動くタイニーハウス「Tarutarugo2」旅に出る
動くタイニーハウス「Tarutarugo2」でピザの宅配
最初に向かったのはクジラ雲
道さんがパーゴラを作って居る現場
素適なパーゴラが出来ていました
さすがミチさん
もう作業は昨日終ったとのことでしたが依田さんにピザを出前ゆっくり話すことができました
次は須坂の公民館 中公亭
りんご箱を分けてくれていつも歓迎してくれます
15分くらいの加温で美味しいピザが焼けます
みんなでピザ窯を囲んでピザパーティー
三溝さん撮影write
2022.11.07
午前中、地域おこし協力隊の村田くんが「ゲストハウス蔵」に宿泊していた様々な国の若者を連れて立ち寄ってくれた。「いよいよ中公亭も、グローバル化ですねー」と笑いながらしばらく話し込んで行った。鎌田山へのハイキングコースに中公亭を盛り込んでくれた。うれしいなぁ〜。午後は午後で、以前リンゴ箱を運んで知り合いになった池田町の臼井さんが、その時のお礼も兼ね、自作の動くタイニーハウス「Tarutarugo2」で遠方からピザの宅配に来てくれた。いきなり現れて、「ピザ食べるか?」というのは、私にとって「究極の声がけ」。やっぱ「食」は人と人を繋ぎ、幸せを運ぶ礎ですねぇ…少し寒くなってきたけど、点と点が線や面になっていく…その交差点に中公亭/公民館がいれたらいいなぁ〜
三溝清洋 さん
いつも暖かく迎えてくれて感謝です
中公亭はいつも時間が止まっているように感じます
時間泥棒のいないモモの世界ですね
次に向かったのは淳子さんのいる小布施の本屋さんスワロー亭
楽しい時間を過ごしました
これから飯綱に向かいます
移動ピザ屋動くタイニーハウス「Tarutarugo2」だけだとつまらないですが一緒にピザ食べるのはいい
喜んでもらい有り難いですね
アースオーブンを12個位作りましたがこの移動型もいいです
すぐに焼けるところがいいですね
飯綱黒姫に来たのでエンデの童話館にやってきました
再度エンデの描いた未来に触れてみたいと思います
エンデはモモで効率一辺倒の世界を批判して
晩年はお金の問題を解決しない限り人間は幸せになれないと提言しました
エンデの提言
是非読んで見て下さい
考えさせられるふたつの「答え」
モモからのメッセージ ミヒャエル・エンデ
何年かまえ、中米奥地の発掘調査に出かけた研究チームの報告を読んだなかに、こんなことがありました。
調査団は、必要な機器等の荷物一式を携行するためにインディアンのグループをやとった。調査作業の全行程には完壁(かんぺき)な日程表ができていた。そして初日から4日間はブログラムが予想以上によくはかどった。運搬役のインディアンたちは屈強で従順で、日程どおりにことが進んだのだ。ところが5日目になって、彼らは先へ行く足をぷっつり止めた。
だまつて全員で輸になり。地べたに座りこんで、もうテコでも荷物をかつごうとしない。調査団の人たちは賃金アッフを提案したが、だめだった。叱(しか)りつけたり、ついには武器まで特ちだして脅したりしてみたが、インディアンたちは無言で車座になったまま動かない。学者たちはお手上げの状態で、とうとうあきらめた。日程には大幅な遅れが生じた。と、とつぜんー2日後のことだったーインデイアンたちは同時に全員が立ち上がった。荷物をかつぎあげ、予定の道を前進しだした。賃金アップの要求はなかった。調査団側から改めて命令したのでもなかった。このふしぎな行動は、学者たちにはどうにも説明のつかぬことだった。
インディアンたちは、理由を説明する気などまるでないらしく、口を閉ざしたままだった。ずっとあとになって、白人のグループの数人と彼らとのあいだにいくぶんの信頼関係が生じてから、はじめてひとりが答えをあかした。
「はじめの歩みが速すぎたのでね」という答えだった。
