTubeにも挑戦した。
登録者1000人までもうちょいのところまでいったり、ゲイ業界でバズりそうになった(笑)
すぐに収益を生むわけもなく、1年ほどでやめてしまったが今となってはいい思い出だ。
その後、生きていくため、不動産会社の社長のもとで修業をさせていただくことになり、とにかく仕事を覚えて独り立ちできるように毎日奔走した。
なんとか仕事も落ち着いてきたころ、コロナがやってきた。
シーシャとの出会い
コロナで誰も外を出歩かなくなった。
異常な景色だった。
引っ越しする人も減り
不動産会社にも、もう手伝いは大丈夫だよと言われた。
また、仕事がなくなった。
ここからどうやって生きていこう。
打ちひしがれていた時にシーシャ屋さんからお仕事の連絡があった。
元々、シーシャが好きだった僕はこれをきっかけにシーシャにどっぷりはまることになる。
どうせ仕事で関わるなら、徹底的にハマってみよう!と足を踏み入れたら面白すぎて沼だった。笑
シーシャが僕を救ってくれた。
「毎日シーシャ」と称して、コロナ禍で遊びに行けない人たちの代わりに全国のシーシャ屋さんを紹介して回り
機材もフレーバーもたくさん集めた。
だから、毎日シーシャは自分を救ってくれたシーシャへのすこしの恩返しのつもりだった。
また平穏な日常が戻ったら、その時にみんなにお店に通ってほしい。それだけだった。
「不要不急」なんてなかった。
友達との何気ない会話や、なんでもない飲み会が、僕たち人間を元気にしてくれていたんだ、と。シーシャがもたらす「一服の時間」が教えてくれた。
僕はシーシャが大好きになった。
シーシャを吸えば、自分を知ってくれる人も増えて、仕事にもつながる。そしてまたそれをシーシャに還元する。
好きなもので人と繋がって、生きていくことができる。まさに理想の状態だった。
新しいシーシャ屋さんで誰かの笑顔をみることができて、それだけが幸せだった。
今まで嫌がられながら、飛び込み営業をしてきた自分にとって、それはそれはとても貴重な体験だった。
本当にありがとうございました。
シーシャって最高だよね
それから、毎日シーシャは1年間以上続くことになり、ただシーシャを吸うためだけに1年間で20都道府県以上を回った。
シーシャを吸いに全国を飛び回っていると、たくさんの奇跡が起きた。
・行く先々で知ってもらえていて、シーシャ話が弾む
・初めて会うフォロワーさんが車でシーシャ屋に連れ回してくれる
・その日会ったのに、朝までシーシャ談義
・せっかく来たからって、初めて行くお店で5本くらい出してくれる
などなど
やっぱシーシャの愛の力はすごいわ
知ってもらえてるって話が早くていい、すぐ仲良くなれる。
SNSの可能性と、シーシャの持つあたたかさを知ることができた。
シーシャを囲めば、誰とでも仲良くなれて、素敵な時間を過ごすことができた。みんなチーム友達って感じだった。
シーシャは仕事としてだけでなく、自分の人生に彩りを加えてくれた素晴らしいものになった。徐々に「シーシャ」が生きがいになっていった。
全国で暖かく迎えてくださったみなさん、本当にありがとうございました。
シーシャの持つ可能性
シーシャ自体が持つ嗜好品としての奥深さはここで語るまでもない。
SNSでもたくさん言ってきた。
誰が作るかによって変わり
誰が吸うかによっても変わり
機材、熱管理、空気の流れで変わり
温度や湿度にも左右される
ここに書ききれないほどの要素がある
面白さしかないものだ。
その中でバシッとおいしいシーシャを出してくれるシーシャ屋さんって本当にすごいよね。感謝でしかない。
数あるシーシャの魅力の中でも僕はシーシャの持つ「コミュニケーション」としての可能性に賭けたいと思った。
「シーシャは、人と人をつなぐ嗜好品。」
一人で吸うのも楽しいが、みんなで吸うのが楽しい!
