見出し画像

「流れに従って生きる」⑦ー仙台スタート編ーACT53:「項羽」と「劉邦」

私は仙台の(株)木の香の家に合流しました。その数日前に、私たち4人の株主(3人+ ホンダ建材の木戸社長(仮称))と、ホンダ建材の三浦部長さんたちを交えて、景気づけ決起集会(飲み会)を開きました。

そのときの飲み会の席で、三浦部長さんからこんな話をされました。

三浦部長「白鳥さんは、この新会社はうまく成長していくと思っていますか?」

私 「ん~、そうですねぇ。ここまでの流れは間違っていないから、あとは社長(江原氏)次第でしょう。」

三浦部長「・・というと?」

私 「私や牧田をうまく使えれば、さらに、人をうまく使えれば、この会社は軌道に乗れると思います。つまりは、社長(江原氏)が「項羽」なのか「劉邦」なのかで決まりますね。」

項羽と劉邦のワンシーン

実は、組む相手を江原氏に絞ったとき(多分2月頃)、私は江原氏に「項羽と劉邦」の本を渡していました。
 昔の社会と現在の社会は基本的には違うのですが、人の上に立って、人を動かす場合、歴史から学ぶことは決してばかばかしい事ではないと思っていたからです。
 その本を読んで何を期待するかは言わなかったですが、
少しは、参考にしてもらえるだろうと思い渡しておりました。

その本の中で私の記憶に残っている文言があります。

劉邦軍が「韓信」を「大元帥」に任命するときのシーンです。


私は天下を狙う・・などという大それた考えは持っていませんが、

集団の力を出すというときの考え方を、歴史の本から学ぶことは多くありました。
(実際に出来ているかどうかは別としまして^^;。志だけは心にとどめております)

実を言うと、人の上に立って人を動かすことの難しさを、私は経験していました。自慢ではないですが、小学校・中学校と生徒会長をやらされていたのです。そのときは、思うとおりに物事が運ばず、かなり悩んだ経験をしていました。

そのころの私は、なんでも自分でやらないと気がすまなかったタイプでした。所詮1人の力は1人の力であり、物事はなかなか進みませんでした。
 他の人から力を引き出して、そのパワーを同一方向へ向ける術は持っていなかったのです。

そのため、大きなイベントをするときも、なにかと空回りすることが多く、ほとほと嫌になることが多かったのです。小さいころの私は、人の上に立つというスタイルでは「項羽」だったかもしれません。

独裁者ではなかったですが、人の良い点を見つけて評価できず、人に任せることがなかなかできなかったような気がします。

そうすると、その団体は、結局のところ自分の器を超えないのです。

「劉邦」のように、ある程度人に任せ適正に評価する方法は、スタッフが有能であればあるほど1人のトップの器を超える団体になると、社会に出て10年くらいになる私は自分なりの答えを出していました。

もちろん好き勝手に暴走しないルールは必要ですが・・。

 「項羽と劉邦」では最後に、力で強い項羽が負けてしまうのですが、
最後にこんな一文もあります。


 そんな価値観を私は持っていたので、江原氏(仮称)がこれから増えるかもしれないスタッフをどうやって動かしていくかで、この新会社は成長するかどうかが決まるのだろうと感じていました。
 少なくとも、私と牧田が 「よし頑張ってやってやろうじゃないか!」 というモチベーションに出来るかどうかがポイントだと感じました。


事実は小説よりも奇なり 


お天道様は見ています。




「流れに従って生きる」ー仙台スタート編ーACT54:E氏の凄さ


 前回までのように江原氏(仮称)を書き並べると、江原氏は無能な人間に捉えられてしまかもしれませんが、私からみても本当に凄いと思ったことがあります。

 それはお金の計算です。  

友人小田君(仮称)には言われていましたが想像以上でした。
お金の計算にもいろいろありますが、なんといっても「その細かさ」です。
 現場が工事途中で資金ショートしないように、いつ着工して、毎月どれだけの支払いと収入があるか前もって計画を立てるのです。
 資金ショートしそうな月が予測できれば、あらかじめ取引業者さんに
「〇月の支払いは半分になるかもしれません」と連絡してOKをもらうのです。
 あらかじめ伝えて計画の範囲であれば業者さんの信用も落ちません。さらに、着工や建て方を開始するタイミングをわざとずらして、月初めに工程をスタートさせたりと工夫もしていました。
 

これは、私には斬新な光景でした。 

 今まで、現場の実行予算を組むことはあったのですが、「お客様からの入金予定」と「業者への支払い予定」、そして「経費にまわせる金額の予定」 のお金の循環計画を、着工前に組み立てるのは初めて見たのです。
 

 この時代の家づくりをするお客様は、ほとんどが住宅金融公庫から融資を受けていたため、お客様の「手持ちの自己資金」と、「住宅金融公庫の中間金」実行日を計算しないと、工事途中で資金ショートする可能性もあったのです。

 この「お金の循環計画」は、私の頭の中では持っていない要素でもあり、実は非常に重要なことでした。
 小田君が言っていた「綺麗事言っても、金でつまずけば終わりだからなぁ。」の意味がなんとなくわかりました。
 これを得ただけでもE氏と組んだ経験は非常に大きかったのですし、そういう意味で、組んでよかったと感じました。
 


Cホームより正直に経営的な勉強になりました。
 


度が過ぎる細かさ 

 


 しかし、この細かさは「度が過ぎる」とあだとなります。
 江原氏の場合は、別な面で異常に度が過ぎました。
 1円でも無駄にしたくない一心で、私と牧田の行動を細かく監視しないと気が休まらなかったのです。 

〇 ガソリン1リットルも無駄に動いていないか・・。
〇 100円ショップで済むものを120円で買ってきてないか・・。
〇 走行メーターをチェックし「どこに行ってきたのか」・・という質問までし・・、
〇 車のヘッドライトに虫の死体がついていれば「高速道路に乗ったな!」とチェックを入れる。
〇 真夜中に電話をしてきて、今どこに居るかまでチェックする。  
 (俺はあんたの彼女じゃない・・と叫びたくなりました)
 
