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自然に学ぶ篤農家~九門太郎兵衛翁

ありがとうございます
今まで漠然と思っていたことが文章になっていてありがたかったです
立体農業はリジェネラティブオーガニックでありパーマカルチャーのルーツですね!
社口原農地で複合小規模立体農業実現したいものです

吉田太郎さんサイトより



本日の吉田太郎さんのブログ
2023年4月29日。日本はGWではあるが、毎日が日曜日である私は関係がない。ということで、東工大で学会で開かれるため大分から上京されたK准教授に誘われて再び世田谷にある賀川豊彦記念館に行ってきた。協同組合の専門家の来館とあって、杉浦秀典副館長にたっぷりと2時間以上も解説をいただいた。ということで、今日のテーマはスピ、精神である。


 賀川が徳富蘆花(1868~1927年)から息子のように可愛がられており、その縁で蘆花が入植していた世田谷の松澤村(注)に来たことは知っていたが、今回、改めて賀川がなぜ松沢で幼稚園を始めたのかの経緯を聞くことができた。


(注) 松澤村は、1889年(明治22年)に松沢村は世田谷区「松原」の「松」と「上北澤」の「澤」の二文字を使って合併して成立した。


 では、なぜ松澤に来たのかというと、その理由は「精神病院」である。まさに、スピなのだ。


 今も、上北沢には、東京都立松沢病院があるのだが、これは、巣鴨にあった精神病院、東京府巣鴨病院が1919年(大正8年)に現在地に移り、「東京府松澤病院」として診療を始めたのが始まりである。


 入院患者としてもっと有名なのは、東京裁判には水色のパジャマを着用して出廷。休廷中に前に座っている東條英機の頭を後ろから音がするほどの力で叩いた大川周明(1886~1957年)であろう。精神異常と判断され、大川は裁判から除外。都内のアメリカ軍病院に入院した後、松沢病院に転院している。ともかく、精神病院があるということではイメージが悪い。


 そこで、当時の松澤村の青年団の理事、三井常太郎は「著名人である賀川豊彦がやってくれば村のイメチェンができるのではないか」と考えた。


 1929年(昭和4年)、賀川は神戸の西宮から東京松沢村に移転するのだが、そこには、街中よりも空気の良い農村で生活した方が持病の肺病が良くなるとの周囲の気づかいもあったという。松沢幼稚園は1931年(昭和6年)に賀川豊彦によって設立されるのだが、ここで仲介者として江渡狭嶺(1880~1944年)が登場する。


 東京帝国大学法律学科入学したものの、秋田の名家の出身で、女子高等師範学校の才女、関村ミキ(1883~1971年)と学生結婚をして中退。


 1911年に徳冨蘆花の世話で、「百性愛(ひゃくせいあい)道場」を創設。現在の杉並区上高井戸で終生、農業を営み、読書と思索に専念した農本思想者の代表の一人である。


 生涯を通じての求道者であったが、聖書、トルストイやクロポトキンに傾倒。中年以後は仏教にひかれ、とくに道元に帰依した。

 https://www.suginamigaku.org/2017/01/edo-tekirei-1.html 


 この蘆花と江渡狭嶺が動いたことで幼稚園はこの地に誕生したのだった。


 では、今日の本命、スピの方に移ろう。江渡狭嶺は中年以降は仏教に引かれていたが、賀川もクリスチャンでありながら、仏教、とりわけ、法華教に深い関心を持っていたという。その生き方は、宗教家として原則を忘れることなくブレなかったのだが、一方で、偏狭な原理主義に陥ることはなかったという。


 その前提には、賀川自身が、「智」としてキリスト教に対して、深い知識を持っていたと同時に、濃密な宗教体験を持っていたことがある。


 賀川は、神戸のスラムに身を投じ、スラムの聖者として、ガンディやシュバイツアーとともに世界の三大聖者として讃えられるのだが、いかに没落したとはいえ、資産家の子どもとして生まれ、高等教育を受けた賀川が、なぜわざわざスラムに身を投じたのかというと、当時としては、不治の病、労咳に侵され、もはや余命幾ばくもないと宣言されたからであった。


 どうせ残り少ない命なのだから、せめて他の人に喜んでもらって死にたい。この感情は、吉田俊道さんと共に、笑顔で笑う環境活動家、谷口たかひさ氏の発想にも通じるかもしれない。

https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=pfbid0ZYd1tmc1ds8faomFE1GMioNrtBwsocdHu3wfacoW7koCKy1D5sTuJB3ptEmpsHGEl&id=100004816547692


 この死に直面した体験を書きつづったのが当時としては驚異的なベストセラー100万部も売れた「死線を越えて」なのだが、2度も死にかかりながら、奇跡的に賀川は命を取り留める。


 そのとき、光に包まれる体験をしたという。さらに、重度の結核の中で、呼吸すらもままならない。そこで、独自の呼吸法を試みたところ、なぜか、労咳が奇跡的に治癒する。


 光と呼吸。すなわち、賀川も野口法蔵氏が実践する座禅での宗教体験と非常に近いものをしていた。では、次回は、この世界的な宗教家、賀川がいまという時代でどんな意味があるのかについて書く。


 そのひとつが、いまも記念館の入口にあるペカンの樹の写真。アグロフォレストリーと東京大学の鈴木宣弘教授が日々憂えられている酪農である。


 有機農業という言葉は、一楽照雄が作ったのだが、一楽は、この言葉を作るにあたって雪印乳業の創設者、黒澤酉蔵に相談をしている。この黒澤が作ったのは酪農学園大学なのだが、この学校の校歌を作ったのは誰なのか。以下を検索されれば、

https://www.rakuno.ac.jp/outline/paean.html

 意外な、親子の名前に読者諸兄も驚かれるに違いない。


 私の師である美登さんもその原点は酪農である。おそらく、いま、現世の苦しむ畜産農家に涙しつつ、この親子とこの校歌の歌詞について議論されているのではあるまいか。

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