シーシャは宗教上の理由でお酒が飲めない人たちの「飲み会」がわりとして存在し続けていた。
だからこそ、あんなでっかい装置が1600年代から残り続けているのだと思う。
気付けば僕は、時間を忘れてタバコの歴史や文献を読みあさるようになっていた。
・なぜ人は煙を吸うのだろう?
・タバコにはどんな歴史があるんだろう?
・これからシーシャで何ができるだろう?
寝ても覚めてもシーシャやたばこのことを考える。全てをシーシャに繋げていた。どうやったらシーシャで日本が盛りがるか。好きを超えた使命のような感覚だった。
シーシャで新しい挑戦
僕はひとりのシーシャ好きから、シーシャの文化を広める事業やイベントがしたい、と思うようになってきた。
ゆくゆくはこの日本の繊細なシーシャで世界とも戦えるんじゃないか?
シーシャを挟めば、日本だけじゃなく世界のみんなとも繋がれる気がした。
そのために、まずは日本のシーシャを盛り上げたい。
これからホテルや施設にシーシャが入っていくことを見越して、仲間とシーシャエージェンシー「SHA」を作った。(ひかる、りょう、だいき、たいき、本当にありがとう)
シーシャ屋を舞台にした、エイベックスさんのドラマも少しお手伝いさせていただいた。
作品の持つ力は凄い。
「カリスマ美容師ブーム」はキムタクのドラマが生み出した。
シーシャもそんな風になれたら、その第一歩にしたかった。
最高の作品。とても充実した撮影でした。ありがとうございました!
(ご協力いただいた恵比寿オペークさんありがとうございました!)
(めっちゃおもしろいから見てみて)
日本で一番きれいにシーシャを撮ってくれた作品かも。
日本のシーシャを背負う男になりたい
そんな想いで毎日を過ごしていると
事務所には気付けば30台ほどのボトルがあり、フレーバーも300種類を超えていた。
遊びに来てくれた人には友人でもお客様でも、時には工事のお兄ちゃんにもシーシャを振舞っていた(笑)
とにかくシーシャの素晴らしさを少しでも多くの人に伝えたかった。
自分の発信を見てくれた人や
自分のシーシャを吸ってくれた人から
「あれがきっかけでシーシャが好きになったんです!」
そういってもらえることが、本当に嬉しいことだった。
気付けばいつもシーシャ業界のことしか考えていなくて、自分が日本のシーシャを盛り上げたい!やるしかない!と勝手に思い込んでいた。
自分で思っているだけでいいのに、SNSでわざわざ宣言して、自分が作り上げたマキシム像に追いつけるように日々努力した。
本当にすごいやつはわめく必要がないのに。
この頃から少しずつ、SNSと自分の想いに乖離が生まれてしまっていたと思う。アンチのような人とぶつかることも増えてきた。
そりゃそうだ。気に入らない人も出てくるだろう。シーシャはだれのものでもないし、愛でつながってきた文化だ。自分がいちばんわかっているはずだった。
徐々に、自分のことが見えなくなっていた。
シーシャのためなら何でも
インスタにはたくさんの方から全国の美味しいシーシャ屋さんを教えて欲しいというメッセージが来るようになる。
知り合いでも知り合いじゃないお店のスタッフの募集も手伝ったり、シーシャ機材の相談に乗ったり、開業の相談に乗ったり、仕事になるならない関係なく日本のシーシャのためなら!と、なるだけ全て応えていた。
けれど、その頃には連絡が来すぎていて、プライベートも仕事もごちゃごちゃになって、友達やお客様に丁寧に返信が返せていなかったり。今振り返るとそんなことになってしまっていた。
自分でも気づかないうちに、少しずつ自分のキャパシティを超えていた。
当時の自分ではそこに気づけなくて、とにかく突っ走り続けていた。
とにかく日本のシーシャを盛り上げるために。
マキシムというキャラを全力でやっていたのかもしれない。シーシャ屋さんでマキシムさん!と声をかけてもらうたびに、自分が自分じゃないような感覚を感じながら、この大きな流れを楽しんでいた。
シーシャでできることがもっとある
(長いから読み飛ばしてもok)
その他にもシーシャでやりたいことがたくさん出てきた。
・シーシャ協会を作る
→法律面を整える、安全面の確保。文化を守るために作る必要がある。酸欠で倒れたりがあるため、安全ガイドラインを作る。
・シーシャが市民権を得るためにどでかい会場でフェスをやる!
