推し活、現代のSNS雑考、自語りなど……ちょ~長いやつ
※相当にまとまりのない長文です。読んでて元気になる類の文章でも無いです。よろしくどうぞ※
11月。一気に肌寒くなり秋が完全に追い出された。最近降っている雨には切なくてエモいみたいな感覚はあまり無い、ただこう、嵐のような悲劇の前の、それに憂い怯えるような肌を刺す感覚とサーーという無機音が響いているように俺には感じられる。
深夜、出先でパソコンをセットしながらこの文章を打っている。特に深い理由は無く『自分自身のバランスを取るために何かを外に出したい』みたいな徒然としたもので、まあ強いて言うならこの二日間がわりとダメだった。あまり素敵ではないお知らせを見てしまったり、自分の中の創作のバイオリズムの波に乗っかって朗々と制作をする、みたいな風に両日とも出来なくて、一度何かを捨てて清算するためにnoteを更新する。ここに書かれるものは恐らく皆様にとってあまり意義のあるものにならない。
意義……逆にアートや芸能にまつわる仕事はSNSの登場によってある種"意義の塊"になった風に感ぜられる。それはここ15年くらいの長く、しかし急速な変化だ。演者とリスナーは圧倒的に近い存在となり、「私はこういうことを目指している、こういう素敵な性格/属性を持った人間なので、皆様はこういう風に応援してください!」と言うプレゼンテーションが上手い人間(グループ)から順番に売れていくようになった。勿論、90~2000年代にもファンクラブや雑誌などを読んでその演者の人柄にも惚れていくというフロー自体は在ったと思うが、主従は逆転し、表舞台における演者が個としてどのようなペルソナを持つか、が何より最優先され、音楽や映像、パフォーマンスは、その人に対する忠誠心をより強固なものにするアイテムとして副次的に存在するようになった。80年代、MTVの登場によって「純然たる音楽的体験」と言った概念が霧散し、全てのメジャー・ミュージックがまるで映画のように変化した時代を経て今の我々はアートを消費するわけだが、そこから30年余りの時が経ち、そのイベントはリスナーも能動的に渦中で発言できる24時間参加型のイベントとなった(その、まるで映画「トゥルーマン・ショー」のような現実と地続きのマルチメディア・イベントは世間では"推し活"と呼ばれる)。現実世界に侵食し、今日の献立からエモい情景、絶唱するマイク・パフォーマンスまで、すべてが同時並行でリスナーの宇宙に存在(介在)する2024年の地球。推し活のカジュアル化はライヴ・ストリーミング・アプリを通じてさらに押し進められ、今では誰でもLiver / VLiverに瞬時に変身でき、友達が友達にスパチャして、"互いに推し合う"行為で絆を確認している。そうでなくてもInstagramのストーリーでは、普通の女子高生が友達の誕生日に顔写真を(まるでアイドルか活動者のように)加工し、自分がいかに友人を推しているかを示すことで友情を確認する。まさに全人類アイドル時代である。
俺はこの事実に対して、何らかのネガティヴな感情を、実は特に抱いていない。ポジティヴな感情も抱いていない。世界の在り方や娯楽との接し方は日々変わりゆくものであるのが自然であり、「昔は良かった」などとコボしている暇があるなら、今の楽しみ方を見出したほうが何百倍も有意義だと思う。ただし「不安な感情」はある。SNSでの人格に自分が乗っ取られていく感じがする。Xなどで皆様と交流していると、自身がどのような立ち振る舞い/立ち回りを求められていて、何をすると皆様が喜ぶかがいやがおうにもインプレッションで可視化されてしまうわけだが、それに最適化した人格として振る舞う誘惑……SNSのドーパミンの誘惑は自分にとって本当に抗いがたい。凄く簡単に言うと、自分がまるで"無骨で、真面目で、真摯で、少しナイーブで、抜けてるけど、でも音楽には一生懸命な兄貴分"であるかのように見せかけたくなる。俺のようなしがない裏方でさえも。
