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原口剛さん(神戸大学大学院准教授)インタビュー前編・5


流動性」には「場所性」の付随が大事

――面白いなと思ったんですけど、おそらく寿町の映画ね。寿町の映画を見に来た人が名古屋の笹島の人でしたっけ?

原口:そうそう。『どっこい人間節』。

――僕もそれ見たんですけど、なんというかすごい。悲劇的な面もあるんですけど、ドヤの中ですごく熱いコミュニケーションを取っていますよね。朝鮮半島出自の怒れる若者と、同様に朝鮮半島出自の人が「我慢をしなくちゃいけないよ」みたいな。でも、面白かったのは最初のシーケンスもそうなんですが。島本さんといったかなあ?言葉は乱暴なんだけれども、すごく情の熱い人がいて、その人は最初に撮影班がいたドヤにいた人なんでしょうけど、一生懸命こう、田中さんという人がいたあとも。

原口:田中さんは途中で亡くなっちゃうんですよね。

――ええ。でもその情の厚さというのがものすごく大きくって、筋ジストロフィーの人も出てくるじゃないですか?その人が呼吸困難に陥っているときも、一生懸命看病して、声掛けをして。なんてことのない普通の労働者だろうけど、すごく良い意味でのお世話をやいている人がいますよね。で、後半では朝鮮半島出身の人たちの言い合いに間に入っていくひとがいる。そのひとの生活感が人間的で。「ばかやろう」とか言いつつも間に入って。激してる人に対し「理性的になろうよ」という側に立って。
 でもね。最後には理性的になれと言っている人に対してもね。「でも、あんたの言っていることもそれでいいのか?」と。逆の立場になる。相手のほうは懸命に「喧嘩をしなくちゃ、もうやられっぱなしだよ!」と訴えていて、最初は「我慢しなくちゃいけない」という側についていたんだけど、途中から反転して「あんたの言っていることも、理屈だけで通らねえんだ」みたいな。理性的になれ、だけじゃすまないんだみたいな風に言い始めて。それが何というのかなあ。人間の情緒の動きみたいなものがすごくリアルに浮き出ていて。ああいうものはすごく僕にとってインパクトが大きかったですね。

原口:それを思うとあれですね。もうひとつ。流動性と情緒を持った場所というのがとても保障されている要素になっていて。やっぱり「寄せ場」なので、そこで人が集まって喧嘩もするし、怒鳴りあいもするし、喧嘩の間に割って入ったり、いろんな物語が展開される。

――要するにコミュニケーションなんですよね。

原口:ええ。そのコミュニケーション、顔を突き合わせたコミュニケーションが成立する幅も一方で流動と同じようにあるというのもけっこう重要なことだと思うんですよね。流動だけで流動いいよね、というのはけっこうありきたりの言葉になっていて。

――ふふふ(笑)。

原口:「スキゾ・キッズ」じゃないですけど(笑)。

――「ノマド」みたいな。

原口:ノマド的な。それ自体はけっこうある意味で資本のキーワードにも、スローガンにもなっちゃうんですね。もっと重要なのが流動のままもあるけれど、「ここに集まれ」というもの。

――なるほど。僕が思ったのはその、立ち位置も同じ、置かれている状況の同じさの感じなんですよ。やはり大変な状況に置かれている自分たちということで、やっぱり共同性みたいなものがあるのかなぁ?という。それもやはり「やり合っている」というか、ダイレクトにやりあえていることの上で成り立っていると思いました。

原口:そうなんです。いま実はああいう状況は……。

――ちょっと無理かな?(笑)。

原口:いや。でも状況は広がっていると思うんですよね。けっこう流動性と、寄せ場という「場所性」と、どっちも不可欠なんだけど。たぶん今は、これはジェントリフィケーションにもかかわることだと思うんですが、流動性よりも場所性のほうの問題。どこか集まるという、「拠点を作る」という可能性が封じられている。で、流動することでいうと、それこそ移民労働力を活用するという言葉が示しているように、多くの労働者が流動してるんですけれども。

――特にヨーロッパは。



        流動だけでOKというわけにはいかない

原口:そうですね。いまニューヨークもそうですし、日本の中でもいわゆるネットカフェ難民とか。もう彼らも転々としてますね。あるいは野宿の現場であれば、昔はテント村を作れたんですけれども、いまはテント村を作れなくなった。じゃあ野宿している人はどうしているかというと延々と移動せざるを得ない。ずっとそこにいることはできない。ということは移動はしてるんですけれども、これは一つは強いられた移動ですね。まずこれが質的に違うのと、あと決定的に違うのは、状況を共有してお互いに啓発するような分厚い場所がいまどこにもなくなりつつあるということですね。やっぱり流動だけでOKというわけにはいかないんですよ。「流動的下層労働者」というのは他にもうひとつ拠点のようなところがないとエンドレスの流動の中では何もひっかかりのない空間の中に放置されるだけということになってしまう。たぶんそのあたりにジェントリフィケーションのいろんな問題が絡んでくると思いますし、もう一つには、「流動」と、さっき話した「スクウォット」とか、そういった自分たちの場所を確保する運動を語る意味はその辺りで出てくるんじゃないかと思います。