 

 自由にやりたくて独立したはずなのに、今までで一番の管理下に置かれた息苦しさを感じました。
 牧田が1ヶ月でストレスを感じるのも無理はなかったのです。
 1円得しようとして、会社で働く人のやる気をそいで、その何倍も損するタイプだなぁ・・と思いました。
 

これからどんな展開がまっているのでしょうか・・


事実は小説よりも奇なり


お天道様は見ています。




「流れに従って生きる」ー仙台スタート編ーACT55:HAさま と 自邸着工。  そして・・・


㈱木の香の家としての最初の現場である畑岡さま邸(仮称)は2月に着工となりました。
 畑岡さまとは設計での打ち合わせを繰り返していく中で、「経営者」としての「考え方」や「姿勢」について、非常に多くのことを感じ学び取らせていただきました。

  畑岡さんは1人で地縁血縁のない岩手の土地に来て開墾からスタートし、地域とのつながりを深めながら、農業・畜産業を通してかなりの事業規模になりました。
 まったく地縁の無い場所でいろいろご苦労も多かったそうですが、そんな雰囲気は感じないほどいつもニコニコしています。

  畑岡さまの凄いところは、その事業の中で得たお金を自分のためだけには使っておらず、町の小中学生を毎年、数人ずつ海外へホームステイさせていたのです。「次の世代は国際感覚を身につけなければな・・。次の世代を育てる」と言っていました。

それを10数年継続していたのです。

 全て、畑岡さんの会社からの寄付という形で行なっていたそうが、今では町にも国際交流課ができるほど町ぐるみの活動にまでなっていようです。
 他の地域から移り住んで、その地域のために感謝の気持ちもあるでしょうが・・そこまでの行動を起こすという経営者としての器・人間の器の大きさを学ばせていただきました。
 もし、私が経営者になったとしたら、どこまで畑岡様のように社会還元ができる人間になれるのだろうか・・。

 
 江原氏は「寄付は経費になるからだろう・・」と冷めたように言っていたが、その言葉には、人の上に立つべき「人間の器」の違いを強く感じさせられました。

「次の世代」・・私たちにもそれを期待されていたのでしょう・・。
今考えるとそう思います。
そういう価値観でなければ、会社の形態もままならぬ若造に、とんでもない規模の自宅を依頼するはずがありません。

 

 

予定より早めの地鎮祭


 3月に予定だった地鎮祭は、春まで待たず、畑岡さんのご要望で急ぐことになり1月末ころという寒い時期に行いました(^^;)。

「雪もめったに積もることはない地域なので着工してしまおう」というHAさまのご希望でした。
 平屋ということもあり、地鎮祭のときの地縄の大きさも見たことがないほどの大きさです。

 私 「でかっ(@@;)。こんな地縄、住宅で見たことないよ」。

 地鎮祭では、畑岡さまご家族や、ご友人の業者さんも何人か参加なさって行われました。


 厳かに地鎮祭は終わりましたが、地鎮祭終了後、ご友人の方が

「畑岡さん風邪でもひいたかのかなぁ。顔色ちょっと悪かったけど・・」。

私 「そうですか?。あまり気づかなかったですが・・」

ご友人 「いやぁ・・。いつもだともっと元気だよ。寒い時期だから体調崩してるんだな。」と心配していました。

 


着工


基礎工事は、地鎮祭後にすぐに始まりました。

平屋の全面べた基礎なので、配筋作業も通常の2階建て住宅の4倍近くとなり、かなりの迫力です。

 基礎工事と合わせて、プレカット・輸入建材ともどんどん発注を掛けていき、工事の着工といっしょに会社の運営経費が確保できる安堵感で、私たちの会社は次の受注への展開も考えていこうという意気揚々の雰囲気になりました。
 いろいろ想定していた会社のスタート像の中では、もっとも良い形になりました。1年間も安定した経費が見込めるスタートなんて、本当に想定していた以上です。


そして・・




 そんな、意気揚々としていた、着工して1か月足らずのある日・・

 


 突然、予想もしていなかった電話が会社に入りました。

 

 
 ホンダ建材の三浦部長さんからでした。

 

 

  


その電話で、私たちは凍りつくことになるのです。

 



事実は小説よりも奇なり


お天道様は見ています。



「流れに従って生きる」ー仙台スタート編ーACT56:畑岡さま、突然の・・・


ホンダ建材三浦部長さんから  早朝、 突然の電話



三浦部長 「もしもし! 大変だ! 畑岡さまが亡くなられた...」



畑岡さんが亡くなった?・・・。


 
・・・・


 


 朝の突然の電話に、私たち3人はどうしたらいいのか呆然としました。

 

 何をすればいいのか・・どう動けばいいのか・・あまりにも突然すぎる内容の電話と、社会人としての未熟さも重なって・・まったく動きが取れませんでした。

 畑岡さんの知人で今回の工事で木工事をなどをしていただく業者さんからも電話が入りました。 
「大変だ!畑岡さんが死んじゃった・・・」

 
頭の中は真っ白になりました。



虚脱感動揺と・・とにかく何をしたらいいのか分からず混乱していました。

 

ご法事の話もありましたが、会社がつぶれる可能性の話もありました。


 その時点で、畑岡さんの工事の規模が大きかったため次の物件は探しておらず、この現場のためだけに詳細図作成や発注業務・工事の段取りなどに全員のパワーを注ぎ込んでいたのです。

 海外からの材料も発注済みだったりと・・キャンセルできない多くの資材もあり、資金繰りの危険性も同時に頭をよぎっていました。

 何から手をつけたらいいのか迷いました。

 

