己と対峙する-コロナウイルス後遺症を通じて伝えたい自分との向き合い方- Ⅱ
第二章 嵐の訪れ
「核心的な崩壊の初期微動が,大学4年生の夏に起こる」
卒業研究で訪れた沖縄のある地域。この地は,どこまでも青く広がる空と海の開放的な雰囲気漂う場所だった。夜になれば,地元の人々が集い,賑やかなお酒の席が広がっていた。私もその空気にすっかり染まり,ついマスクを外す機会が増えていった。完全に油断していたのだ。そしてある日,喉に違和感を覚えた。それは,今までに経験してきた扁桃腺の腫れとは明らかに異なる不快感だった。じわじわと襲ってくる熱感。そして急激に上昇する体温。コロナウイルスのオミクロン株に感染していることが判明した。
陽性反応を聞いたとき,全身に冷たい汗が流れた。それまで対策をしてきた「つもり」だっのに,自分は感染を防げなかった。身体の弱い自分をもっと守るべきだったのに。そんな自責の念が,強いショックとして胸を締め付けた。
その後,私は指定されたホテルで二週間の隔離生活を送ることになった。最初の10日間は40.0度の熱に苦しみ,喉の痛みと扁桃腺の腫れがひどく,食事も水分も摂ることままならなかった。熱にうなされながら,昼夜の感覚が曖昧になるほどの寝たきりの日々を過ごした。しかし隔離期間の最後の数日には,体調が少しづつ回復し,すっかり元に戻ったかのように思えた。
だが,今振り返れば,このときウイルスはすでに私の体に潜伏し,静かに進行していたのだろう。特に鼻や喉の粘膜を蝕み,慢性的な炎症を引き起こしていた。
希望の兆しと新たな試練
その後,私はなんとか卒業研究を進めることができた。しかし,この研究が教授の主研究だったこともあり,私は高圧的な指摘や議論にさらされていた。些細なミスも大袈裟に責められ,次第に研究室に向かうこと自体が苦痛となった。動悸が止まらず,涙が溢れる日もあった。精神的に追い詰められていく中,進学を機に研究室に異動することを決めた。
新たな研究室では,優しい先輩や同期,後輩たちに囲まれ,のびのびと活動できる環境が整っていた。そこでは自分らしさを取り戻し,少しずつ精神的な安定を取り戻していった。大学院生活はさらに忙しかったが,アルバイトや就職活動をこなしながら充実した日々を送ることができた。
そんな努力の日々が報われ,私は業界大手と呼ばれる企業から内々定をもらうことができた。電話でその知らせを聞いた瞬間,胸が熱くなり,これまでの自分を肯定できた気がした。
幼い頃,心も身体も弱かった自分では想像できない成果だった。社会人生活を夢見て,希望に満ちた日々を過ごしていた。だが,その「希望」は突如として打ち砕かれた。
再発と孤独の深まり
2024年5月,高熱が続き,ついに動けなくなった私は,生まれて初めて救急車で運ばれた。嫌な倦怠感と鼻の異常感覚があったが、当初,医者からは「若いから,自然に治る」と言われ,自宅療養を続けた。しかし,療養期間が終わっても,咳と痰が止まらず,体力は回復しなかった。半日以上を寝て過ごす日々が続いた。
7月になると,研究室での責任や立場へのプレッシャー,さらに鼻と喉の違和感が重なり,不眠と過呼吸が再発した。そしてそのタイミングを境に,症状は急激に悪化していった。最初は,記憶の乱れと言い間違えが増え,思考や理解が鈍くなったように感じた。そして次第に,離人感,慢性疲労,浮遊感を伴うめまいが現れた。「頭が壊れてしまったのではないか」という恐怖が日に日に増していった。
耳鼻咽喉科や内科を渡り歩いたものの,症状は一向に改善しなかった。その頃のメモには,次のようなことが書き記されていた。
・7/7「死ぬんじゃないか。自分が失われる感覚。視界がかすむ。不安感が絶えない。」
・7/11「だいぶ良くなったと思うけど,まだ漠然とした不安が残る,外に出るのが怖い。」