――あの映画の中で感じることというのは、労働の場面は出てこないんですけど、基本的には自分の身体ひとつを資本に労働している人たちの集まりじゃないですか。ドヤや*生活館ね。亡くなった人たちの場面もすごく印象的だったけれども「自分ごと」ですよね、端的に言って。みんな。自分の身体ひとつで。で、アルコールにすがらざるを得ないというか、考える余裕もなければ、肉体労働で日々過ごしているということもあって。その「同じだ」という感覚。
 その問題を考えたときに自分とは違うと言うか。だからああいう風には熱く語れない。最近居場所づくりといわれるのだけど、やはりそこに持っている同じだ、相互に同じだという感覚による熱いコミュニケーションというものが、最近よく「上から目線」と言われたりして(笑)。確かにその通りの所もあり、コミュニケーションが難しくなってきているところも。その、「喜怒哀楽」がほとばしる感覚?それはいまどうなんだろう?という部分かな。本当は僕もね。喜怒哀楽を出せるというのはすごいカタルシスだと思うんですね。人間同士として。それだけ相手に対して開いちゃっているわけだから。だけど何らか閉じちゃっています。だから居場所があってもある程度クールに冷静にいなくちゃならない。理性みたいなのをはたかせないと、という。内面的な縛りみたいなものがあるような気がするんです。僕自身が。だからすごくうらやましいとも思いました。

原口:ああ~、ははあ。

――激しくやり合って。それは突き放すわけではなくて、最終的には相手とつながるための喜怒哀楽のほとばしり。そしてつながれるというある意味の楽観性。まあそれを意識してるわけじゃないと思うけど。無意識のうちに相手とつながっていると思っている。それはやはり自分の身体ひとつ。一緒に働いている仲間だということなんじゃないかなあと。

原口:うん。たぶんそのつながり方にはいくつか条件があって。寄せ場のつながりかたって不思議なところがあって。これは引用した第一次暴動の共有性を描いた、本でも書いたんですけど、無茶苦茶エゴイストで、自分のことしか考えない。

――書いてありましたよね。

原口:それにもかかわらず、連帯感があるという。エゴイズムと、けっこう寄せ場の労働者って過去を問わないで、いつも程よい距離を取るとか、あまり踏み込まないとか、すごくある意味で自己利益的だし、いわゆる市民社会的感覚で他者のことを思いやっているわけではないのですけれども、そのエゴイステックなあり方と、共有性とが矛盾しあうものではなくて、どっちもあるという、そういう状態にある。市民社会からみると意味不明な論理もあると思うんですが、それってけっこうすぐ隣に、まず一緒に肌身として暮らしている、別にそうしたくてしてるわけではないけれども、そういった条件だったり、それからやっぱり重要なのは「状況」から見たとき、手配師たちに、あるいは労働現場において、「奪われている」という共通感覚があるわけです。その感覚ってすごく重要だなと思うんですよね。これって別に活動家から教えてもらうわけではなく、日常的に身に染みて知っていることであるわけです。このあたりが共通感覚を作ったと考えられますし、何かその辺りの共同性のありかたというのは、いわゆる市民社会の中で、これはどう表現したらいいのかな。そのありようをモデルにする必要は全くないんですけれども。でも、これを言っちゃうとおしまいかもしれないですけれども、やはりその社会においてマイノリティであることと、その社会で奪われているという経験という固有性があることは、たぶんちょっと外せないところかなという風に思いますね。

――言葉として、「違う」といわれるかもしれませんが、ちょっと野性的なつながり方という感じも(笑)。

原口:野性的といえば、野性的かもしれませんね。ただ僕はつながり方の作法としてはいろいろあり得るだろうなと思っていて。僕自身も必ずしもつい殴り合ってとかというものがすべてだとは思っていません。ただその中でどういう空間を形成するかというのはその状況とその場所と、その地域とがあると思うんですね。その中でたぶん作法というものはむしろ、「作り上げていくものだ」と思うので、それぞれの作法で作り上げていく、場所の作風みたいなものをどう作り上げていくかということだと思います。

                (2018.9.25 大阪市天王寺の喫茶店にて)

*寿生活館―昭和40年、寿生活館は「住居のない者及び簡易宿泊者等の更生と福祉を図る」ことを目的として、横浜市が設置した。建設時は法人経営の保育園、二階は市職員による「生活相談」などを当面の業務としていたが、昭和48年のオイルショックを契機に寿地区の主流を占める港湾労働者の仕事が減少したため、横浜市は寿生活環の3・4階を労働者の宿泊、炊き出しの場として寿地区自治会越冬実行委員会に一時貸与することとした。(昭和50年2月まで)。映画『どっこい!人間節』はこの時期の生活館の映像を収めている。


     後編・「ジェントリフィケーションー都市の報復と破壊」に続く

                       (前編インタビュー後記)

原口剛さん
1976年千葉県生まれ。鹿児島で育つ。
東京大学文学部で倫理学を学んだのち、2000年より大阪市立大学文学研究科にて地理学を学ぶ。
2007年、大阪市立大学文学研究科後記博士課程修了、博士(文学)
日本学術振興会特別研究員や大阪市立大学都市研究プラザ研究員などを経て、2012年より神戸大学大学院人文学研究科准教授。専門は都市社会地理学、都市論

著書:
2011 『釜ヶ崎のススメ』(洛北出版) 共著
2014 『ジェントリフィケーションと報復都市』 ニール・スミス(ミネルヴァ書房)翻訳
2016 『叫びの都市―寄せ場、釜ヶ崎、流動的下層労働者』(洛北出版)
など。


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