とにかくそわそわして、3人であーだこーだ・・と意見は出すものの、
脳みそ と 体 がフリーズして、動けない時間が続きました。


 ホンダ建材の三浦部長さんが事務所に来て、落ち着きを取り戻したのは
2時間後だったと思います。

 三浦部長さんのアドバイスで、とりあえず、一番お世話になっていた牧田と社長E氏の2人は線香あげに向かう。
 私は会社に残って、何かの連絡待ちと海外に発注した建材関係のストップ、各業者さんへの工事中止の連絡をすることで手分けして動くことになりました。

 三浦部長さんのアドバイスが無ければ、1日中、何をしたらいいのか迷い続けたほど、私たち3人は社会人としてヒヨコなのだと感じさせられました・・・


考えられない展開


 私は、「なんでこんな流れになってしまったのだろう・・。俺に守護神がいるのなら、何のためにこんな巡り合わせにしたのだろうか・・」と、混乱した自分を納得させるような答えを探しつつ、各業者さんに電話を掛け始めました。



 そして、電話を掛け始めて2~3件経ったくらいだったと思います・・。


突然、会社の電話が鳴りました。



その電話に私はさらに驚くことになるのです。


事実は小説よりも奇なり。


お天道様は見ています。




「流れに従って生きる」ー仙台スタート編ーACT57:考えられない電話


畑岡様が亡くなったことで、工事は中止になる可能性を、各業者さんに電話している最中に、会社の電話がなりました。

業者さんからの電話の可能性が高いのですが・・


なぜか、私は、直感

「もしかして畑岡さんの奥様?」・・と予感し、

受話器をとりました。
 
 
 

「もしもし・・、畑岡です。」
 電話は・・亡くなられた畑岡さんの奥さまからでした。

  

「あ・・こ・このたびは・・、」

突然の電話に、私は声がつまってしまいました。

 

畑岡さま 「驚いたでしょう・・」

奥様の声は、不思議なほど・・、驚くほど・・穏やかでした。

 

私「え、ええ・・。」

 「あ!今、工事中止の電話連絡を各業者さんにしていました。」
  

 

奥様「それなんですけど。工事は続けてください。大丈夫です。お金はあります。」

口調は、しっかりしていました。

「それだけお伝えしたくて。それじゃあ。」  

電話は切れました。

 

・・・・

 

とても、昨日ご主人様を亡くされたとは思えない気丈かつ穏やかな振る舞いでした。
 

こんな状況で、今のような内容の電話をするゆとりがなんであるのだろうか・・

私が逆の立場だったら、出来るだろうか・・

 
奥様からの電話に、私は人生を救われた思いをしました。

 
そして受話器を置きながら涙を流していました。

 

 いままでの畑岡さんとのお付き合いの中で、背景は想像ができました。

 いまでも憶測の範囲ですが・・、

 多分お亡くなりになる前に、畑岡さん自身が自宅工事の続行を指示したのだと思います。そして、奥様はうちの会社だけでなく、いろいろな牧場事業に携わる会社さんに同じような電話をしているのだと・・。

 会社を興すことの難しさ、始めた事業を止めると多くの人に迷惑がかかること、そのほか、私には分からない色々なことを含めて考え、家づくりの続行を指示して亡くなられたのだと想像がつきました。

畑岡さまが言葉にしていた「次の世代」という
言葉の重さを痛感させられました。


畑岡さんの精神に報いなければならない・・
という責任感も沸いていました。

 あとで知ったのですが、畑岡さんは、数日前に死の告知を受けていたそうです。そして、数日間という余命の間に、会社の重要な人、畜産協会の関係者、縁のあった人に、そして家族にそれぞれ今後の指示と遺言を残して、「あとは任せたぞ」とお亡くなりになられたということでした。

 

 畑岡さんの葬儀は、町葬という規模でした。

 

 町長はじめ多くの著名人、海外の賓客一般の町民の方まで町の大ホールに参列していました。 どれだけ多くの人たちの幸せのために尽力してきたのか・・計り知れないほどの想像以上の大葬儀でした。

 人生そのものを救われた大恩があるので、私と牧田は葬儀の最後まで居るつもりだったのですが、江原氏は「線香もあげたし、そろそろ会社に帰ろっか」と言ってきました。

 こいつ(江原氏)と一緒では畑岡さんの精神は継げないと確信した瞬間でもありました。

  

事実は小説よりも奇なり。


お天道様は見ています。




「流れに従って生きる」ー仙台スタート編ーACT58:江原氏と別れる気持ちになった2つの事件ーその①ー

畑岡さまの葬儀が落ち着いた後、現場は再開しました。


会社は九死に一生を得る形となり、心から畑岡さまに頭の下がる思いでした。 
 今回のようなリスクを回避するために会社として次の物件の受注を決めて模索している中で、運よく早々に2軒目の物件の受注に成功しました。


 なんと、それも岩手県(北上市)なのです。
Cホーム時代の知人からの紹介だったのです。
 江原氏は宮城県内でないことに不満を持ちましたが、1つの物件に
偏る怖さを経験したばかりだったので受注を選択しました。


 この北上市の現場のため、私も岩手県に通うようになり、鳥かごから
開放された感じがして気分がよくなっていきました。 

 牧田も畑岡さんの敷地内に現場事務所を構えて常駐していたので、
かなり生き生きした目をしていました。

 それと反比例するように、江原氏は自分の目の届かないところで自由に行動されるストレスでイライラしているようでチェックや縛りを強化してきました。
 


事件1


 そんな中、堪忍袋の緒が切れる事件が続けざまに起きたのです。
 
 1つ目は、私と江原氏が仙台の事務所に居たときです。
 ちょうどそのタイミングで牧田から電話が入りました。

「材料の拾い出しミスで実行予算が20万円くらいオーバーしそうだ」という相談でした。
 それくらい日常茶飯事だと私は思いましたし、人の上に立って社長の器の大きさを見せるのであれば・・・
「初めての現場だから、それくらいのこと気にしないで頑張ってどっかで挽回しろ」・・とでも言うだろうと予想しました。
 

