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自民党政治の変容 中北浩爾 〜 宇野重規「保守とリベラル」七章、終章の付録資料として。



岸信介と小選挙区法案の挫折

1955年、左右両派の日本社会党、10月に再統一

11月に日本民主党と自由党が合併し、自由民主党を結党。

55年体制の成立をもって、階級対立が政党システムの形状を規定することになった。


保守合同を後押ししたのは財界(経団連、日経連、同友会(経済同友会)日本商工会議所)


社会党を主導したのはマルクス主義に基づく左派社会党(階級闘争を標榜する総評とその支援を受けた穏健左派の全労(社会党右派)。


1959年、社会党は安保改定をめぐる論争を一因として再分裂、翌年60年、民主社会党(民社党)が結成される。


保守合同の最大の功労者は戦後A級戦犯とし逮捕され、1953年選挙で政界復帰したばかりの岸信介だった。


岸の自民党組織論 ― 近代的な党組織― 従来の国会議員による分権的議員政党から脱却して、党執行部の強力な指導のもとに全国に支部を設置して党員を大量に集め、党費納入などの義務を負わせる代わり、役員選出などへの参加を認める。社会党的な集権的組織政党を構築すること。また、総裁選公選規定に党の国会議員と都道府県選出の二名の代議員とが平等に投票権を持ち、総裁が党大会で公選されるようにしたい。


総裁選公選の導入には二つの理由があり、一つは総裁人事をめぐる民主党・自由党両党の対立を解決し、保守合同を実現するため。もう一つは組織政党の建設のため。党費納入など党活動に積極的に参加する党員を多数獲得するためには、党内民主主義が不可欠と考えた。


結党時に発表された「党の性格」と、「党の使命」の二重性(オモテとウラ)

「党の性格」―階級独裁に対する議会制民主主義の擁護、国有化や官僚統制などの社会主義経済に対する、修正資本主義と福祉国家の実現、階級的利益に対する国民的利益の代表といった、まこと結構な主張。また、自己規定として、「国民政党」「平和主義政党」「民主主義政党」「議会主義政党」「進歩的政党」「福祉国家の実現をはかる政党」と、口当たりが非常によい。


だが、「党の性格」と同時に策定された「党の使命」を読むと…

「憲法を始め教育制度その他の諸制度の改革にあたり、不当に国家観念と愛国心を抑圧し、また国権を過度に分裂強化させたものが少なくない。この間隙が新たなる国際情勢の変化とあいまち、共産主義及び階級社会主義勢力の乗ずるところとなり、その急激な台頭を許すに至ったのである」

また、同じく結党時に決められた「党の政綱」では、祖国愛を高揚するための「教育の改革」現行憲法の「自主的改正」を打ち出す。


岸信介



 岸を会長とする自由党の憲法調査会が1954年に作成した憲法改正試案では、自衛軍の設置、法律による基本的人権の制限、家族の保護と尊重、子の親に対する孝養の義務、国防や国家に対する忠誠の義務、国会の最高機関性の廃止、参議院への推薦制の導入、内閣の緊急命令権、裁判所の違憲審査権の制限、地方公共団体の長の直接公選制の見直しなどを盛り込む。天皇は元首として、国会の停会、宣戦・講和の布告、緊急命令の公布などの権限を付与する。


自由党憲法調査会案



 そして自民党の憲法調査会1956年4月2日の中間報告「憲法改正の必要と問題点」でも、天皇の元首化、自衛のための軍備の保持、家族に関する規定の補充、国土防衛の義務、直接公選以外の手続きによる参議院議員や地方公共団体の長の選出、内閣の臨時の応急措置などに言及。自由党の憲法私案と同一の方向性を示す。


経済四団体で構成される財界は、自民党執行部の党勢力の強化を後押し、日本の総資本を代表するものとして自民党中央の執行権の強化を望む。 


その後も党近代化の動きは強まり、1962年、「党風刷新懇話会」を結成、その後「党風刷新連盟」に改称。この党風刷新連盟こそが党近代化のもう一つの推進力であった。その中心人物は、岸の後継者の福田赳夫。福田は生産ではなく消費を優先するものとして所得倍増政策を批判する一方で、岸の持論に沿って、派閥の解消と小選挙区制の導入を強く主張し、池田内閣を牽制した。


