それでも私が書きたい理由
「nonchanにピッタリなものがある。天狼院書店のライティングゼミって知ってる?」
天狼院書店という書店という名前を知ったのは偶然だった。
その書店の名前を聞いたのはとあるキャリアコンサルタントからだった。
キャリアコンサルタントにお世話になるためには、私自身が仕事で上手くいっていない必要があったし、そもそも会社の異動で私のキャリアが全く先が見通せないものになっている必要があった。
天道院書店という単語を私が知るためには、このような偶然の上で成り立つ。
ちなみに、この天狼院書店という書店では様々なゼミを開催していて、中でもライティングゼミは文章によって「人生を変える」ほどのものらしい。
キャリアコンサルトの方からは、今までの自分を振り返って紙に書き出すアドバイスをいただいた。
どんどん書いて生まれる紙の山。
振り返りを進めていくと、私は自分の考えを表現したいのだ、それが好きなのだということに気がついた。
けれども自分の感情を想いを表現する方法を私は持ち合わせていない。
そんな時にキャリアコンサルタントの方が紹介したのが、天狼院書店のライティングゼミだった。
何も考えずに行動する私は、早速ライティングゼミに応募した。
課題として、毎週2000文字の文章を書く日々が始まった。
面白くもなく、当たり障りのない私の文章。
ゼミでは最後までお客さんに読ませる文章の書き方をあの手この手で教えてくれるけれども、一向に私は上達しない。
相変わらず、私は何をするにもセンスがない。
私が書いた文章を添削してくれるのは天狼院書店で活躍するライターの方々。
文章を書くことを生業としているだけあって、指摘するポイントは的確だった。
せっかくアドバイスをもらっても、元来の頑固さが邪魔をして、なかなかアドバイス通りに書かない自分がいた。
ライターの方々書く文章がプロの劇団が演じる劇だとするならば、私が書く文章はさながら子供のお遊戯会のようなものだ。
自分が頑張って書いた文章を読んでほしい、注目してほしい、そんなお遊戯会で一生懸命踊る子供のような感情。
賞賛されたい承認欲求の塊のような文章。
ただ自分が感じたことをありのままに書く文章。
自己表現がしたいと粋がっても、所詮私が書く文章は独りよがりな文章だ。
けれども、何度も文書を書いていくうちに、なんの変哲もなかった生活に変化が生まれた。
文章を書くまでは世界が灰色に見えて何もかも感じなくなっていたけれど、文章を書くようになって、少しずつ周りのことに興味を持ち始めた。
日常の些細な風景や感情を書き出すと、世界には彩りがあったことに気が付く。
ライティングゼミが終わる最後の週。
私は最後の課題に書くテーマを考えた。
なんで自分は文章を書きたくなったのだろう。
そもそも自己表現はなぜしたいのだろう。
理由は承認欲求だけではないはずだ。
また紙に自分の考えを書き出して、また書き出した紙で山を作って、答えに辿り着いた。
その答えは、
「自分がいなくなったとしても、想いを綴った文章は残り続ける」
ということだった。
人はいつか死ぬ。
遅いか早いかの違いだけで必ず死ぬ。
私自身、何か世の中に貢献したかといえば言えないし、世の中のために何かできるほどの能力もなければ意思もない。
けれども、生きている以上は何か残したいという欲求があることも嘘ではない。
口先だけで能力がなく何もできない人に限って考える思考の果てとも言える。
そんな私だけれども、私が書いた文章が巡り巡って誰かの目にとまり、少しでも感じるものがあったのならば、私が文章を書いた意味はあったのかもしれない。
私がいなくなった後も文章は残るから、私が知らない世界で私の文章が誰かの心を動かすことができたのなら、私がいきた意味なんてそれで十分じゃないかとすら思ってしまう。
もちもん、未来の人が読むような文章を書けるとも思っていないし、自分の文章が長い年月をかけて読み継がれるものとも思っていない。
そこまで思ってしまうならば傲慢な人以外の何者でもない。
私が書いた文章が大勢の人に読まれずに消えていくかもしれない。
そんなことは百も承知だけれども、それでも書かずにはいられない。
私が独りよがりな文章を書く理由は、私の遺書を書くためだと思っている。
私が死んだ後も私の想いを伝え続ける文章を。
それは決して、プロの劇団が演じるような多くの人たちを感動させたり楽しませたりするものではないだろう。
一人よがりな文章を書き続けることだろう。
そうすることでしか自分を表現できない私だから。
noteに書く拙い文章たち。
その1つ1つが私という人間の生き方、考え方、想いを残していく。
いつか私がいなくなったとき、このnoteが遺書になっていることだろう。
この遺書のような文章が、独りよがりな文章が、何の味気もない面白くもない文章が、もし誰かの心に届いたのなら、私が文章を書いた意味、生きた意味があったのかもしれない。
傲慢かもしれないけれども、そう願わずにはいられない。
そして、こう思わずにはいられない。
私の文章を読んでくれてありがとう。
私がいなくなった後、もし私の書いた文章がたった一人でいいから誰かの目に止まってくれたのなら、たとえ忘れ去れたとしても、目に止めてくれた、心が動いてくれた、その事実は変わらない。
その事実がある限り、私は文章を書き続ける。
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