・7/29「離人感がひどい。自分じゃない感覚。意識が遠のく。」
このような症状が,日に日に増え,消え,また悪化していく。そんな不安定な日々が続いた。
私は知り合いから,コロナウイルス後遺症の慢性上咽頭炎である可能性を指摘され,EAT療法(Bスポット治療)を開始した。治療自体は激痛を伴うもので,鼻と喉に薬剤を染み込ませた綿棒を挿入し,炎症箇所を擦過するというものだった。治療後,血が出ていることもあり,疑念と不安に襲われた。
それでも,治療を繰り返す中で,炎症は少しづつ抑えられていく感覚があった。鼻や喉の不快感が軽減することで,体調が少しでも改善する希望が見えたのは事実だ。しかし,症状全体が劇的に良くなるわけではなく,ブレインフォグや慢性疲労,不安障害などの症状は以前として私を苦しめ続けた。次第に電車も乗れなくなっていった。次から次に頭の中に視界上の情報が流れ込んできて,脳内で勝手に会話が行われる。思考を止められない。さらに,精神的な負担は日に日に増していった。パニック障害の発作は予期せぬタイミングで襲いかかり,息苦しさと胸の痛みが私の全身を支配した。自律神経の乱れによる不眠も続き,夜になればベットに入ることさえ恐怖に感じた。眠りに落ちる瞬間,自分がこのまま目覚めないのではないかという感覚に襲われ,全身が震えた。
その頃には,「死」という言葉が頭の中に浮かぶようになっていた。死ぬことを望んでいたわけではない。しかし,絶え間ない苦痛と不安に囚われた中で,「もしこれがずっと続くなら,生きている意味はあるのだろうか」と考える自分がいた。その時から,一人暮らしをしていた家よりも実家にいることが多くなった。感じたことのない身体と心の不調は,家族や友人の励ましも,届かないほどに,心がどんどんと閉じていった。睡眠が取れず,自律神経が乱れ,それが精神を蝕み,症状が悪化する。負のループだった。こんな状態での会社入社への不安で,社会から孤立する感覚に陥った。「普通の生活」への道は,果てしなく遠く感じられた。改めて,自分の負の感情・体調と対峙した。
再起への兆しと新たな課題
療養を続ける中で,症状は本当に少しづつではあるが改善していった。パニック障害の発作が少し減り,鼻や喉の違和感は無くなっていった。だけど,すぐに医療機関に連絡がいくようにデジタルウォッチの装着が欠かせなかった。毎日心電図を計り,睡眠を記録した。そのくらい精神が削れていた。さらに,携帯の自律神経計測アプリでの記録とマインドフルネスも欠かせなかった。当時の,自律神経スコア,心拍の揺らぎ,心拍数を見ると,スコア(ずっと交感神経が優位)と揺らぎは低く,心拍数は高かった。Bスポット治療と精神科治療を続けながら,療養をしていると,本当に少しづつ,良くなっていった。そこから何とか希望を持とうとしていた。
その希望を支えてくれたのは,家族の存在だった。母は毎日私の様子を気にかけ,食事を用意してくれた。父もいつも通り,和やかな空気を創出してくれた。弟も気を遣いつつ,楽しませてくれた。家族がいなければ,私はきっとここまで立ち直ることはできなかっただろう。中学生の立志式以来に両親に手紙を書いた。恥ずかしさはあったが,若かった頃の見栄は全く無かった。
しかし,体調が改善していく中で,私は新たな焦りを感じ始めた。「早く元の生活に戻らなければ」という思いが強くなり,無理してしまう日も増えた。旅行や学校の活動に積極的に参加しようとして,元気だった頃の自分を取り戻すために予定を詰め込みすぎてしまった。
2024年10月,内定式の次の日に「クラッシュ」を迎える。再び40.0度の高熱が一週間続き,身体は完全に動けなくなった。脳の違和感は強まり,不安感と離人感が再び私を支配した。頭の中で思考が暴走し,止められなくなった。自分を責め続ける日々が続いた。全く油断してはいなかった。ただ,焦ったのだ。