派閥の解消を打ち出した三木武夫

三木は石橋湛山総裁の幹事長を務めた際にも「派閥の解消」「政党運営の合理化」を行い、全国的な組織を確立することなしには、近代政党としての発達は期し得ないと訴えた。岸と並ぶ党近代化の索引者が、三木であった。(ただ、強権的な岸に対して、社会党などの革新、リベラル政党に妥協的態度を取るのが三木武夫だった)


その後田中角栄の日本列島改造論は、都市政策には公害規制の強化など革新自治体の政策が大幅に盛り込まれていた。

総じて1970年代半ばまでの自民党政権の政策は、革新自治体やあるいは社会党をはじめとする野党の政策を後追いする傾向が強かったと言える。

(その最初の段階は石田博英の「保守政党のビジョン」)

それが1973年の「福祉元年」。 →田中角栄の金権政治と、オイルショックで挫折。


第二章 総裁予備選挙の実現と日本型多元主義

1974年、石田博英による「党綱領及び憲章に関する調査会」。20年前の綱領が現状に合わなくなっているとの認識に従い、西ドイツ社民党の綱領などを参考に作業を進める。この綱領草案は、憲法改正にふれなかった。今後5年程度を展望する位置付けのもと、近い将来に必要になるとも思えないし、現実にもできないとの理由からであった。その一方、この綱領草案で重視されたのは「社会的公正の確保」や「国民生活優先の政治」であり、社会的公正のために私権を制限すること、国民生活安定のために高い水準の社会保障を確立することなどが盛り込まれる。また、「恒久平和と全人類の繁栄を目指す外交」として非核三原則の堅持が明記される。


1975年、結党20周年を受けた新綱領作成にあたり、右派とハト派が憲法改正の記述の明記を巡って対立。ハト派を代表する河野洋平ほかが離党して、新自由クラブを結成。新政治綱領の制定は頓挫。

しかしながら、この時期、攻勢をかけていたのは憲法改正に慎重なリベラル派であり、右派がかろうじて「自主憲法の制定」という方針を守るのに成功したにすぎなかった。少なくも、両者の勢力はかなり拮抗していた。


三木政権の後の福田赳夫政権で総裁予備選が導入。また、同内閣でいちおう、派閥がいちど解散する


一方、

同時期、選挙に弱くなった自民党に危機感を持つ1970年代に保守系の学者グループが形成される。(グループ1984などー中心人物として香山健一)。


香山健一


そのようなネットワークの核となったのは、1969年にウシオ電機の牛尾治郎社長が設立した社会工学研究所。


この研究所は株式会社であり、社長に牛尾、所長は建築家の黒川紀章がなる。

1976年には経済同友会の広田一が東大の村上泰亮らと語り合い、「政策構想フォーラム」を設立、村上が代表世話人になり、佐藤誠三郎、公文康平、堤清二、稲盛和夫、椎名武雄といった財界人をメンバーとして、保守の再生を目指す。

「保革伯仲時代、オイルショックで、日本の将来に対する方向性が揺れていた。一方で現代総合研究集団(正村公宏代表)といった革新をサポートするシンクタンクが活動している。そんな中で、資本原理で日本の経済運営を行い、分権的方向で国民生活を充実させる革新的保守を目指した」(佐藤一) 


大平・中曽根と日本的多元主義

香山健一「開かれた国民政党を目指す党改革には、組織政党を構築しようと考える「近代化」と日本形多元主義を創造しようとする「現代化」のふたつのモデルが存在した」。

 総裁予備選の導入と実施は、自民党の党組織の変化と大平の勝利という二重の意味において、党近代化論に対する日本形多元主義優位を確立させた。



1982年の中曽根内閣の発足


田中角栄の影響

香山健一をはじめとした旧大平ブレーンたち。

中曽根が熱心だった行政改革。

「増税なき財政再建」をスローガンに、経団連前会長の土光敏夫を会長とする第二臨調。―公文俊平が専門委員に、佐藤誠三郎が参与に。基本理念が「大きな政府」から個人の自助、家庭・地域・職場の互助を強調する「活力ある福祉社会の実現」。

かつての大平ブレーンは第二臨調を経て、中曽根ブレーンに転じていった。


中曽根は当時第一次答申の理念に関して「フリードマン式の自由主義というものを完全に日本に行うのは必ずしも適当ではない」「ケインズ流でやってきて、公債が大きくなり過ぎ、財政的破綻寸前まできた…手術にメスとして、当面はフリードマンを活用していい。しかし日本の本来の体質から見れば、やはり混合経済体質の必要性は厳然としてある」。


