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食べるものは商品ではない 美齊津さんの言葉
月刊MOKU』 2007年7月号の記事「食べ物は商品じゃない」
8月26日土曜日 安曇野パーマカルチャー塾 第6回目の一日
自然農の実践から美斉津さん
今晩は、長野県の東のはずれ小諸市からいらっしゃった美斉津育夫さんをゲストにお迎えしお話を伺いました。
まずは美斉津さんのご紹介から
戦前から農家を営まれていたご家族のもとに生まれ高原野菜の産地である小諸市でレタスなどを作られていました。
戦後の農地開拓で振りわけられた土地は
面積 田んぼが3反
畑が一町3反( 現在はうち自然農の畑が3反)
(他は芋、麦など大量に作らねばならないものを堆肥を入れ起こしながら行っているそうです。)
長男であった美斉津さんは親御さんの家業を継ぎ高原野菜を主に3~4年慣行農家として働いていらっしゃいましたが、
なんだかおもしろくなくやる気が出ず、農薬と化学肥料を使うことで心も体も疲れていました。
ただ(野菜を)作って農協に出し、いくらになるのかもわからない。
美斉津さんは汗水流して想いを込めて作った野菜、そしてそれを食べてくれた人とより近い関係が大切なのではないかと感じるようになったのです。
そんな折に仲間と4人で有機農業を軸とした「土と健康を守る会」を立ち上げることに。
最初は大根、ねぎ、いもなどを作られたそうです。
そのうちブームの波もあり、野菜がほしいと言う声が都会から聞こえ、当初4人で始めた会はのちに生産者12人、消費者369人という大規模なものになりました。
小諸で夕方収穫をし、2tトラックに野菜を積め、夜中300件を東京、横浜で配り歩きました。
そして規模が大きくなるほど次第に様々な生産者が介入してくることによって、美斉津さんのこだわりが貫き通しにくくなりました。
だんだんと息苦しくなってきたのです。そして20年経った後に、会を抜けることに決めました。
”このまま終わってはつまらない。”
それから今日までお一人で行われてきましたが、しかしここでもまた新たな苦しみが生まれます。食べ物(野菜)に値段をつけることです。
それからひとつひとつのお野菜から値段をとり、一箱にお野菜をつめ売り出すようになりました。
それでもまだ美斉津さんの苦悩は続きます。本当であれば一箱の値段もとってしまいたい。と考えていらっしゃいます。
”貧乏人でも金持ちでも皆が平等に食べていけるシステムを考えたい”
これが美斉津さんの想いです。
ここで梅ちゃんから
「野菜の値段に悩ましいとはどういうことですか?」と質問がありました。
よくわかんね~な~と美斉津さん^-^
商品として出すならば同じものをずっと同じ状態で出すことが大事だと思う。
商品を作ると思っているのと、食べ物として作るという思いでは作り方が違う。
経済的な社会の中ではお金がとれない、ではバランスをとるためにはどうしたらいいのか?
自分で食べるものは自分で作ろうという考えに至ったそうです
再度梅ちゃんからの質問です。
「自分で作れない人も世の中にはいるのでその担い手になることも大切なのでは?」
これには
”生きていくための協力体制” という言葉が出ました。
美斉津さんはご自身のこだわりを通したかったそうです。町で暮らす人々には理解しきれなかった部分もありました。
体制が変わるたびにピンとこず、離れていったお客様もいました。しかし5~6年冷蔵庫のない暮らしをされ、作ったらすぐ食べる、
貯蔵の悪いものは食べないなどと生活を変えました。やり始めたらなんとかなる!
収量が多くてもしょうがない、それより自然の形で少ない収量で生活をしてみたい。その土地でできたものの中でとのように暮らしていくのか。
”農業で大切なのは物がとり続けていけること。太陽が出て雨が降る限り草と共に育つ”
出ました美斉津節!
