田中康雄さん(児童精神科医)インタビュー前編・5
権力に対する諦め
田中:大義をどこに持っているかというのがきっとあるんだと思いますけれども。だから安倍さんがなかなか難しいのは彼が守ろうとしているのが最終的にこの国の繁栄ではなく、安倍さん個人の保守というか、そういうのが見え隠れしちゃうのがきっと彼が損する点なんだと思うんですよね。いさぎよくない、というかね。
杉本:哲学はあるんでしょうか?あのかたはポジティヴなことをやたらと言いたがってるんですけど。もはや癖のように、「私の責任において」と、ポジティヴらしきことを盛んに言うのですが。信じてるんでしょうかね?そういう自分の言葉を。
田中:う~ん。その彼が言っている「私の責任において」というのが、彼は気づいているかどうかわからないけども、支配的立場にいるだけの言葉のようにしか聞こえなくて、首相であるということはそれだけの権限を持っているんだという意味で使っているのであって、覚悟とはちょっと違うなと。権力の乱発だと思うんですよね。でも覚悟していないから、一偏へ走る。だからそこがちょっとまずいなと思うんですけどね。
杉本:なるほど。覚悟のあるなし、なのかな。
田中:だからそれこそさっき言った「意志」の問題というのは、そこなのかなと思うんですよね。これをすることで、どういうバッシングがくるか、どんな影響があったとしても、いまそれをする意志が問われる。権限を持っていることをどう自覚するか。そこにある危機感も承知したうえで、舵を取る。その危機感がどれほど共有できているかで、僕たちはその言葉、行いに共感するわけです。さっきも話しましたが、僕たちもまた大きな情報をもっています。ハラリさんが語った、協力と情報の共有には、大きな信頼関係がないといけないと思います。ある人の言葉が、心に届くかどうか。そこには信頼を得るための覚悟や正直さが求められると思います。
かつての垂直関係というのは、それは時には自分勝手な話に見えるけれども、ある意味覚悟が見え隠れした意志によるものだったと思いますが、それすらも見えないと僕たちは失望というか不信感だけが大きくなってしまう気がします。
「斜め後ろの関係」とは?
杉本:だから急にミクロな話をすると、お子さんを持つ親御さんの、とりあえず父親の問題。父親の覚悟はどのあたりであるべきかと言えば、それこそ、「お前、親としての責任、どう考えているんだ?」というのはちょっと酷な話かもしれなくて、“どう考えたらいいんだろう?”って。誠実に悩んでいる親もいらっしゃるのでは?まあ子どものことでいろいろな出てくることの中においてあるのではないか。繰り返しですが、ちょっと父親モデルみたいなものは作りにくいのではないか。
田中:うんうん。
杉本:まあ僕もね。親になったことがないので、父親としての気持ちはちょっと分からない…。
田中:そうですねえ。そのいわゆる社会構造的な部分では垂直だ、水平だというようなところでかつての多少、暴力的な垂直な中で、やはり「水平が必要だよね」となるんだけれど、僕の中ではその水平すらも常に垂直関係を内在しているだろうという風に思うので、決してすべからく同じ立場というのはないと思っています。
杉本:先生は確か、「斜め後ろの関係」と。
田中:はい。
杉本:仰っていて。それはボクシングで言えば、トレーナーの役割。つまり闘うのはボクサーだけど、リングの上でこれは危険だというときには本人に確認するのではなくて、一方的にタオルを「もうダメだ」と投げる。本人があとで憤っても、それはそれとして、本人を守るために白旗をあげるということをトレーナーはやる。だから危険に関しては自分の責任において本人が納得しなくても本人のためにやる。それまでは闘いは後押しする。そういうイメージで読みましたけれども。その辺りに活路を見出している気がしましたけれども。
田中:そうですね。たぶんそれは「共犯幻想」みたいなものがきっとあるんだと思いますけれども。
杉本:共犯幻想?
田中:変な言葉ですね。うーん、なにか一緒に、というようなことといえるかな。今までの政治的な話とは全然違うのだけれど。外来に来た子供たちに出会った僕が「自分で何とかしなさい」みたいなことを言うことは当然あり得ないし、かといってじゃあ僕が何とかしてあげるよ、というのもおかしな話です。結局、「いま君はどうしたいのだろうか」という所から始まるんですよね。僕は何をしたいのかというと、「ああしなさい、こうしなさい」じゃなくて、たぶん「何をしたいんだい?」という風に対話を始めることなんだろうなという風に思うんですよね。しかしそもそも、僕たちはなにもわかちあっていない。水平でも垂直でも、関係性が成立していない。だから当然なかなか対話は成立しにくい。それは相手が自分の思いを言葉になかなか置き換えられない、あるいは信頼関係そのものがまだ成立してないことに関して「なぜ俺の思いをお前ごときに言わなくてはならないんだ?」という、これまでの人生から学んだ諦めであったり、ちょっと気分的には「もうどうしようもないんだ」と必要以上に今をネガティヴに考えている状況に追い詰められている部分だったり、ともかく不本意な出会いを強要されたという内在した怒りがあったり、ともかく、まだまだ僕との信頼関係がいわゆるボクサーとトレーナーの関係はまったく作れていない段階です。
その出会いのなかで、さまざまに試されるというのが対話面接なんだと思うんですよね。最初から信頼関係など作れない。当たり前ですよね。「僕は君のトレーナーになりたいんだ」と言っても、「嫌だ」と言われたらおしまいだし、「何でぼくがひとりでリングに立たなきゃならないんだ?」と言われたら、「じゃあ一緒に立とうよ」という風になっても、そこでトレーナーがその人に代わって闘っちゃいけないということだけはハッキリしているわけで。でも一緒に戦うとか、応援するとか、一緒に考えることはしたいんだということをなんとか伝えたいのが、僕のスタンスなので。
で、そんなやりとりを繰り返していくうちに、ようやく少し「この時には君の意思とは関係なくタオルを投げさせてもらっていいだろうか」という関係が作れたかどうかになると思うんですよね。それが出来なければ、「僕は投げるべきだと思うんだけれども投げていいだろうか?」ということを聞くレベルの人もいるし、「僕はもう投げなくちゃいけないと思うけれども、許してくれ」と謝って投げなくちゃならないこともあるだろうし、たぶん無理だろうから、投げるべきだろうけれども、リングでノックアウトされてくれるのを待って、ノックアウトされたときに「すまなかった」と。「やはり投げるべきだった」と。「次のときは投げていいか」という。だからすべては成功とするためのトレーナーではなくて、そのときの相手によって、やっぱり相手によってはノックアウトされるのを見守らなくちゃいけない時もあるし、その傷を受ける前にタオルを投げなくちゃならない時もあるし、いろんな立場で登場しなくちゃならないけれど、そもそもそのトレーナーとしての関係が出来るかどうかが僕の中での第一歩ということでしょうね。
不登校とか、ひきこもりの場合はそこの関係がなかなか成立しにくい構造になっているので、そこに時間をかけるとか、作戦を練るとか、いろんな手を使っていかないとやはり「選手—トレーナー関係」にもならないということでしょうか。それができたら多少は後ろ盾になれた、斜め後ろの関係になれたかもしれないと思うのですけれども。
(2020.3.29)
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