江原氏は違いました。
 牧田のせいで20万円損するかのような表現をして、事を大きくするかのような雰囲気で何度も話しました。

なんて器の小さい男なのだろう・・とがっかりしました。

 そもそも牧田が居なければ、こんな大きな物件自体がスタート時点で無かったのですから・・。
 

そして・・

とんでもない・・似たような事件2が同じ日に起こるのです。


事実は小説よりも奇なり。


お天道様は見ています。





「流れに従って生きる」ー仙台スタート編ーACT59:江原氏と別れる気持ちになった2つの事件ーその②ー


ちょうど牧田から発注ミスの謝りの電話があったその日の午後です。

 江原氏の友人である基礎屋さんへの支払いで、何故だか理由は分からないのですが、「振込みでなく直接現金でくれ」と頼まれました。
 自分の仲間?には甘い江原氏は、銀行に基礎工事代金を降ろしに行ったのでした。しかも、わざわざ私の車を運転して・・です。

私の車の走行距離チェックも兼ねてだとは薄々わかっていましたが・・。
「自分の車で行けよ。気持ちわりィ・・」と思いました。
 

そして、事件は起きました
 


突然の発狂


 会社に戻った江原氏は、数分後、突然、「わああああぁぁぁ、わあああぁぁぁ、わあああぁぁ」と、びっくりするような大声を発して、わめきだしたのです。

 なんと、降ろしてきた60万円を紛失したのです!。

 慌てて車の運転席まわりも探しては「わあああぁぁぁ」、持ってるかばんの中身も出しては「わあああぁぁぁぁぁ」・・と大声を出しながら探したのですが見つからないのです。

こんな顔

 大声で「白鳥、銀行まで運転してくれ!俺は、冷静になれないから運転できない!」と叫ぶ始末でした。 
 確かに60万円紛失は問題ですが、狂気のようにわめき散らす姿のほうが異常すぎて、そちらのほうに恐怖を感じました。
 結局、私が運転役で、銀行まで車を走らせました。 


その車中で江原氏は叫びました。


 「くっっそぉぉぉぉ!あいつが現金でくれって言ったからこうなったんだ!あいつのせいだ!俺は悪くない!」
 
 

「・・・」
  

私は、何も聞いていない・・・。
   

責任追及もしていない・・・。

 

そんな状態で自分を擁護、他人への責任転換するようなわめき声に、この男の正体を見た気がしました。
 
 あの異常なわめき散らした姿は、自分の責任を軽減するための意図的な演技だったのだろうかと思わされました。
 
 銀行の駐車場へ着くなり、江原氏は助手席のドアを壊れるかと思うくらい勢いよく開けて、なんと開けっ放しのままでキャッシュコーナーへ走り出しました。

 私は「ふざけるな」と思いつつ、運転席から身を伸ばして助手席のドアを閉めようとしました。

・・と、そのときです。私は助手席の左下(ドア側)に挟まるように
引っかかている銀行の封筒を見つけたのでした。 
 
 

私「あったぞ~!60万円あったぞ~」。

 私の呼び声に、江原氏は疲れ切った安堵の表情を浮かべて、てくてくと戻ってきました。

 帰り道でも、車の中で自分の責任がないようなブツブツという小言を言っていました。

 私が、「まぁこれで良かった」・・と思った事は、牧田に20万円の予算オーバー云々は笑って許すだろうということでした。
 
 


開いた口がふさがらない


ところが・・、江原氏は違いました。

 こんな事件が起こったにもかかわらず、自分のミスは棚にあげてその数時間後に、牧田に対して20万円について責任があるかのような電話を現場事務所にしたのでした。
 この男・・、人のミスに漬け込み、それを強調して「貸し」をつくり操ろうとする行為をしていることがわかりました。
 
 逆に、自分のミスは大きな話にならないうちに他人の責任に転換し、自分の非をもみ消すか沈静化しようとするのです。
 

1日にしてこの2面性を見てしまいました。


なんとも言葉にできない異様な恐怖感を覚えました。
 
 

お金の使い方の異常性


 もう1つは、お金の使い方でした。
 江原氏は、仕事に必要なものを買うことにも厳しくチェックして1滴の水もこぼさないように蛇口を閉めるタイプでしたが、ある「唯一のこと」だけには、お金を惜しみなく使いました。

その「唯一のこと」とは、展示場に飾る「家具」と「展示場のリメイク」でした。
 理由は、「展示場は変えていかないと見飽きられる」という、もっともらしい理由でしたが、どう見ても、自分の所有物を良くしたいとしか考えられませんでした。

 最初から有った高級家具も、実は学生時代に40万円位したものを、気に入ってローンで購入し払えなくなって親に支払わせた・・ということを江原氏のお母さんから聞いたことがありました。
 
 展示場のリメイクは翌年からの計画の話でしたが、あきらかに自分がかわいい自己陶酔型であることは行動の節々から判断できました。
 しかも、金への執着が人並みならぬものを持っており、まるで一円残らず全部自分のお金のように・・恐怖を覚えるほどの言動でした。
  
 

さすがの私も、畑岡様の葬儀~今日までに見た
信じがたい江原氏に言動対して堪忍袋の緒が切れました。
 

そして 江原氏とは早めに縁を切って別れようと思い始めるのでした。
 


事実は小説よりも奇なり。


お天道様は見ています。




「流れに従って生きる」ー仙台スタート編ーACT60:仙台での初めてのお客様


江原氏とは早く別れようと心に思いつつも、
そのタイミングは「流れに従おう」といういつもの感覚で、
私はすぐには行動に移さず、しかしアンテナは いつも以上に感度を上げながらの日々を送っていました。

 その後、私たちは新しい受注を模索すべく、仙台の展示場 兼 事務所で4月に初めての見学会を行いました。
新聞折り込みチラシを入れての見学会だったので、力を入れた見学会でした。

 なんと、その見学会でいきなり3組の見込みあるお客さまを見つけることができたのです。
 これは幸先良いなぁ・・とも感じましたが、
別の見方をすると・・不思議な感覚も受けた3人のお客様でした。
  

