【韓国の本レビュー1】『苦痛を見物する社会』
[1] 苦痛、見物する社会とは
韓国には、ネットで本を読める電子書籍アプリがあります。何年も前から、私はその一つの「ミリ」というアプリを使って、さまざまな本を読み始め、それ以来、本を読む楽しさを感じるようになりました。今では、時々本を読むことが自分にとっての生きがいだと感じています。最近読み終えた本の中で、特に印象深かった本がいくつかあったので、今回はそのうちの一冊をご紹介いたします。
今回ご紹介したい本は『苦痛:見物する社会』です。最初、この本のタイトルを見た瞬間、何か引きつけられるものを感じました。その時、私はちょうど他人の苦難を扱ったYouTubeの映像を見ながら、違和感を覚えていたため、「苦痛を見物する」というテーマは、私を含めた現代社会の問題だと思いました。特に韓国では、ニュースなどで衝撃的なサムネイルを使って視聴者を集めることが流行しており、事件の表面だけを飾り立てるような様子は、まるで他人の苦痛を商品化しているかのように感じられます。そうして私たちは、気に入らない商品にお金を使う、不満の多い消費者のようになっているのかもしれません。
この本は、韓国の記者によって書かれたものです。彼はこれまで、あちこちの現場に赴き、事件を映像に収めてニュースにしてきました。しかし、その行動が正義感から出たものなのか、時折自分でも分からなくなる瞬間があったといいます。
昔とは違い、最近では報道局だけがニュースを報道するわけではありません。スマートフォンを持って現場の映像を撮り、それをYouTubeやSNSにアップロードする個人も増えています。そのような中、SNSでは再生回数を稼ぐために競い合う傾向が強く、緊急の現場でもただ映像を撮り続ける人がいます。たとえその人たちが現場を伝えるために撮影したとしても、「現場を傍観していた」という事実からは逃れられないでしょう。
では、記者はどうでしょうか。彼らとの何が違うのでしょうか。記者もまた現場を傍観しているに過ぎないのではないでしょうか。それを考えて見れば、記者としての本質を守り続けることは、非常に難しいことです。
[2] 本のあらすじ
【2−1】梨泰院(イテウォン)雑踏事件
2022年10月29日の夜、梨泰院にはハロウィンを迎え、大勢の人々が集まっていました。コロナウイルスによる規制が少しずつ緩和され、沈んでいた梨泰院の雰囲気は、まるで活気が再び吹き込まれたかのように、人でひしめき合っていました。しかし、これほどの大勢の人々が集まったことは、逆に悲劇を招く結果となりました。午後10時ごろ、梨泰院駅の出口近くにある狭い上り坂で人々が押し合い、あちこちで悲鳴が聞こえてきました。そんな中、突然人々が折り重なるように倒れ始め、将棋倒しの状況が誰にも止められず、多くの人が心肺停止に陥りました。救急隊員が投入されましたが、救急隊や市民の懸命な努力にもかかわらず、最終的に159人が死亡しました。その多くが20代だったと言われています。
この事件には予防や対策に数多くの問題が指摘されましたが、その中でも特に問題視されたのは、事件直後からSNSで広がった現場の映像でした。無遠慮に撮影された現場の映像には、モザイク処理もなく、数十人が路上に横たわり心肺蘇生を受けている様子が映し出されていました。何も知らずにSNSでその映像を目にした人は、きっと当惑したことでしょう。中には俯瞰的視点で撮影された映像もあり、その映像を見ていると、まるで現場の傍観者になったかのような気持ちを拭えません。その映像には批判が殺到しました。映像には、一刻を争う状況で救急隊員や市民が心肺蘇生を行っているにも拘わらず、救助することよりも、撮影を優先している様子が不適切だと指摘されました。
この問題はニュースでも取り上げられ、政府はSNSで広がっていた現場の映像のように、守るべき取材倫理を守っていない動画が拡散するのを防ぐため、可能な措置を取ると発表しました。しかし、少し疑問が残ります。それは、記者の取材活動と一般人の撮影の違いがどこにあるのかという点です。記者は事件が起きると、通常、被害者やその遺族に連絡を取り、インタビューを行います。では、被害者または遺族の心を伝えるといっても、それは事件を忘れたい被害者を再び事件に引き戻す結果になってしまったのではないでしょうか。そして、それは取材倫理に照らして問題がないのでしょうか。
【2−2】自然災害、他人の苦労に共感したとの錯覚
毎年、梅雨の時期になると、報道局は雨による被害を防ぐため、一斉に天気情報を把握します。そして把握した情報を分析して番組から危険性を伝えます。災害というのは人間が食い止められるものではないので、予防が最も適切な選択肢です。そこで、報道局は危険性を示すために、あらゆる対策を講じます。例えば、災害が起きるときには、記者はあえて危険な天候下にある場所に行って中継を行います。それは、天気の深刻さを視覚的に強調する効果があるとされ、よく行われています。しかし、こうした慣習は、報道局同士でより災害がよく見える場所に記者を送り込む競争を生み、記者の安全を脅かすことになりました。現在ではそのような過激な競争を控える傾向にあり、安全が確保された場所で取材が行われるようになっています。