人間の中にある灰色の部分とSNSは相性が悪い。人は白黒がハッキリしたものを好む(俺含め)。良い人、可愛い人、面白い人、エッチな人、純粋な人、ボケる人、突っ込む人、頭が良い人、聡明で何でも分かってる人、達観してる人。そういう風に誰かのことを決めつけたくなるし、そうすれば思考停止して脳を楽にしてても、ずっと安心してられる。人間の中にある複雑な二元性にじっくり目を向けてられるほど現代人は暇じゃない。分かりやすいものが欲しい。努力や葛藤や悩みも、全部ストーリーとして美味しく消化し、消費してしまいたい。これは見ず知らぬ誰かの架空の出来事ではなく、俺自身が思うことだ。
日本は無宗教の人が多い。それどころか、心のどこかで宗教人を「無意味で愚鈍なことをしている人」と無意識に見下しだしているフシすらある(ネットミームは基本的に楽しむかスルーして距離を置くスタンスだが、「スヤスヤ教」に関しては久しぶりに本気で腹が立った)。何かに帰依しづらい国を生きる我々は、むしろ拠り所を深く所望して当然だと思う。基本的に推し活には賛成派だ。心の相方を金銭的にサポートするために法的にグレーな稼業に手を出すようなタガが外れた行為は勿論ぜっっっったいにあってはならないと思っているが、自分の心に誰かの偶像を飼うことによって、それが生きるよすがになるのであれば、ガンガン推しは作るべきだと思う。金銭的消費も、自分が無理なくできる仕事やバイトの範囲でする分には素敵だ、今流行ってる缶バッチの痛バも俺は見てて嬉しい気持ちになる。それだけしたいくらい好きな人に出会えて良かったね、と常に思ってる。
しかし、推すためには、推されるためには、自らを単純化しなくてはならない、これが一つメディアと現実が混在した現代に生きる我々が避けては通れない危険という気がする。単純化された正義を盲目的に人は信仰してしまうし、善良な(ごく普通の)人間が単純化された悪をいとも簡単に殺してしまうことも、歴史が証明している。今って、楽しくて面白いけど、凄く危険な過渡期でもあると思う。この話に結論は無い。俺がnoteでの唐突な語りの中で安易に答えを出せるものでもない。ただ一つ言えるのは、我々は推しに救われ推しと共に生きていくからこそ、心の中に、乾いた、とてもつまらない灰色を、無機物を、共に飼っておくことが重要だと凄く思っている。熱狂のカタルシスの対に置かれ、いつだって心の中には吹きすさぶ風と荒涼とした景色がある……むしろあったほうが良いのではないだろうか。
俺もSNSで素敵に立ち振る舞いたい誘惑があるし、皆さんをエモいストーリーで救えるならそれも素敵だと思う。けど、俺は本当に不器用な人間で、そこでついた嘘がどんなに小さいことでも、自分で忘れてしまうし、混乱して、分からなくなってしまう。だから、結局、何歳になっても剥き出しの本音で傷つきながら前に進む生き方しかできないし、これからも、そうしていくだろう。作品の中では大胆な嘘も本当も両方ついていきたいが、現実世界に生きる成人男性の自分は、これからもオブラートに守られること無く、吹き荒ぶ風に肌を焼かれるしか無いんだと思う。
「お前もそろそろ心に灰色を飼わないとヤバいよ」自分の内側にそう言われてることに気付いたのは、躁鬱を発症してからだった。ケンカイヨシになってからの5年間あまりは(社不な自分には信じられないくらい)突っ走った。向いてない社交や飲み会、営業なども阿呆みたいなテンションで乗り切った。2年前くらいから何かがおかしくなった。その時期、仕事に集中するために大学生アシスタントの子に連絡周りを全部任せていたのだけれど、彼が俺についての虚偽の事実を裏で俺の友人、取引先、仕事仲間に流しまくって、その時期俺はインターネットにあまりアクセスしてなかったから訂正する術も無く「何の意味も分からないけれど周りの人に明らかな距離を感じ、友達が、仲間が離れていく」という経験をしてからだった。