美斉津さんは食べ物だけが自給できても生活が何かに頼っていては自立にならないと小屋などもご自身で建てられます。
ここでお写真をみせていただきました。シンプルですが美しい小屋でした。
材木はほとんど地元にあるものを頂いて、5年ほどかけて作られたそうです。
よく建ったな~と不思議なくらいだとご自身も笑っておいででした^-^
現在美斉津さんは一律料金で週に1度、1箱が届くという制度をとっております。消費者は地元の方々や遠くても長野の方だそうです。
約20件ほどのお客様です。きずなを持った関係を大切にされています。
さらに素敵なことに週に一度 ”みさいず農園だより”に畑の状況や社会で起きたことで気づかれたこと、今後の予定など手書きで書かれたお便りがとどくそうです。
ひでみっちゃんからの「20件はちょうどいい数ですか?」との質問に
始めた頃はお金が必要じゃない状況をご自身で作り、自分を高めたていきたかったそうです。今のスタイルになられて10年以上ですがお客様は減ってきています。
”今の世の中自分の思ったものがすぐにいつでも手に入る。皆便利さに負けてしまう。
これから便利でない生活をやろうって人は少ない。本当はそういう体制(便利でない生活)ができていかないかん”
また美斉津さんのところでは研修生の受け入れもなさっています。
20代~30代の人が多く自然農はもとより、美斉津さんの生活自体を体験にこられるそうです。
お給料もなく住むとこ0ろも自分たちで手配をする、また研修生は美斉津さん自身で見つけられます。
すでに研修前から自立を目指した生き方を教えているのではないのでしょうか。
ヤギは昔乳を飲むために飼われていましたが、だんだん飲みきれなくなりました。
しかし今も一匹のヤギが美斉津さんのところに。
”家族を失ったヤギがかわいそうで”
心のお優しい方だなと改めて感じた瞬間でした。
また油もご自身で絞られています。絞ることはとても大変な作業なようです。
”大変さを思うと油はそんなに使うもんではない、(昔は)お正月とお盆に食べられる天ぷらがぜいたく品だった。”
さらにお米の他に雑穀、大豆、麦を作られ雑穀の調整もご自身で行います。循環式の精米機を使われているそうです。
そんな美斉津さんにもつらかった時期がありました。そんなもの(慣行農行)やらない!と言ったとたん皆の態度が変わる。
会合に出ては無視をされ、酒の摘みにされた思いでした。直接のトラブルはありませんでしが、美斉津さんは気を使い隣との境は草をかりますが
お隣さんはそんなもの気にしません。
ヨーロッパの国々から改めて日本人の国民性を見たそうです。日本はきれいなパックに包まれた、きれいな形のお野菜が良いという意識を持っています
。しかし、同じ所で同じ作物を作り続ける物は危ないと聞きます。土の中にもたっぷりの農薬です。
商品目線で考えるから 見た目が白菜でないと白菜ではない!ということになってしまいます。
経済的には大変でありましたが自給的な暮らしを求め続けつきつめあるべき姿を求め続けた美斉津さん。
最大公約数で動かなければならない世の中に別れをつげました。つっぱしって、自分のやりたい農業をつきつめていった。
そんな美斉津さんのお話に私たちはのめりこんだのではないでしょうか。
また参考にしている本などありますか?の質問には 読んだことない!!と^-^
ご自身の信念をつらぬいていらっしゃるからなんだな~と感じました。
人間としての贅沢な暮らしは江戸のような暮らしだということでした。
人々がつながる社会、お金が力を持っていなかった時代、今日使っても明日なんとかなる!
経済がすごい速さで進む今の社会は前えと進むかもしれないが、明日のことはわからないことが多い。
それに比べ江戸は200年間ほとんどかわらない今日と同じ生活を明日も営んでいました。
そんな美斉津さん生きていく限りは農業を続けるとのこと。作物に自分が口をあわせて生きてくと。
また町で暮らす人の役割と村で暮らす人の役割も説いていました。今の都会の成り立ちはあらゆるものを外から持ってくることにより成り立っている。
そのために田舎がさびれていくと。都会のなりたちを皆で考え方向を変えなければとおっしゃていました。
後世のこどものために伝えていくことの大切さもお話してくれました。
美斉津さんんの一日はこうです。
休みの日はない!明るくなれば飛び出していく!夜は早く寝、眠いときには昼寝もする^-^
楽しい囲いがひろがっていけばいいと美斉津さんは願っています。
最後にうたさんからこんなお言葉が。
”だんとつですばらしい自然農の畑です。本当に美しい。野菜工場ではなく、美しい誰かの庭園に入ったようなそんな感じ。”
畑には木々があふれています。
”木があったほうが食物もよく育つ。
春には花が咲き、夏には木陰ができ、秋には落ち葉が土をよくしてくれて、実ができる。楽しいな。”
そんな美斉津さんのお城では勉強会があるそうです。
「暮らしの根っこ」
毎月第三木曜日 10:00~
近い将来私もぜひこの美しいお庭を訪れてみたいと思います。
話が長くなりましたが、今日の夜もあたたかな空気に包まれました。
また明日も良い日でありますように。おやすみなさい☆