・・というのは・・
 

不思議な縁の3組のお客様

 1組目のお客様は、見学会とは関係なく、実は私が仙台のN建設に居たときに建てたお客様(OBさま)のご紹介の方でした。
 事前に電話で連絡があり、「たまたま今度見学会しますので来てください」とお話したお客様でした。
 

 2組目は、純粋に展示場でのお客様だった・・といえばそうなのですが、このお客様も強烈に不思議な縁なのです
(今後、何度か登場してくるので吾妻さま(仮称)としておきます)。

 みんなで見学会の会場準備をしているとき、牧田は自己流で「目を引く立て看板」を作って展示場のそばに設置していたのです。


 それを見た江原氏は「あいつ、なにやってるんだ?効果のなさそうな仕事して・・」と馬鹿にするように言っていました。

 しかし、その2組目のお客様(吾妻様)は新聞折込チラシを見ておらず、たまたま牧田が設置した立て看板を見て展示場に入ってきたのです。


 そして3組目のお客様は、純粋にチラシを見て電話で問い合わせてがあったお客様でした。
(この方も今後登場してきますので佐藤さま(仮称)としておきます)

 そのときは私が電話対応し、ご要望があったとおり、これまた私流にバタバタと作った資料を送ったお客様だったのです。
 資料を送ったあと、すぐに丁寧なお手紙が届きました。

 読みようによっては「お断りの手紙」にも受け取れる文面でしたが、解釈を変えると「興味がある」とも受けとれる・・本当にどちらとも受け取れる不思議な内容でした。
 

江原氏のとらえ方


 佐藤さまの手紙を読んだ江原氏は、ここぞとばかりに私に噛みついてきました

 江原氏「お前が勝手なことするから、お客に逃げられたじゃねぇか!お前も営業センスが甘いんだ!今後、勝手なことするな」と言われました。
 
まさに、人のミスに漬け込んで、貸しを作ろうとする動きでした。
 
私には、その手紙を断りの内容には感じ取れなかったのです。
 
それでも江原氏が「断りの手紙だ」・・と言うので、お客様(佐藤さま)にお手紙を返しました。

「今回はご縁がありませんでしたね。ただ、こういう部分には気をつけて良い住宅会社を見つけてください。」という断熱についてのアドバイスを付け加えてお礼の手紙でした。

 
そしたら数日後、佐藤様から慌てた様子で電話があり、
〇お断りの手紙ではなかったこと、
〇近いうち展示場に来て話を聞きたいことを伝えられました。
 

私「やっぱりあの手紙はお断りの文面ではなかったんだね」と言いました。
 
 そのあと江原氏は、ころっと態度を変えました。どう変えたのか・・。
それは、こうでした。
 

江原氏 「展示場があるから仕事にできるなぁ!よかったなぁ!」。
 
 つまり、自分の非には全く触れず、私の手紙がお客様の行動に起因したことにも触れず、「展示場の存在が受注につながる」=「自分の功績」を大きく主張しました。
 
  牧田の立て看板を見て入ってきたお客さまについてもでした。「牧田の立て看板が活躍したなぁ」・・という一言もなく、「展示場があって助かるなぁ」・・というような表現方法を使いました。

 あとで自分の功績だけを強調して、自分の収入増か展示場リニュアルへの大投資への布石にしているのだろうと思えました。
 
  最終的にはこの3人のお客様は仕事になるのですが、だれ1人として、「展示場が有った」ことが糸口ではなかったのです。
 
1人は紹介
1人は偶然、立て看板を見たため。
1人はチラシ→断熱についての資料→説明という流れでした(展示場とは違う雰囲気の家づくりだったので、断熱理論でのご契約)。
 

この結果は不思議でした。
 

展示場は必要条件??

  私は、仕事とは「仕掛け」に寄るのではなく、「人」に寄るのではないか・・という抽象的な感覚を覚えました。
 
「仕掛けに寄せる」のはハウスメーカーさんの手法であり、
中小企業は「人に寄ってくる」のかなぁ・・という感覚です。  

 新住協の会沢さんは、ちょうど2~3週間前に似たような話を私にしてくださっていました。それも有っての不思議な感覚を覚えたのです。

 会沢さんもずっと前から、「白鳥君・・組む人、間違ってないか?」と
私を心配してくれている方で、会沢さんがその時に話した内容はこうでした。
  会沢さん 「もし、あの会社(㈱木の香の家)で仕事が増えるなら、それは展示場があるからではないと思うよ。白鳥君がいるから仕事が増えるんだと思うよ。白鳥君がいなくなるとその答えは分かるよ。すぐ仕事が減るから。」
 

事実は小説よりも奇なり。


お天道様は見ています。



「流れに従って生きる」ー仙台スタート編ーACT61:岩手へ戻る「流れ」が加速し始める①


私はこの頃から、江原氏とは決別しようと強く思い始めていましたが、
仙台で出会った3人のお客様の仕事だけは終わらせてからにしようと考えていました。
 まだ、正式契約までなっていませんでしたが、全てのお客さまに対して家づくりの断熱理論を熱く説明していたからです。

 そんな、曖昧な精神状態で仕事をしているとき、
思わぬ出来事が起きました。
 

ありえない確率のタイミング

 私は現在のかみさん(しばらく菅原さんと記します)と、その頃付き合っていたのですが、その菅原さんからの電話でした。

 菅原さん「うちのお父さんが家を建て替えるんだって。
それで、私がプッシュしておいたから説明に来て欲しいの」という突然すぎる話でした。

 その時点で菅原さんの親御さんには、大手Hホームと、なんと私が在籍していたCホームが営業に来ているというのです。

そのときは、何の流れが始まるんだ(??)とビックリしました。 

 Cホームは私と犬猿の仲だった上司が営業に来ていたので絶対に勧めたくなかったし、Hホームも値段の割には性能が悪かったのでお勧めできませんでした。

 しかし・・そのときの木の香の家でも建てたくないという思いも出てきました。
 自分の彼女の実家を江原氏の息が掛かった会社の物件にしたくないという思いが強く出てきたのです。
 

どうしたらいいか悩みました・・。
 
 人が家を建てるのは、一生に1回か2回・・そんなめったにない出来事が、こんなタイミングで自分の彼女の家で起きるなんて・・。

もしかして「岩手に戻れ」・・という「流れ」なのか・・? 