→大企業にスポンサードしてもらいシーシャの市民権獲得、大企業とのコネクション作り、シーシャに目をつけてもらう
・日本の伝統文化でシーシャ機材を作って世界で勝負する
→下のグラスは琉球ガラス、ステムは南部鉄器、などなど。日本が世界と戦えるプロダクトが作れる!
・シーシャスクールを作る
→日本のシーシャレベルの向上
・シーシャの資格を作る
→シーシャレベルの向上、言語化しにくいシーシャの技術の標準を作る。親御さんに誇れる職業にするため、技術職として一定の基準を定める
・シーシャグッズのブランドを作る
→エプロンなど、シーシャのかゆいところに手が届くブランドが作れないか?全国のシーシャ屋さんが使ってくれるようなブランド
・シーシャ研究所を作って科学的な研究をする
→安全面の研究、シーシャへの偏見をなくすため
・シーシャの本を出版する
→CBDの本はあるのに、シーシャの本はない、今こそ作るべき(サンクチュアリ出版から)
・シーシャ屋を舞台にした短編映画を撮る
→幅広い世代への認知拡大、誤解が減る、友達のイケてるクリエイター達と作りたい!予算さえあれば作れる
・日本の味覚、ジャパンシーシャフレーバーをつくる
→日本で作れないなら海外工場でできないか?
・ジャパンシーシャエキスポ
→機材のエキスポ、日本でもいずれできるはず。
・日本のシーシャ店舗を海外で展開
などなど
シーシャを通してたくさんのやりたいことが出てきて
アイデアが止まらなかった。(まだまだあった笑)
今思えば無謀なことも、その時は全てやれる気がしていた。
この中でも一番実現したかったのが全国シーシャフェスだった。
全国のシーシャ好きが一同に集まる、最高のイベントにしたい、と。
もちろん、どれも達成したかった。そのためにできることはなんでもやるだった。まずはフェスを成功させるのが目標だった。
今思えば、冷静にビジネス面を考えてくれたり、サポートしてくれるパートナーを作るべきだったと思う。すべて一人でやろうとしすぎてしまっていた。資金面も、人手も、脳みそも足りていなかった。自分を過信しすぎた。
それぞれにご縁があったり、可能性があっただけに、一度ギブアップしてしまったことがとても悔しく心残りである。
GOYEN、シーシャを盛り上げるには若い力が必要
頭にはシーシャ業界を盛り上げることしかない。
ここから日本のシーシャがもっと盛り上がるには優秀な若者にもっとシーシャプレイヤーになってもらわないといけないと考えていた。
若手のイケているシーシャプレイヤーが集まる場所を作りたい。これを毎年開催できれば、業界が盛り上がるのではないかとたのしみにしていた。
そこでたくさんの方にお手伝いいただき「U-25シーシャ会」というイベントを開催した。
(ご協力いただいた渋谷樂煙さん、ノアノップさん、たいせい、ありがとうございました)
たくさんの方々に参加いただきました。
パワーに満ち溢れたとても素敵な空間でした。
ご参加いただいたみなさんありがとうございました。
そこで会った熱い若いメンバーたちと、シーシャでご煙をうむ組織(GOYEN)を作ることにした。
想いに賛同してくれた熱い後輩たちと語り合い、吸い合う夜が増えた。
これからの時代を作る新世代のみんなとなら、溢れ出てくるたくさんのアイデアを実現できると信じてやまなかった。
そんな中、シーシャが生んでくれたご縁の中から東急プラザ銀座という素敵な場所でシーシャフェスができるかもしれない、そんなチャンスが舞い込んできた。
せっかくやるなら日本一の会場でやろうぜ!
