862字の雑文
二面性、あるいは多面性といった言葉が、好ましくないこと、あるいは良く言ってせいぜい変わっていること、といった語られ方をしてきたのは、80年代/90年代/ゼロ年代/そしてこれを書いている2024年からすると、ここ十数年の間にだいぶんと収まったとはいえ、未だ私のような80年代生まれには、未だ根深く意識にあると言える。
自分自身の経験したことしか語る言葉を持たない私としては、手前味噌になることを承知の上で、私自身の二面性/多面性を例にとってみるならば、生まれた日時からして、3月21日という黄道十二星座の始まりの日(つまり終わりと背中合わせの日)は、西洋占星術においてカスプという境目であるからして、終わりと始まりが共存している。
占星術においては、春分から始まる牡羊座を赤ん坊として、牡牛座,双子座…と、年齢域を徐々に上げながら喩えたりすることがあるけれど、老成した山羊座の次、超人とも言われる水瓶座のまた次、カオスとも評されるくらいの魚座だから、年齢の概念を超えた存在と赤ん坊とが背中合わせになっているわけで、二面性の極みであると言えよう。
私はおかげ様で、両親や家族、友人に恵まれていたから、その特質を否定することもなく、自分の中色々な自分がいることに誇りさえ持って生きて来たし、これから先もそうして生きて行くわけで、“自分とは◯◯である”といった一言で表明できるようなものは持たないけれど、不思議なことにこの年になって周囲の人から、前田はどこに居ても変わらないと言われるようになっている。
どこがどう変わらないのか、私は私しか生きられないので他人と比べることはできないが、人々にその姿が何か伝えられていることがあるのなら、これは私の役割と言っても良いだろう。
ということで、ラムレーズンと洋梨のタルトを前菜代わりにいただいた私は、これから日本酒を豊富に取り揃える店へ出掛けてくる。
甘党でも辛党でも、前菜でもデザートでも、そんな言葉はどうでも良くて、美味しいものを愉しみながら、今日も良き日だったと、宿に戻って言える私でありたい。