彼は何を考えてるかよく分からない人で、仕事集中するときに預けてた荷物でスマホから俺がツイッターでフォローしてる人を勝手に外したりもしていた(まぁパスワード掛けてなかった俺が悪いけど、それで繋がり切れたまんまの人が何人かいて悲しい)。緩やかな性善説と厚意で構築されたヌルいコミュニティがどれだけ(たった一人の悪意で)脆く瓦解するか……残酷な真実を知った出来事だった。殆どの人とは誤解が解けて元の関係に戻れたのだけど、自分が言っていることとは百八十度違う情報を流されていたなんてその時は知らないので、世界の根幹が歪み、バグっていく感覚が物凄くあったし、今思うとあれが、一度躁鬱病になる明確なきっかけだったと思う(ただ、無理にテンションを上げて東京でフリーランスをやり続けていたので、その出来事が無くてもいずれは一度通った道だろう)。そして、それほどまでに俺は、不器用ながらに努力して築いた自らの友人や仲間を世界の根幹だと思っていたのだろう。俺は親族に対して"帰る場所である"という安心感を抱けない人間だから、尚更だ。
彼の目的がなんだったのかは今でも分からない。それに、俺自身、とても忙しくてイライラしてて、彼に対する仕事の要求の仕方も今思うと明らかに無茶だったし、彼が一方的に悪いわけではない。互いに腹を割って話すことが出来たら良いが、彼は全てがバレてから俺の界隈の全人類と音信不通になってしまった。ただ、今となっては彼の悪事は正直どうでもいいことで、二度と会うことは無いけど、彼の場所で幸せになってくれればと思う。
それから2年間は空元気で無理やり仕事をしていた。しかし、何かがおかしかった。今まではギリギリに動いていた手が、頭が、真っ白になって何も思い浮かばなくなったり、マネージャーやクライアントにも多く迷惑をかけてしまった。何かしなきゃ、発言しなきゃ、と思えば空回るばかりで、精一杯ギリギリまで努力して、本当に、マジで本当に最低限の社会人としての立ち振る舞いも一切出来なくなって、顰蹙を買うことも当時増えてた。自分が走れなくなってもずっと動いている無限の長さを持つルームランナーに乗っている気分だった。視界がどんどんぼやけていき、そのルームランナーはどこに落ちるか分からない。「あ、俺壊れてるやん」一度認めてしまってからは楽だった。思えば、今まで面白いと思ったり爆笑していたことが、いつのまにか何も笑えなくなっていた。幸運で知り合ったフリーランスの心理士の方にコンサルをしてもらいながら、4~8月は本当に仕事のペースをスローにし、9月~10月はめいっぱい休んだ。その間、生活指導も受けて、完治したわけではないと思うが、"仕事だけは再開できる"状況になった。今も友人とはあまり連絡していないし、外に遊びにいったりお金も使ってないし、ネットは電話とメールだけをガラホでチェックして仕事の連絡を見逃さないようにだけして……ひたすら家で自炊する生活をしてる(読んでる方に心配かけたら嫌だから言うけど、"死にたい"って気持ちは全く無いので御安心ください)。
自分は本当に恵まれているほうだと思う。たまたま作品を創るという能力に恵まれて、かつ、創ったものが売り物として価値がある、と世間に認めてもらった。ダメなときに親族が金銭的支援もしてくれた。自分の体調が万全で無くても仕事が出来るのは、パソコンさえセッティングして、アイディアさえあればどこでも仕上げられるタイプの生業に就くことができたからだし、会社に行って人と会ったり会話しなくて良い世界で、マネージャー/エージェントが敏腕で、俺をコントロールする術を心得てたり……本当に、人様に恵まれて俺の人生は成り立っている、嘘偽りない感謝の気持ちしか無い。