頭の中がかなり混乱してきました・・。
 
 

そして、数日間・・仕事をしながら悶々と考えていました。

岩手に早く戻るべきか・・仙台で3人のお客さまの家づくりの目途が立つまで仙台の会社にいるべきか・・
 そんな悩んでいるタイミングで、さらに追い討ちを掛けるような出来事が起きたのです。
 


事実は小説よりも奇なり。


お天道様は見ています。




「流れに従って生きる」ー仙台スタート編ーACT62:岩手へ戻る「流れ」が加速し始める②


私が、早く岩手に戻るべきか・・3人のお客様の家づくりにうまく進んでから戻るべきか・・悩み始めたとき・・
 突然、数年ぶりに東京で設計事務所をしているウッチーさんから電話があったのです。
 ウッチーさんは、私の先輩で以前に登場してましたが、私が初めて高断熱高気密住宅(ウッチーさんのご両親さま宅)に携わることが出来た恩人でもありました。

 その後、5年くらい東京で設計事務所をしていたのでした。 
(ウッチーさんの経歴は、仙台生まれ、仙台育ち、仙台の大学、
東京の大学院、東京で勤務・・です。)

 ウッチーさんからの突然の電話内容はこうでした。

ウッチーさん 「白鳥君、僕ねぇ・・今度、岩手に行くことになったよ!」
 
私 「え!?何で岩手ですか!?」

ウッチーさん 「岩手県立大学の講師にならないかって誘いがあったんだ。いろいろ考えて岩手に行くことにしたよ。」

あまりのタイミングの良すぎる突然の内容に・・

私は・・

私 「そうですかぁ・・。これも流れなのかなぁ・・」

ウッチーさん 「何?岩手に戻ろうと考えているの?」

ウッチーさんは、以前から私の「流れ」という不思議な出来事を何度か見ているので、すぐ理解したようでした。

私 「何となく・・そうなんですよねぇ・・。」

ウッチーさん 「江原氏とは、合わなかったんだ。」
 

 ウッチーさんには、以前に江原氏に会ってもらっていましたが、ウッチーさんの江原氏に対する印象もかなり悪かったのです。
 
 
私 「それもありますし・・、実は岩手の彼女の実家で家を建ててくれという話が降って沸いてきたんですよ」
 
ウッチーさん 「まぁ何となく・・、寒研(寒地住宅研究所)の本間さんも岩手に来るみたいだし、磁力は岩手に向いている感じはするね・・。」
 
 

仙台に未練があるもう一つの理由


ん~。私はますます悩みました。
 
 仙台の3人のお客様を手がけてから退社・・にはもうひとつ理由があったのです。
 それは、私には仙台にいるうちに恩を返しておかなければならない人がいたということでした。
 

 大工さんです。
 

 仙台に居たときにお世話になった高橋大工さん(仮称)なのですが、私に多大な期待をかけてくれた人なのでした。

 岩手の会社に行くときも「白鳥さんはいずれ独立する人間なんだから、仙台に戻ってきたらいつでも手伝うから」と、その後もちょこちょこ連絡を取り合い、私が仙台に戻ってくるのを待ってくれていました。

 高橋大工さんは大手ハウスメーカーの下請けで、最近はもっぱらツーバイフォー工法の現場が多く、軸組みをやりたいという事も言っていました。

 そんな事情もあり、せっかく仙台に戻ってきたのだから、1つくらいは仕事をいっしょにしたかったのです。
 

私は悩みに悩んで・・高橋大工さんに相談に行くことにしました。



事実は小説よりも奇なり。


お天道様は見ています。




「流れに従って生きる」ー仙台スタート編ーACT63:高橋大工さん と 江原氏の顔合わせ


私は高橋大工さんに木工事の話をするため会いに行きました。

 打ち合わせの進捗状況から考えると、牧田の立て看板を見たことがきっかけでご契約になった吾妻様というお客さまでした。

 吾妻様は仙台市から2つ隣の塩釜市でクレーン会社を経営している方なのですが、あまりにも知り合いの大工さんが多いため、「どこに頼んでも角が立つ」ということで、全く関係ない住宅会社に頼みたかったという特殊な事情の方でした。

 実は吾妻様との打ち合わせのとき、吾妻様からこのような相談をされてました。
「請負契約は木の香の家にするから、木工事を俺(吾妻さま)の知っている腕のいい大工さんを使ってくれないか?」と依頼されていました。

 お仕事柄、気に入った大工さんがいるとの理由のためでした。

 
 しかし、私は「高断熱高気密という特殊な作業ですし、私が依頼している大工さんは間違いなく丁寧だから、こちらの大工さんにさせてください」と、性能を担保するため譲らなかったのです。

その物件を高橋大工さんでやろうと考えていました。


 吾妻さんも、「それじゃ内部造作だけでも自分の知っている大工さんにさせてもらえないですか・・」とまで聞かれました。

 吾妻様ずいぶん粘るので、素晴らしい大工さんなんだなぁ・・と思いましたが、まずは、それぞれお勧めの大工さんのタイミングもあると思うので、それを確認してから決めましょうということになりました。

 

 私は、さっそく高橋大工さん塩釜の現場の説明をしに行きました。
 仙台に戻ってきて1つめの現場なので手伝っていただけませんか・・というお願いのためでした。 

  仙台市内ではないけど、高橋大工さんの自宅からは距離的に近くなるというメリットもあり、現場への乗り込みタイミングも問題ないとの回答をいただき、基本的には木工事を引き受けてもらえることになりました。