「わたしらの魂(ゼーレ)があとから追いつくのを待っておらねばなりませんでした」この答えについて、私はよく考えこむことがあります。
工業化社会の文明人である私たちは、未開民族の彼らインディアンから、学ぶべきところまことに大きいのではないでしょうか。
私たちは、外的な時間計画“日程をとどこおりなくこなしていきます。が、内的時間、魂の時間にたいする繊細な感情を、とっくに殺してしまいました。私たちの個々人にはもはや逃げ道がありません。ひとりで枠をはずれるわけにいきませんから。私たち自身がつくってしまったシステムは、容赦なき競争と殺人約な業績強制の経済原理です。 これをともにしないものは落伍(らくご)します。
昨日新しかったことが、今日はもう古いとされる。先を走る者を、はあはあ舌を出しながら追いかける。すでに狂気と化した輪舞なのです。だれかがスピードを増せば、ほかのみんなも速くなるしかない。この現象を進歩と名づける私たちです。
が、あわただしく走り続ける私たちは、はたしていかなる源から遠ざがりゆくのでしよう?私たちの魂からですって?そう、私たちの魂は、もうはるか以前に路上に置き捨てられました。それにしても魂を捨て子にしたことで、肉体が病んでいきます。だから病院や神経治療施設は、ひとびとであふれています。
魂不在の世界 これが私たちの走りゆく目的地だったのでしょうか?
もうほんとうに不可能でしょうか、私たち全員が狂気の輪舞をいっせいに中止して、おたがいに車座になって大地に座る、そして無言で待つ、ということは?
もうひとつの「答え」のことは、文化人類学者の友人から最近聞いたばかりです。
これもひとりのインディアン女性の口から出ています。 その友人が旅先で出かけた山の頂上にインディアンの村があった。その地方一体には水源がたった一カ所にしかなくて、それは山のふもとの井戸だった。村の女たちは、毎日半時間の坂道をおり、帰りは重い水がめを肩にして一時間、山をのぼっていく。
友人は、女たちのひとりにたずねた「いっそ村ごと、ふもとの水源近くに移したほうが賢明ではないかね」 女の答えはこうだった。「賢明、かもしれませんね。でも、そうしたら私たちは、快適さという誘惑に負けることになると思います」私たち文明人には、この答えはさきほどの答え以上にいぶかしく聞こえるのではないでしょうか?快適であることが、なぜ誘惑と呼ばれるのか?
私たちが手にした洗濯機、自動車、エレベーター、飛行機、電話、ベルトコンベヤー、ロボット、コピューター、要するにおよそ現代社会を構成するすべてのものは、快適な生活のためにつくられたはずです。それとも?
これらのモノは、暮らしをらくにします。骨の折れる仕事から私たちを解放し、もっと本質的なことのために時間をめぐんでくれる。そうではなかったでしようか、私たちを解放するんでしょう?そうです、確かに-。
ただ、何から解放するのでしょう?ひょっとして、まさに本質的なことから?だとしたら、いったいどうなっているんでしょう?私には、あの奇妙な言葉を口にしたインディアン女のほうが、ほんとうはこの私たちのだれよりも、ずっとはるかに解放されて自由なのだ。という思いがつきまとって離れません。
聖書にも、これに似たふしぎな言葉があります。「人は、たとえ全世界を手に人れても、自分の魂(ゼーレ)を失ったら、何の益があろうか。(マタイ伝16・26)」
何、言ってる、魂がどうのこうのだって!そんなもの、我々はどこかの路上にとっくに置き忘れてきたよ。未来の世の中は徹底的に快適で、完全に本質不在の世界になってるさ。
あなたはそう思いませんか?ま、新年に乾杯!
ミヒャエル・エンデ1929年、西ドイツ生まれの作家 主な著書に『モモ』『はてしない物語』『サーカス物語』『鏡のなかの鏡-迷宮』『森の賢者ヒダエモン』など。シュタイナー学校の卒業生
往復で120キロ位の旅でした