そんな気持ちで立ち向かっていた。
GOYENの初陣になると思った。
全国にシーシャ屋さんが広がる中、全国のシーシャ屋さんが一度に集まる、どでかいイベントを最高の会場で開催することに胸が高まった。
シーシャフェス
フェスの会場には何度も足を運んで、打ち合わせを重ねた。
「そもそも禁煙だから、、」
「銀座は年齢層が高い街だけどシーシャはどうなの?」
「あなたのところじゃなきゃダメな理由は?」
たくさんの課題はあった。
だけど、どうしてもやりたかった。
『だからこそ、今この場所でシーシャのフェスをやりたいです!』
日本のど真ん中、銀座でこのイベントを絶対に成功させたい。その一点張りだった。
「そこまで言うならやってみましょうか笑」
僕のアホみたいな熱意に根負けしたのか、担当者さんからその言葉を聞けた時、本当に嬉しかったのを覚えている。
会場の確保と並行して、みんなが知ってるような大企業にもスポンサーをお願いしに行った。興味を持っていただき、何社か協賛をしてくれることにもなりました。
この繋がりでたくさんのイベントやムーブメントにつながると楽しみしかなかった。
シーシャが市民権を得られるように!そんな日本を目指して自分なりに走ってきた甲斐があった。そう思えた瞬間だった。
あとは、開催まで走り切るだけ。のはずだった。
炎上、そして
フェスを控えた4月、協賛集めに奔走する中、渋谷でアップルストアというイベントに呼んでいただいた。
完全無料でたくさんの人にシーシャを吸ってもらうためのイベント。
たくさんの方に、足を運んでいただき、道ゆく人にも寄ってもらいシーシャを楽しんでもらっていたつもりだった。
ただ、一参加者として無邪気に振る舞いすぎていた。たくさんの方に知ってもらってることの自覚もなく、リスペクトも足りていなかった。当時、不快に思った方々、本当に申し訳ありませんでした。
当時の自分は、もう自分のことしか見えていない状況だった。
Twitterは大炎上。
たくさんの奇跡を運んでくれたSNSは、最後の最後で自分に牙を剥くことになる。
当時の自分はフェスに向けて注目してくれてOK!
くらいにしか考えていなかった。
けれど、たくさん指摘されているのに、このように自分のことしか見えていない、謝罪もできない自分は、もう終わっていたのだと今なら思う。
そんなある日、会場側から連絡が入り
「あんなやつにイベントをさせていいのか?」
と匿名の苦情が入っている、と。
もう一度、会場をお貸しするか検討させてくださいとの連絡。
アンチのクレームなんかに負けてたまるかと思っていたが開催まで時間がない中、直前まで開催できるかわからない、中止の判断をするしかなかった。
(当時、楽しみにしていただいていた方、参加希望のご連絡をいただいた店舗様、実現できずに本当に申し訳ありませんでした。)
関係各者に中止、の連絡をしていった。
すべて、自分勝手に振舞っていた調子に乗っていたバカみたいな自分のせい。
このフェスは必ず達成したいという目標であり、その後の展望にも大きくかかわるものだった。これができれば全てうまくいく予定だった。
シーシャとシーシャを通した事業だけが、当時のぼくの生きがいだった。
だからこそ、このフェスに全てを賭けていた。もう自分の時間はフェスに対して全ベットしていた。
他の仕事はそっちのけでフェスから始まる物語に心を躍らせて、毎晩徹夜していた。
自分が夢中になれるシーシャで逆転したかったんだ。
逆転して成功して、今までお世話になった人、家族、みんなに恩返しするつもりだった。
それが無くなった時、自分にはもうパワーが残っていなかった。
これまでたくさん変な噂を立てられたり、陰口を言われたり、炎上したり。それまでの人生では起こらなかったことがたくさん起こった。
そんなものも全て振り払って、日本のシーシャを盛り上げる!と毎日死ぬ気で走っていた。
イベント中止の、謝罪の連絡を何十本もしていると、電池が切れたように、大粒の涙が止まらなくなっていた。
もう自分のシーシャの夢は叶わないんだ、と心が折れてしまった。
もう終わりか
自業自得、だからこそとても辛く感じた。
プライベートでも辛いことが重なり、当時の彼女にもたくさん迷惑をかけた。
