己と対峙する-コロナウイルス後遺症を通じて伝えたい自分との向き合い方- Ⅲ
第三章 孤独と葛藤,そして希望
そんな中,久しぶりにX(旧Twitter)を再開し,「コロナ後遺症」専用のアカウントを作成した。最初は半ば無意識の行動だったが,ワクチン後遺症やコロナウイルス後遺症で苦しむ多くの人たちがいた。その存在を知った瞬間,心の中に小さな光が差し込むのを感じた。私はずっと「自分だけがこんな状態なのではないか」と錯覚し孤独に苛まれていた。しかし,患者たちが投稿する言葉に共感し,勇気をもらい「自分も頑張ってみよう」と思えるようになった。
「どんなに辛くても,ここでは否定されない」その暖かい場所に支えられ,私も明るく発信してみようと思った。自分の経験やメモの一部を投稿し,同士をフォローしていく中で,少しずつ交流が生まれた。日付とともに「おはようございます」から始まる投稿には,その日の症状や達成したい目標,例えば「今日も頑張る」や「一歩ずつ進む」といった前向きなメッセージを添えた。外向きには希望を語り,ポジティブな言葉を選ぶよう努めた。
しかし,現実はその投稿と大きくかけ離れていた。内なる自分は日々,現実感を失う感覚に苛まれ,死の恐怖に囚われていた。X上では前向きでいようと決めていたもののそのギャップが私をさらに苦しめた。ある日,投稿を終えた後に「本当にこれが自分なのか」という虚無感が押し寄せた。SNSの自分は明るく励ます存在だが,現実の自分は心と体が弱りきったままだった。
特に辛かったのは,他者との比較だった。テレビや動画ストリーミングサービスで映し出される元気な人々の日常を目にするたびに,怒りと嫉妬が入り混じった感情が湧き上がった。「どうしてこんなに苦しまなければならないのか」その問いが頭を離れなかった。なんで俺が。なんでこんな目に。
Xでの人々は現状を受け入れつつ,未来を見据えて前向きに生きているのに,私にはその気持ちが完全には理解できなかった。
それでも,日に日に,フォロワーが増え,リプライを交わす仲間ができ,「いいね」がつくことに嬉しさを感じるようになった。その小さな交流が,想像以上に私の心を支えた。SNSに否定的だった私が,これほど救われるとは思わなかった。「SNSは承認欲求を満たすための場所」というレッテルを貼っていた自分を恥じると同時に,この暖かく優しいコミュニティに感謝の気持ちを抱いた。
厳しい現実との向き合い
一方で,現実の生活は相変わらず過酷だった。大学院での研究も終盤に差し掛かり,脳疲労の中,パソコンに向かう毎日は苦痛そのものだった。少し作業を進めると頭がモヤモヤして重くなり,逆に休むと「終わらないのでは」という不安が襲ってくる。さらに,もう片方の祖母の死という悲しみが重なった。祖母には最期に「ありがとう」を伝えることができたが,その喪失感は消えなかった。
それでも,過去の自分と比べて,これらの出来事を受け止められるようになっている自分に気づいた。私にとって最も辛かったのは,外部の悲しみではなく,自分自身と向き合うことだったからだ。自分の中にある弱さや苦しみに正面から向き合うのは,想像以上にエネルギーを要する行為だった。
希望の芽生え
苦しみの波を乗り越えながら,論文は粗方完成し,体調も徐々に回復していった。アルバイトに行けるようになり,友達と遊ぶ機会も増え,日常に少しずつ色が戻り始めた。それでも,私は常に自分と対峙し続けている。
瞑想で,改めて自分の体がどれほど疲弊し,心が乱れていたのかを実感した。これまで私は,自分の弱さを認めつつも,どこかでそれを「放置」していたことに気づいた。心体が弱い自分を諦めていたわけではなかったが期待をかけることを避けていたのだ。
この病気を通じて,私は「自分が愛され,慕われ,期待されている存在である」と気づいた。家族や友人,そしてSNSの仲間たちの存在が,その事実を教えてくれた。そして,そんな自分をもっと大切にしようと決意した。
「己と対峙すること」
この言葉の重みを私は心に刻んだ。現実感はまだ完全には戻らない。それでも,過去の自分と比べて,少しづつ自分を愛し,自信を持てるようになってきた。毎日自分と向き合い,自分に問いかけ,自分を制御する日々を過ごしている。