 私が独立しての初めての仕事ということもあり、「なんとかやってやるか」・・という気持ちも感じるほど前向きになってくれました。

 話が前進したことで、とりあえず一度会社に来てもらい、まずは会社の様子を見てもらいながら社長である江原氏に会ってもらうことにしました。

 

江原氏と高橋大工さんの初顔合わせ


 数日後、高橋大工さんが事務所に来ました。

 私は 江原氏 に 高橋大工さん を紹介しました。

 私 「こちらが、お世話になっていた高橋大工さん(江原氏に対して)」

 私 「こちらが、社長の江原さん(高橋大工さんに対して)」

 一般的なあいさつをした後、今後の現場や会社と大工さんの関係についてなんとなく話をし始めました。

 
 ところが・・・、3人で話をしているうちに、「現場をどうするか」とか、「高橋大工さんがどれくらい木の香の家の仕事に携われるか」・・という話はなかなか進まなかったのです。

 なんか変な雰囲気のまま、「沈黙」と「しょうもない雑談」が進むような会話でした。

 話は何も決まらないまま、本当に顔合わせ的な雰囲気になり、高橋大工さんも「ゆっくり考えてみます」程度の曖昧な返事になって終了しました。

その場の雰囲気から察すると・・
高橋大工さんの気持ちいまいちという感じであったのです。

 あんなに前向きに引き受けてくれそうだったのに、どうしたんだろう・・と心配になりました。

 

高橋大工さんの決断


 数日後、高橋大工さんの現場に行って話をすることになり、そして・・その真相がわかりました。

  
高橋大工さんが重い口を開きました。

  


高橋大工さん「白鳥さん…、俺、その仕事やらない・・・。」

 

事実は小説よりも奇なり。


お天道様は見ています。




「流れに従って生きる」ー仙台スタート編ーACT64:決心


高橋大工さんの「俺その仕事やらない」の一声に、私はびっくりしました。


 私「え・・何かあったんですか?」

 明確な理由が分からない私は、こういう聞き方しか出来ませんでした。

高橋大工さん「白鳥さん...、なんであんな奴と組んだのや?」

「俺は大工だけど、人を見る目はそこそこ持ってるぞ。」


「あれは『人を疑う目』だ。」

 「俺の目を見ながら、俺が何を考えているやつなのか・・探りながら会話してた。」

「白鳥さんの仕事はしたいが、あいづの仕事はしたくねぇ。」

「白鳥さん、あいづと別れろ。1人でもやれるはずだ。そのときはいぐらでも手伝うがら・・。」

  

決 心


その話を聞いて、私は心の中ですぐに決心がつきました。

高橋大工さんが一目で嫌になったのなら、
この会社に居ても何の恩返しにもならない

 

会社を辞めよう



独立して3人で組んでから半年も経たないうちの決別です。

みっともない気もしましたが、これだけ一気に「流れ」が来たのなら間違いないだろうと・・割り切って考えるしかありませんでした。

  一晩、布団に入りながら「決心」について自問自答もしましたが、
1回目の独立とは違ってスッキリした気持ちになり、あっという間に心の整理がつきました。

 
 もちろん、なんの保証もない無謀な行動ではあります。

 約束された仕事は全く無く、動かせるお金も20万円~30万円の貯金しかない状態での再独立なのです。 すぐに「廃業」・・もしくはどこかに「再就職」ということも考えられました。

・・ですが、一連の出来事がこれだけ重なって、岩手県への吸引力がここまで高まっているのであれば大丈夫だろう・・という「根拠のない自信」だけは消えることはありませんでした。

 翌日から密かに、新住協の会沢さんにも相談に乗ってもらったり、私を信頼して会社の監査役になってもらった鈴木さんにも ご説明 と お詫び をしに行きました。

 
お2人の意見は同じでした。

「やっぱりな。なんであの人と白鳥君が組むのか理解できなかったよ。まだ、若いんだから問題ないんじゃない」というお返事をいただきました。

 
 会沢さんのアドバイスで、表向きは結婚するという理由で岩手に戻ることにして、菅原さんにお願いして家づくりを初の物件にさせてもらえば数か月は細々と食べていけるのでは・・いう道筋がなんとなく見えてきました

 
 畑岡さんの物件は未完成でしたが、私の担当である「性能確保」までは終えているので、あとは牧田に任せても問題ないくらいに進んでいました。牧田にも事情を話し、少し困ってましたが・・納得してくれました。

 畑岡さんの精神は、私が自由にやったほうが受け継ぐことができる・・という考えも再独立の気持ちを後押ししてくれました。

 そんな道筋が見えるのにあまり日数は掛からず、わずか2~3日で「お詫び行脚」と「どうやってスタートを切るか」の整理がつきました。
 
 そして、私は 江原氏に 会社を辞める話をすることになるのです。


 そこからこの物語は信じられないような展開となり、
「怒涛のクライマックス」へと動き始めるのでした。

 

事実は小説よりも奇なり。

お天道様は見ています。




「流れに従って生きる」ー仙台スタート編ーACT65:江原氏の攻撃

数日後、私は江原氏に会社を辞めることを伝えました
 
理由をなんと話したか忘れてしまいましたが、とにかく、考え方がかなりずれているという意味合いは伝えたと思います。
 
 それを聞いた江原氏の攻勢は、私の予想をはるかに上回るほどすごかった・・というか・・すさまじいものがありました。
 
「おまえは絶対にお金で失敗する」と脅したり、すかしたり、なだめたり、わびたり、その喜怒哀楽の激しさといったら、尋常な人間がする行為には思えないほどでした。

 おかしいとも感じました。

 私が社長だったら、辞めたいという人間を会社に置いていても仕方ないので、あっさり認めるだろうなぁ・・と想像できたからです。
 嫌々仕事するくらいなら辞めてもらって、お互いに次のステップを踏むように話すだろうなぁ・・と想像できました。