・村上泰亮『新中間大衆の時代』



「先発型のレッセフェール理念を導入しようとする試みとしての一面」があるとしながらも、「当面えられる合意は財政赤字についての懸念であって十分に基本的なものではない」

「もし日本の保守主義がそれなりの歴史的経験を生かして、古典的自由主義を超える社会哲学を生み出すとすれば、それは日本にとってのもならず世界にとっても大きな貢献であろう」


注目すべきは大平人脈とのつながりが、右派として知られた中曽根を穏健化させたことである。


1985年、田中角栄が脳卒中で倒れると、田中派に依存していた中曽根首相は行政改革などを背景とする高い支持率もあって、格段に自立性を高めた。政権運営に自信を高めた中曽根は右派という地金を徐々に顕在化させ、自民党の夏の軽井沢セミナーの講演で、「戦後政治の総決算」の必要性を強調、防衛費の1%枠の撤廃、靖国神社への公式参拝などに意欲を示した。しかしこの時期自民党はリベラルの優位の元にあった。戦後40年の8月15日、戦後の首相として初めて靖国神社に公式参拝、中国の激しい反発を引き起こす。


香山「リベラルと右翼的諸勢力の連合という形で…政治の現実ではありますが、
我が国社会の一部に存在する右翼的勢力―それは第一に戦争と侵略への深い反省がなく、第二に日本の国体、精神文化の伝統について全く誤った、歪んだ固定観念に凝り固まっており、第三に国際的視野も、歴史の責任感も欠いております。こうした愚かしい右翼の存在と二重写しにされることは馬鹿馬鹿しいことだと思います」(香山健一「靖国神社公式参拝を行わぬよう決断を」)


第三章 政治改革と自社さ政権

いろいろ財界の中心人物などから自民党の中選挙区制や派閥、多元主義に批判がありつつ、田中内閣以来の小選挙区比例代表制が俎上に乗りつつも、中心ブレーンの中には中選挙区制支持者が多かった(香山健一など)。

 こうした中、日本の多元主義者に大きな打撃を与える事件が起きる。リクルート事件である。このようななか、竹下内閣の政治改革大綱は、かつて鳩山内閣や田中内閣の最大政党に有利な小選挙区制を導入することとの、今までの違いは社会党や共産党の進出を阻止し、自民党政権を継続させる思惑と違い、ここでの小選挙区制の話題は、政権交代が起きうるほどまでに政党間の競争を強めるための手段として位置付けられた。加えて政党に対する国庫補助、すなわち政党助成金にも言及された。 


1991年11月、宮沢喜一内閣誕生。


この時期、政治改革の主役をなしたのが小沢一郎。

1992年、香山健一をブレーンとしつつ、細川護熙が日本新党を結成、かつ細川が提携相手に選んだ武村正義を中心とする自民党若手を視野に。パイプ役として1985年政治改革大綱の作成にあたった田中秀征を提携準備の相手とする。

1993年5月 小沢一郎「日本改造計画」発刊。ベストセラーに。


1992年、夏の参議院選は日本新党が躍進しつつも、宮澤政権の自民党も勝利する。

しかし、その後まもなく宮澤政権に激震が走る。副総理の金丸信が東京佐川急便から5億円もの裏金授受のスキャンダルが報じられ、政治資金規正法の略式起訴というあまりに軽い処分に世論の批判が巻き起こり、金丸が議員辞職。これを背景に、またもや政治改革の機運が高まった。

金丸は議員辞職と共に経世会会長からも退いたが、竹下は内部で後継争いが深刻化、金丸の支持を得て派閥を掌握していた小沢一郎が羽田孜を擁立したのに対し、元竹下登首相をバックするとする反小沢グループは小渕恵三を推した。最終的に、小渕恵三が派閥会長に収まったが、これを不服とする小沢グループは羽田グループを作り、ついに経世会は分裂する。

元来小選挙区制に慎重な宮沢は反小沢の小渕派、梶山静六を幹事長とし、梶山は政治改革三法案を廃案にする。

小沢は水面下で対抗策として野党への働きかけを強める。ターゲットとしたのは社会党に影響力を持つ連合の山岸会長だった。

1993年6月17日、野党三党が政治改革断念を理由として内閣不信任案を提出すると、自民党で羽田派などが造反し、不信任案が可決し、宮澤内閣は解散。政界は流動化。自民党若手10名が離党、武村正義を中心に新党さきがけを結党。これに触発され、羽田派、44名も離党。新政党を結党し、小沢が代表幹事になる。