災害に関連する天気ニュースは、脆弱な地域に暮らす人々にとって最も重要な情報ですが、それ以外の人々にとっては、天気ニュースは別の意味を持つかもしれません。考えてみると、浸水や土砂崩れなどの災害は主に田舎で発生することが多いため、安全性が高いマンションに住んでいる人々(ちなみに韓国では多くの人がマンションに住んでいます)にとって、災害のニュースを見ていてもそれを直接経験することは余りないでしょう。ですから天気ニュースは、外出時の天気を気にする程度です。多くの人々はその危険から遠ざかっており、災害による心配や悩みと直接的に結びつくことは少ないと考えられます。こうした状況の中で視聴者の関心を引きつけるのは、記者の危険な行動や災害現場からの生中継だと思います。このようなニュースを見ると、一時的には災害に弱い地域への心配を抱くかもしれませんが、すぐに忘れられてしまいます。毎回災害が起きるたびに、責任を取るべき担当者を探し出すだけで、満足のいく対策が取られることなく、同じような事件が毎年繰り返されます。こうして見る時、つまり我々が災害に共感して根本的な問題を解決するのではなく、単に災害を一つの「見物素材」として消費しているのではないかという疑念を抱かせます。
それ以外にも様々なテーマがありますが、今回はこのテーマだけを取り上げることにします。
[3] 感想
従来のメディアには、報道局の記者による記事に基づいた映像を作って大衆に番組から公開しました。そのシステムの中には番組を検閲する政府機関があり、取材倫理上問題がある記事または映像があったら報道局にペナルティを課します。つまり、少なくとも共益向けの映像作りができるという事です。しかし、YouTubeの登場は既存のマスコミのシステムを完全に逆転させました。YouTubeの登場と同時に少しずつ市場規模を拡大し、ついにはテレビを中心にしていた番組の生態系をモバイルプラットフォームが中心になるように切り替えました。このプラットフォームは誰もが映像を作ってアップロードできます。そして、彼らが一番目指していることは、共益性ではなく利益を目的とした映像でしょう。それによって様々な映像が出てきて、甚しくはフェイクニュースまで溢れています。でも、誰も阻止しません。いや、そうするには時間がかかりすぎます。そのようなことは、我々は暴力性や扇情性に対して最小限の検閲を受けた映像を見ていることになります。つまり、映像を検閲する責任は我々に託されます。
韓国の言論者はそのYouTubeの強勢に対して抵抗し、テレビだけで放送し続けたのですが、ある瞬間からYouTubeの波及力を認めてそれを使い始めました。テレビにしか見れなかった放送をYouTubeのライブから配信し、テレビで放送したニュースをYouTubeで見逃し配信もできるようになりました。またYouTubeの特性を生かしてニュース全体分量を細かく切って各報道をコンテンツに活用しています。別に各コンテンツに合わせるサムネイルを作り、人々の目を引くようなイメージで再生数をあげることです。報道局もYouTubeに追従しているかのように見えます。
梨泰院雑踏事故があった当時、私は家にいました。その日の夜の事件直後、テレビからの速報で現場の音が流れてきたと同時に、多分私の友達の多くが遊びに行ったのです。私の弟も、今夜梨泰院に行こうかという話をしていたのですぐ電話をかけた記憶があります。そして、インスタグラムで友達から次々に「私は大丈夫です。」というストーリーがアップロードされました。思ったより事件が深刻だったということがわかったのはインスタグラムを通じて広がった現場の映像からでした。ある映像には数十人が路上に倒れて心肺蘇生法を受けて現場を左から右までゆっくり見せたので、撮影者の悠長な態度に怒りを隠せませんでした。さらにその日、報道局も少しだけですがその映像を使い、番組の価値基準がYouTubeらしくなったと感じました。
最近ある放送局はYouTubeの登録者が国内1位になったことと一番信頼できる放送局と評価されたことを発表しました。しかし、その二つが両立になれるか疑問点が生じます。刺激的であれば刺激的であるほど再生回数や登録者の増加に繋がるため、正直に取材倫理と政治的中立を遵守して(守りきれるかどうかは別として)報道し続け、信じられる言論者になることと両立できないという気がします。この本の著者もその部分を悩んでるかもしれません。
残念ですが、上記した内容について思うことは、メディアにとって過渡期だと言えるでしょう。ある問題に対する具体的な方針はなく、我々は今魅惑的な映像の真っ只中で漂っています。既に正しいことを分別する責任を我々に一部委ねられたと考え、現代人は責任を持ってメディアを消費すべきだと思います。
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