己と対峙する-コロナウイルス後遺症を通じて伝えたい自分との向き合い方- Ⅰ
第一章 希望の芽生え
私は幼い頃から,心も体も弱かった。
ストレスや疲労が溜まるとすぐに扁桃腺が腫れ,40.0度を超える高熱が数日間続くことが何度もあった。そんなときは食事や水分を摂るのも一苦労だった。小学校では,体調不良で何日も休むことが当たり前のようになり,皆勤賞など取れる希望すらなかった。
それでも,家にいられる間,平日のお昼にテレビ番組を楽しめることに,少しばかりの優越感を抱くこともあった。父の影響で始めた野球だけが,私の日常に活気を与えるものだった。扁桃腺が原因で練習を休むこともあったが,それでもグラウンドにいる時間はかけがえのないものだった。
しかし,熱中症で倒れたことをきっかけに,夏と暑さが私にとって恐怖の対象になった。毎年夏が近づくたび,体が拒絶するような感覚に襲われた。今でも変わらない。そして中学に入学すると,環境の変化がさらに私の心を圧迫し,過呼吸や吐き気が頻発するようになった。その結果パニック障害と不安障害を発症し,中学一年生の初期から学校に通えなくなった。家の外に出ることすら難しくなり,私は閉じ込められたような日々を送った。
そんな状況を支えてくれたのは,両親や友人,そして特に祖母だった。祖母は私が学校に戻れるように,毎日優しい言葉をかけ続けてくれた。半年が経つと,少しずつ学校に戻る努力を始めた。一限だけ出席する日々から,やがて午前中の授業に通えるようになり,一年が経つ頃には野球部に顔を出すまでに回復した。三年生の春まではベンチを温める日々だったが,最後まで部活を続けられたことが,私にとっては大きな誇りだった。それ以来,扁桃腺の問題は残っていたものの,精神的な不調は起こらなくなった。
そんな中,祖母が急性の病気で他界した。
私が外出している最中で,母からの震えた声での電話でそれを知らされた。「祖母が救急車で運ばれた」と。もっと早く帰っていれば,もっと感謝を伝えて入ればと,考えれば考えるほど,後悔と自負の念が押し寄せた。高校の制服を見せることも出来なかった。今でも,あのときの後悔は胸の奥でくすぶり続けている。
高校に進学すると,私は再び野球部に入部した。中学時代の悔しさを胸に,練習に打ち込んだ結果,エースナンバーである背番号1番を背負い,スターティングメンバーとして活躍できるまでに成長した。部活での成功は自分の中で少しずつ自信を育んでいった。一方で,進学校だったため,勉強との両立には苦労した。特に,行きたい専攻が決まっていたため,高校三年の夏の大会が終わると,部活の引退と同時に勉学に専念した。しかし,思うような成果は出ず,希望していた国立大学には全滅で,滑り止めで志願した私立の大学に進学することになった。
それでも,その大学は私にとって理想的な環境だった。都内へのアクセスが良く,専攻する学問には最高の環境が整っていた。大学生活は楽しく,友人たちとはしゃいだり,旅行に出かけたりと,思い描いていた「青春」を満喫することができた。そんな楽しい日々は,ずっと続くものだと思っていた。
しかし,そんな日々が一変したのは,大学2年生の夏だった。新型コロナウイルスが世界中で蔓延し,猛威を震い始めたのだ。友人や家族,さらには社会との交流が物理的に分断され,人々とのつながりはデジタル上に限定された。オンライン授業が中心となった生活は,退屈で無機質な日々だったが,当初は「仕方がない」と割り切っていた。それでも,制限が少しづつ緩和されるにつれ,久しぶりに人や社会と対面で関わる機会が増えていき,閉塞感のあった毎日に少しずつ光が差し込んだ。
だが,当時の私は,自分が体が弱い人間であるというリスクを軽視していた。コロナウイルスやワクチン後遺症についての情報はあったが,社会全体の空気に流され,その脅威をどこか楽観的に捉えていたのだ。