選挙は自民は過半数獲得はなかったとはいえ善戦、新党ブームで割を食った社会党が大敗、政界再編成のキャスティングボードを日本新党と、新党さきがけが握ることになる。

最終的に新政党の小沢一郎の動きが素早く、日本新党が鍵を握っていると見て細川と会談、細川首班を打診、非自民、非共産の八党首会談で細川統一首班にすることが決まり、社会党を含む連立政権の合意がまとめられた。かくして自民党は1955年の結党以来初めて野党に転落する。


※選挙制度についてー宮沢喜一の証言『新護憲宣言より』


『私もいくらか人の面倒を見る立場になり、とてもこれは普通のことだけではやっていけないなと思いました。おまけにリクルート事件が起きて、私もいささか関わりを持ち、大蔵大臣を辞めることになりました。そうしたことから、政治改革をせざるをえないと考えるに至ったわけです。…それと並行して政治改革の方向として一人区がいいのだという流れが、なんとなくできてしまった』

『まことに残念な話です。へんてこな金がないと政治ができない、それを止めるには納税者の金を買うしかない、そのためには一人区しかないという発想は、全く逆立ちしていると思うけれども、元の問題が治らない限りそれが答えだということになってしまった。』

もともと小選挙区制というのは自民党が言い出した話ですが、一番初めは「憲法改正」などと関連して議論されており、その動機は自民党の数を増やそうということにあった。それが私の政権になったあたりから、「派閥の愚」を解消しようという話と連動されるようになり、そして金丸さんの出来事などをきっかけにして今の金権スキャンダルに結びつけた話になるわけです』p.47〜48(同書、1995年発行)


その後は小選挙区制の定数配分をめぐる、細川、小沢、自民党などが繰り広げる政治闘争となる。結論的に区割りは自民党に譲歩。

また、このときの政治的勝者は小選挙区制導入による政治的リーダーシップの強化を目指し、小選挙区比例代表並立制による総選挙に向け、二大政党制による新党結成の統一会派設立へと動く小沢一郎であり、「穏健な多統制」を目指す武村正義が外され、香山健一が良しとした日本型多元主義の時代は終わりを告げる。


自社さ政権
小沢・公明党のラインにさきがけ、社会党が反発を強める中、政治改革関連四法案から一ヶ月で今度は東京佐川急便からの借入金疑惑で細川首相が辞意表明すると、非自民・非共産の八党派は急速に瓦解する。

その後の少数派政権での羽田政権は二ヶ月足らずで総辞職。与党と自民党の間で、今度は社会党とさきがけがキャスティングボードを握り、95年6月、社会党委員長の村山富市を首班とする自社さ連立政権が成立する。


社会党の村山首相は自衛隊を合憲と認め、日米安保を堅持する姿勢を示し、日の丸君が代も国歌、国旗と認め、階級対立に基づく1955年体制の終焉に導く。


加藤紘一


とはいえ、自民党も社会党の譲歩に応えるように、この時期自民党はリベラル色を濃厚に強める。特に自民党政調会長だった加藤紘一の尽力によって、社会党の要求を受け入れ、原爆被爆者援護法の制定、水俣病未認定患者の救済、戦後50年の国会決議と首相談話などが実現した。


自民党右傾化の潮流

その後、自社さ政権崩壊後、自民党が徐々に右に傾き始め、1997年には右派系団体の本格的な巻き返しが始まる。文化人を中心に旧軍関係者とともに共闘する「日本を守る国民会議」が宗教団体などによって構成される「日本を守る会」と合流して、「日本会議」が設立された。その組織支柱になったのが神社本庁であった。


日本会議」はその4ヶ月前に結成された「新しい日本教科書を作る会」を通して、支持層を広げることに成功。「歴史教科書を作る会」は小林よしのりなどの若者に浸透力を持つスポークスマンを得ており、従来の右派が取り込めなかった都市部の無党派層、なかんずく若者層にも浸透していく。国会議員も日本会議の結成に合わせて「日本会議国会議員懇談会」を発足。


行財政改革積極派の橋本総理に襲う金融危機、自自公政権を作った小渕恵三内閣による①積極財政への転換②右傾化―日米防衛ガイドライン関連法、憲法調査会設置法、国旗国歌法など。


自自公連立政権の誕生で、自社さ政権の立役者、加藤紘一は非主流派なっていく。

以後、2000年代の清和会政治に変異していく…




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