見出し画像

ストリートダンスと文化盗用について考えたこと

自分自身、ストリートダンスを始めて(いや、ストリートダンスカルチャーのゲストとなることを選んで、と言った方がより適切かもしれない)、はや15年超になります。

東京で踊り始めて、ニューヨークで5年過ごして、それでもなお、今回のBlack Lives Matterの機運が上がり、ブラックカルチャーについて見直されるまで、自分がブラックカルチャーのゲストである、と明確に意識することはなかったように思います。

もちろん、ブラックカルチャーに対するリスペクトの気持ちは常にあるし、動画(YouTubeではなくて、擦り切れるまで見ていたVHSの方)やクラス、クラブにいる黒人ダンサーからたくさんのことを学び続けてきてきました。それでもやはり、心のどこかで、「ダンスは楽しむためのもの。愛する気持ちがあれば、それがリスペクトなんだ」というキレイゴトをストリートダンスに当てはめていたように思います。

そんな自分への自戒と、自分がアタマでインプットし、ココロで整理整頓してきたことを、ここにアウトプットしてみたいと思いました。


ストリートダンスは”みんなのもの”なのか?

東京で踊っている頃、自分が踊っているダンスが黒人カルチャーに帰属している、という意識は正直あまりありませんでした。もちろんヒップホップの歴史を学ぶ上で、アフリカン・アメリカンカルチャーから生まれたものだということは当然理解していました。でも「今なお現在進行系でアフリカン・アメリカンの文化である」という意識は今より薄かったと思います。

おそらくそれは、自分がダンスを教わってきた環境は日本人からだったし、日本のストリートカルチャーの中で、いわばアフリカン・アメリカン不在の中過ごしてきたからではないかなと思います。

どんなに歴史を学んで、理解をした気でいても、当事者不在の中でそのカルチャーを引き継いでいくことは難しくて、やはり日本人が伝えるものは日本人色に染まった形で伝わってしまうのは仕方がないことのように感じます。

そうするとやはり日本では日本なりのストリートダンスカルチャー、ヨーロッパにはヨーロッパなりのストリートダンスカルチャーが生まれていくというのは至極当然なことのようにも思うし、ブラックカルチャーの当事者であるアフリカン・アメリカンからしても、身近に海外のカルチャーがどう動いているかを見る環境も方法もないので、「間違った道」に進んでいたとしても、それに気づく術もなく、それに現地で気づいたとしても、ゲストとして迎えられて行った場所で、いきなり現地のカルチャーの有り様を把握して改善するというのは、なかなか難しかったことと察します。気まずいんじゃないかなと思いました。


ブラックカルチャーのゲストであるという意味

ブラックカルチャーにとって、アフリカン・アメリカン以外の人種は皆「ゲスト」であるとアフリカン・アメリカンは言っています。

ゲストであるというのはどういう意味か、それは自分の所属する文化にはないものに興味を持ち、その文化について学んでいる状態であることだと自分自身は理解しました。

この前提は、ストリートダンスはブラックカルチャーの文化的な芸術であり、サッカーや野球のような大衆化したスポーツではないということが重要だと思います。

また、ポップ・ミュージックのような商用化された芸術とも一線を画すものだということも理解する必要があります。

例えば、日本の文化で考えた場合、琴や三味線を弾いている人をイメージした時に想起されるもの。着物を着て、和室の静かな空間で音色を奏でるようなイメージ。落語をするときに、羽織を着て、座布団の上に正座をして語りかけるイメージ。こういうものは日本の文化的な芸術であることに日本人ならば納得できるのではないかなと思います。

例えばいわゆる外国人が、Tシャツとジーンズを着て、路上で琴を弾いていたのを見た時に、それを珍しいとは思うかもしれないけど、「正しく日本文化を表現している」とは思えないのではないか。カジュアルにマイクに向かって落語をしていても、「らしさ」は感じられないのは日本人が文化的背景を分かっていて、どういうものが本場かというものを、教育と経験を通じて見聞きしてきたからだと思います。

アフリカン・アメリカンにとって、ストリートダンスというのはまさにそういうものであって、海外で目にするものが、どれだけなんちゃってなのか、というところが気になって仕方がないのかなと推察しました。


文化盗用とは何か?

そうは言っても、やはりイチ日本人として、外国人が日本カルチャーを学んで、必死に努力している姿を見ると、やはり嬉しい気持ちになります。

前述のストリートで琴を弾く外国人を見たら、多くの日本人がサポートしたいと思えるのではないでしょうか?

でもその人が、例えば自分の国に帰って、物珍しさからメジャーデビューを果たし、世界中で売れるスターになった。彼/彼女は当然のように自分のライブで琴を派手に演出して演奏する。自分なりの弾き方を見つけて、琴の基礎は使わない。それによって大成功を収める。でも彼は自分が琴のカルチャーについてライブで一切口にしない。日本で学んだことも一切言わない。有名になったから、日本でもライブをする。「Japan Arigato-!」とお得意のコールはするものの、自分が学んできたバックグラウンドについて全く語らず、さも自分の”アート”のように琴を利用していたらどう思うでしょうか?