何よりも、俺は一度躁鬱になって良かったと思っている。白と黒を行ったり来たりして疲弊していた人生の中で「灰色になる」ことを学ぶための二ヶ月間だった。自分で被せていた化けの皮を一枚一枚剥いでいき、見えた世界はヒリヒリする理不尽と矛盾の場所だった。甘い蜜のような救済は存在せず、貰えなかったものに対して諦めをつけるため、ただひたすら乾いた大地を見つめた。今でも頭に浮かぶ子ども時代の記憶は(慈愛や優しいハグでは無く)蔑む表情、見下した笑み、『すべてアンタのせいで』と睨みつける鬼のような眼であるとか、深い深い失望の溜息。
ゼロになったのは俺のほうだ。
好きだと思っていたもの、仲良いと思っていた友人知人であるとか仲間、気持ちいいと感じてた行為、人生そのものに定義した気分とか"面白さ"、自分たらしめていた誰かに"個性"と呼ばれた不純物、まるで愛かのように感ぜられた救済への執着……それらすべて、とっくの昔に劣化して固着した接着剤を血の岩でガリガリと削り取った先にはザラザラの灰色しか残っていなかった。その表面はコンクリートのように冷たく、かつての俺が最も軽蔑し「こうはなりたくない」と思っていた、陰気で面白味の無い人間、付け焼刃のクリシェで他人の感情を操作することだけが得意な無機物がそこには居た。
誰のことも好きじゃない。
それでも幸い音楽だけはまだ楽しかった。いや、でも、楽しみ方が変わったかな。自分自身の見てきた世界と空虚さそのものを波形の記号を通じて消しゴムにかけるように、自分自身の"自称個性"を、エゴを、卑小な面白さを、つまらない起承転結を、何万回と消して消して消して、それを繰り返していくと、何故かいつのまにか(俺が自分の脳を捏ね繰り回して作るより)面白いものが出来ている……というプロセスが。鳴り響くランダムなサンプリングが、偶発的なシーケンスが俺のことを何度でも殺してくれる、今はそのことが何よりも心地良いのかもしれない。
だから……なんかこう、最近「後が無い」ってめっちゃ思う。これは俺よりDTMが上手い超若手がいっぱい出てきてるとか、すぐ死んじゃうんじゃないか?とかそういう意味では無い。あまり言語化できないのだけど……家族、一族とも訣別/離縁して、それまで取り繕ってきた自分自身やその身の回りを剥がして、本当に何にも何にも何にも残っていない俺が、それと引き換えに、ようやく灰色の中で自分が自分として認識できるようになった俺が、今、音楽を作らないと、この最後の、"人間になるチャンス"すら失ってしまうんじゃないか?という漠然とした感覚かもしれない。俺に課された使命は、自らの脳と身体を音という電気信号を届けるインターフェースとして最適化すること。何万回とゼロにしてそれを音にしてゼロにして音にして……それら繰り返しに繰り返しきって、自分の音楽が起こしている現象も、そもそも自分が何の物体であるかもまったく分からなくなったその日に……俺は初めて人として息することができるようになる気がしている。
俺に誰かを救う効力や能力はありません。ですが、君たち俺の音楽を聴いてくれる人は、俺なんかよりずっと優しくて、素直で、何より人間らしい感情に溢れているから、生まれながらにしてちゃんと"人"だから、そこに俺が込められる限界の、本当にちっぽけなものよりも、ずっとずっと大きな何かをそこから受け取ってくれるんだと思います。貴方は本当に美しいです。俺はそのことに本当に、心から感謝してて、だから、俺は少しでも、空の器になりたい、音と音を、単語と単語を、メロディとメロディを出会わせるためのメッセンジャーとして、自らを無にしたいな、と凄く思う。出会ってくれて本当にありがとう。これからも音楽を造ります、ずっと創ります。これが、自分に、人になる、本当に最後のチャンスだと思います。
俺には、後が無い。