「あいつは口だけだ」「結局何もしてないよなマキシム」そんな投稿だけが目につくようになる。
そうだよな、その通りだ。
SNSも徐々に見れなくなり、更新もできなくなった。シーシャがない自分にはもう価値がないと思った。
主催したシーシャのオープンチャットも見るのが辛くなり、消してしまった。参加してくれたたくさんの方々、本当にごめんなさい。
応援してくれていた方もたくさんいたのに、不甲斐ない。
全ては自分の資金面や、事業の計画性の甘さ、向こう見ずで突っ走ってしまっていたことが原因だった。
それからと言うものの
家からあまり出なくなり
ご飯すら喉を通らなくなり
シーシャもあまり吸わなくなってしまう
ような状況だった。
自分がそんな風になるとは夢にも思っていなかった。
東京を出る
自分の可能性を信じ続けて
もがき続けてきたけれど
失敗ばかりの人生だった。
シーシャはそんな自分に差し込んだ光だった。
12年間、夢を追い続けた東京での挑戦が終わりを迎えようとしていた。
自分の生きがいだったものが、人生が、こわれていく感覚に襲われ
東京から離れる。夢がなくなる。友達とも離れる。この先、生きていてもしょうがないんじゃないかと毎日思うようになってしまった。
気づくと住んでいたマンションの最上階に登っていて、この時はさすがに自分も来るところまで来たな、と。もちろん、そんな勇気もなかった。
思えば途中からシーシャは好きなものから
自分の存在理由に、アイデンティに、なっていた。
それを失った自分は崩壊してしまった。
引っ越しをする気力も判断力もなくなっていた僕は、事務所と家を引き払うので精一杯だった。
事務所のシーシャやフレーバーは友達や知り合いのお店に引き取ってもらい、捨てることなく引き継げたので本当に良かったと思う。
けれど、あれだけ大切に集めたシーシャたちは全てなくなってしまった。
モノなんてまた買えばいいとは言っても、僕の東京の12年間は少しの洋服だけを残して、スーツケース3個にまとまってしまった。
僕は福岡の実家に帰ることになった。
自分しか見えなくなっていた僕は、友達も、住む場所も、持ち物も、仕事も生きがいも、全てを失ってしまいました。
それからというもの、あれだけ愛してやまなかった、毎日吸っていたシーシャの煙は、SNSにひたすら出てくる画面上だけの白い塊になった。
生きている
こうして、僕は夢を諦めることになった。
『日本から世界に!』
『シーシャで日本を盛り上げる』
振り返ると上ばかり見て走っていた。
イカロスの翼は見事にとけてしまった。
気づいたら奈落の底まで落ちていた。
振り返るとジェットコースターみたいな人生で、0か100かしかない自分に、クラクラする。
シーシャに命を賭けていた。
全てを賭けてしまったからこそ
それが無くなった時に自分を見失ってしまった。
けど、今でもシーシャを愛している。やっぱり好きだ。
必ずまた集め直して、シーシャをやると思う。
またひとりのシーシャ好きに戻っただけ。
いま僕は大阪にいる。
実家にこもっていても何も変わらないよな。
また、別業界で挑戦したいと思う。
たくさんの方に助けてもらった
自分の人生の第一章は終わった気がする。
あの時ああしてれば、という後悔はいまも付き纏う。
僕の言動や行動が気に入らなかった、傷つけてしまった人もいたと思う。本当にごめんなさい。
けれど過去は変えられない。
ここからの自分の行動で今と未来を変えるしかない。
また、0からやり直す。
ご迷惑をかけてしまった人たちに恩返しをするために
また笑顔でシーシャを吸える日のために、挑戦し続けたいと思う。
人生はまだまだ長い。
シーシャがあってもなくてもマキシムはマキシムだ。
生きているからこそ挑戦できる。
もし今、人生が辛い人がいたら伝えたい。
それでも生きよう、と。
決して心配して欲しいわけではない。
これは、もう一段強くなるための誓い。
また会える日までのメッセージ。
この場を借りて、支えてくださったたくさんの方に感謝を。ご迷惑をおかけした方々に謝罪をお伝えさせてください。
本当に、ありがとう。
そして、ごめんなさい。
必ず戻る。
今は人生の蒸らし時間。
全てのシーシャ好きに愛を。
マキシム