一般の日本人はそんなに気にしないかもしれません。でも琴を学んだことがある日本人が見たときには、愕然とするかもしれませんよね。

「いやいや、ちょっと待ってよ。そんなのが琴じゃないんだけど」

世界中で"Koto"が有名になっても、それは日本の琴とはまったく別物。もしかしたら琴の先からレーザーが飛んでるかもしれませんよね。

そんな形で琴が世界中に広まってしまったら、日本人はなんていうでしょうか?

「あーあれは琴を使ってはいるけど、日本の琴とは別物だよ」

きっとあなたならそう言いますよね。僕は間違いなくそう言います。

なぜなら、その外国人が日本の琴文化を体現していると思えないから。

琴じゃなくても良いんです。茶道、書道、柔道、空手、合気道、弓道、生花、和食。日本の文化に由来するもので、読んでくださっている方がイメージしやすいもので置き換えると、少しイメージしやすいかもしれません。


ストリートダンスにおける文化盗用とは?

アフリカン・アメリカンの人たちにとって、ストリートダンスとはそういう類のものだと思うのです。

Brooklyn Terry 主催のJapan for Black Livesが行っていたパネルディスカッションの中で、ストリートダンスに関わる文化盗用がトピックとして取り上げられていました。

2時間級の長いパネルディスカッションですが、「当事者」の生の声を日本で聞くことができる数少ない機会なので、ぜひ見てみて頂けたらと思います。これを聞くと、アフリカン・アメリカンにとってストリートダンスがどういう位置づけなのか、イメージしやすいかもしれません。


彼らにとっては、もちろん学んでくれるのは嬉しいし、歓迎する。喜んで教えるよ。でもちゃんと文化的な背景や歴史を知ってほしい。

その道を極める人からしたら、当然な発想だと思います。

茶道の教室に通って、茶道の歴史を教えない教室はきっとないですよね?


しかし、ストリートダンスの文化や歴史を知らない、もしくは伝えない外国人が、それを使って金稼ぎをしていたとき、アフリカン・アメリカンはどう思うでしょうか?

自分たちの文化を金稼ぎの道具にしないでほしい

僕はそう思いました。

自分だったら、日本の文化が誤解されるようなやり方で、外国に広めてほしくないなと思います。

日本に先生がいるならば、その人に感謝の意を述べ、正しく文化を体現し、日本から学んだことを常々伝えてくれるだけで、僕らは気持ちよくその人を応援できます。


文化盗用と言われないために日本人ができること

アフリカン・アメリカンにとってのストリートダンスは、日本人にとっての茶道であり、落語であり、柔道だとするならば、僕ら外国人がストリートダンスを文化的な芸術として扱い、行動することが最大のリスペクトであると理解しました。

ストリートダンスはどういう歴史から生まれたものなのか(ネガティブな歴史、社会背景、差別、貧困など)、自分の先生はどういう流派の出身なのか(出身地、ダンスを始めた過程、なぜダンスだったのか。仮に先生が日本人ならば、その人は誰から教わったのか、どこにルーツがあるのか)、自分が発信する時に意識すべきことはなんなのか。

もう一度言いますが、ストリートダンスは大衆化されたスポーツではないし、ローカライズされるべきものではないとアフリカン・アメリカンの人たちは感じています。「日本人の目線で日本人がどう思うか」というのは、琴の例で考えれば分かるように、まったく無意味だと思いました。

なぜならば、ストリートダンスはアフリカン・アメリカンのカルチャーに帰属しているから。

僕らができることは、「自分のものではない」という意識を持ちながら、「本場から学ぶ」ことを忘れず、「感謝を贈り続ける」ということではないでしょうか。

自分たちは今やっていることで満足かもしれないけれど、ブラックカルチャーを生んできた人たちを悲しませるようなことは、ブラックカルチャーを愛する者としてしてはいけないと思います。


ここから先、ブラックカルチャーのゲストである日本人ができることは、相手の立場に立って、考えて行動すること。考え続けて、文化の体現を追求し続けることだと自分は理解しました。そしてそのためには、ルーツを辿り、人と話し、自分で経験を積むことがやっぱり大事なのかなと思います。

間違っても、日本なりのストリートダンスカルチャーがあるはずだ!とか、ストリートダンスはもうグローバルに広がっているから、各地で違っても仕方がない!なんて発想は持ちたくないと僕自身は考えています。

ここで記した考え方は、アフリカン・アメリカンコミュニティーの人が発信していることを元に、日本人が納得しやすい形に寄り添った考え方です。もしかしたらここまで読んでくださった皆さんが100%納得できるものではないかもしれませんが、これを読んで自分がどう思ったか、何を考えたかが重要だと思います。


皆さんは、どう思いますか?コメントで返してくれたり、自分のポストで発信することで、自分の意見を外に出してもらえたらとても嬉しいし、もっと多くの日本人が深く考えることに繋がるのかなと思います。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?