 江原氏が何故そこまでして、辞めさせないように怒鳴ったり、組もうと歩み寄ったりするのかが理解しづらいものがありました。
 

 江原氏の怒涛の攻勢は1か月も続きました。

 脅しの内容はいつも同じで「こういう理由でお金でつまずき、お前は人生を棒に振る」というものでした。
 何度も脅したあとでなだめるときは「今、うちの会社には4000万円の現金がある。少し貸してやってもいいぞ」という譲歩案もありました。
 

 私は、これもおかしいと思いました。
 

 4000万円は一時的に入金された工事代金であり、お客様から預かっているお金なのです。その8割~9割は支払いにまわり、会社の運営費用も考えれば使える資金は数%しか無いはずなので、数か月後にはほとんどが消えるお金なのです。
 あたかも、その4000万円がず~っとあるように表現している感覚に違和感を覚えました。
 

 もちろん、お金なんて借りたら、何十倍もの「貸し」に化けることは分かっていましたし・・、再独立に向けて強い流れも感じて腹も決まっていたので、そんな茶番劇に動じることはありませんでした。

 私を信頼して400万円を出資してくれたホンダ建材の木戸社長さんには、何度も事情を話して最終的には理解してもらいました。
 
 

江原氏が出した条件1


 1ヶ月ほどの攻勢でも折れないことが分かった江原氏は、私に会社を辞める代わりとして2つの条件をだしてきました。
 
 
 1つは、その時点で私が担当して契約寸前だったお客さま(佐藤さま)の引継ぎでした。
 私の手紙でここまで話が進んだので心苦しかったのですが、佐藤さまには、江原氏の方から「白鳥が結婚するので岩手に戻る」という電話をするので、私から一切の連絡をとらないことを言われました。
 もし私から電話すれば、契約すら壊れると江原氏は警戒したのでしょう
私は快諾し、「どうぞご自由に」・・という思いでした。



江原氏が出した条件2


もう1つは、私が居なくなると江原氏にとってホンダ建材の社長の存在は邪魔でした。 
「株式会社」の称号は取れているし仕事も見えている状態なので、株を買い取ってホンダ建材の社長さんには、株主から抜けてもらうように私に協力しろ・・ということでした。
 
これも、問題ないと思い快諾しました。
 ホンダ建材の社長にとっても、私が居ない会社に出資する義理もないと思うので、すぐにOKしてくれると思いました。
 

 私は2つの条件を飲むことで江原氏をようやく説得でき、次のスタートのための準備に取り掛かりました。
 菅原様邸(彼女の家)を初めての物件にさせていただくお願いや、周りの人へのあいさつなど周辺整理に日々を費やし、ほぼ事務所には行かなくなりました。
  

新たな展開


 しかし、ここから思わぬ方向へ話が展開していくのです。

 
数日後、突然、私の携帯電話に佐藤様(お客様)から電話が掛かってきたのです。


事実は小説よりも奇なり。


お天道様は見ています。


「流れに従って生きる」は、⑧ー再独立編ーにつづきます。


******************************

★「流れに従って生きる」①ー大学生活編ーは下記より飛んでください。
歴史上初の出来事によって大逆転で志望校に合格!そして・・ありえない話の連続ストーリです(実話
10代の皆さんの勉強に臨むヒントになるかもしれせん。
「流れに従って生きる」ー①大学生活編ー ACT1:大学受験勉強|けんけん(白鳥けんし) (note.com)


★「流れに従って生きる」②ーN建設編ーは下記より飛んでください。
安月給の会社で5年、自分スキルを上げた爆笑ストーリー(実話)!
20代の若い社会人の皆さんのヒントになるかもしれません。
「流れに従って生きる」②ーN建設編ーACT13:ここに居る意味がある|けんけん(白鳥けんし) (note.com)


★「流れに従って生きる」③ーフランスワールドカップ編ーは下記より飛んでください。日本が初めてワールドカップに出場した大会。会社を辞めて観戦に一人旅。そこでも起きる不思議な出来事…(実話)。なにかのヒントになるかもしれません。
「流れに従って生きる」③ーフランスワールドカップ編ーACT31:不思議な出会いその①|けんけん(白鳥けんし) (note.com)


★「流れに従って生きる」④ー転職準備編ーは下記より飛んでください。
次の行き先を決めないままN建設を退社。
しかし、人生とはうまくつながるものです。人生の転換を考えているかたになにかのヒントになるかもしれません。
「流れに従って生きる」④ー転職準備編ーACT37:HAさんとの不思議な縁|けんけん(白鳥けんし) (note.com)


★「流れに従って生きる」⑤ーCホーム編ーは下記より飛んでください。
Cホームでの経験が次の人生に大きく影響しました。
最後は宝くじで10億当たる以上の出来事で電流が流れます。
人生で岐路に立つ方になにかのヒントになるかもしれません。
「流れに従って生きる」⑤ーCホーム編ーACT40:Cホーム入社|けんけん(白鳥けんし) (note.com)


★「流れに従って生きる」⑥ー独立準備編ーは下記より飛んでください。
独立することを決意したときから、巻き起こる信じられない偶然の出来事!これはなんなのか…引き寄せの法則とは本当にあるのか…?
信じられないストーリーは、人生の中で勇気ある一歩を踏み出した方になにかのヒントになるかもしれません。
「流れに従って生きる」⑥ー独立準備~編ーACT47:独立準備|けんけん(白鳥けんし) (note.com)


★「流れに従って生きる」⑧ー再独立編ーは下記より飛んでください。
ついに最終章!。今まで仕込まれていた絡まった糸の数々が全てここにつながっていたのか・・と驚きます。
怒涛のラスト18話・・・是非読んで下さい!。
事実は小説よりも奇なり。お天道様は見ています。
「流れに従って生きる」⑧ー再独立編ーACT66:大どんでん返し|けんけん(白鳥けんし) (note.com)

いいなと思ったら応援しよう!