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栗原康さん(政治学者、アナキズム研究)前編・1 あらがう力を取り戻せ

              アナキズムとは?

――まずは率直にアナキズムとは何か?というところから教えていただけますか。

栗原 はい。アナキズムというのは、いちおう日本語では「無政府主義」と訳されています。もちろんそれで間違いではないんですけども、語源からいうと「統治がない状態」とか、「支配がない状態」のことをアナキズムといいます。政府は統治のひとつの支配機関だったりするので、その意味では無政府主義と呼ぶのは間違いではないんですけど、もうちょっと広くいえば、人を支配するのは政府だけではないですよね。どんな組織に入っていたってそうですし、二人のあいだの人間関係にだって支配はある。そういうあらゆる支配がないかたちに持っていきましょうよ、というのがアナキズムの考えであったりします。

――そうすると、あらゆる人間関係にはどこかで支配の構造が生まれてしまうのでしょうか?例えば仮に自給自足でひとり、ひきこもっていたとしても?

栗原 そうですね。ひとりが好きな人はひとりでいいんじゃないでしょうか。集団を作るとか、人と一緒にいるからといって必ずしも支配が生まれるわけではありません。でも意識しないと、かならず支配はうまれてしまうので、いつでもなくしていこうというのがアナキズムの考えですね。

ーーではより具体的にお尋ねしたいのですが、「支配」とは何でしょうか。

栗原 一番単純なのは文字通り人をむち打ったりして強引に従わせるという支配がありますけど、現代の支配は、「社会そのもの」が支配になっていると思います。だいたい社会とか秩序のシステムができあがった状態からひとつの価値尺度みたいなものができあがって、いまだったらそれは率直にいってお金だったりするわけですね。お金をたくさん稼げるやつが偉いわけで、できない人間はクソみたいな扱いを受ける。だから稼げないことに対して「ダメだ」というレッテルを貼られ、その負い目みたいなものを感じてしまう。「稼がなくちゃいけない、稼がなくちゃいけない」という形で追いつめられてしまうところがあったりしますけれど、そこへかり立てられたりしてしまう強制力とでもいうのでしょうか。そのようなものがいまの「支配」の形です。つまり支配的な集団の中でうまくやっていかなきゃいけない。じつはそれはお金だけの話だけじゃなくて、集団や組織を作ったらその組織に貢献できる活動ができるかどうかとか、そういうことがいろいろあったりすると思うんです。「有用でなければいけない」、「そうしなければいけない」という意識が生まれるのが、支配の場といえるでしょう。

――そうすると先ほどお金を稼げる人間が偉いとされる現代の支配、という話がありましたが、お金を生まない組織であったとしても支配の形はあると?

栗原 お金じゃないといっても、その中でいつのまにかできちゃう時はありますよね。

――たとえば非営利組織と呼ばれるNPOでも支配の形がありえるでしょうか。

栗原 ありえると思います。NPOにかぎらず社会事業などやる団体で、たとえばいまの貧富の格差はよくないよねみたいな運動団体を作ったとしても、そのためには政府に圧力かけなきゃいけない。意見統一した人々を集めなくちゃいけない。するとそれを集められる人がやっぱり有用な人材なわけで。できなかったらたぶんダメなんだと思うんです。だからなにかしらひとつの目標を立ててそのために人を動員していくということをやりはじめると支配みたいなものが生まれてしまう。アナキズムの発想というのはそういう支配が芽生えたらいつでもそこから脱していいんだと。逃げてもいいし、もちろん内部批判をし合ってもいい。そのやりかたはたぶんいろいろだと思う。そういう考えかたですね。

――たとえば先ほどのような善意の組織では、最初に集った人が離れていくとその組織のトップが倫理的ないいかたでいきどおったりするケースもあるかと思います。そのような組織の長の姿には支配者のかたちが生まれてきつつあると考えていいですか?

栗原 難しいのはいま仰ったようなことをこちら側から、上から目線で説教したって、もうれつに反発されるだけですよね。「きみは支配されてるよ」といっても、支配されてる側がわからなかったりする。だからいまの社会の支配が怖いのは、だいたい「気がつかない」ということだと思うんです。たとえば資本主義だってたぶん、僕らは批判的に考えてるからいいですけど、普通に会社で働いていたりしたら気づかなかったりしますよね。それで金を稼いで自分で生計立てて何が悪いの?とたいていの人は思っているでしょうし。

――その通りで、自分の努力の結果で自分の生活を築き上げるのが普通のことだと思われています。

栗原 自分のやったことの見返りはもらえる。ただそれだけでやっていくと、たぶんもう労働の環境は崩れちゃっていますから、だいたいの人はたぶん追いつめられていってしまう。どんなに普通に見返りをもらえるような働き方をしてても、いまの20代、30代になると正社員だっていつクビになるかわからないし、一度30代でクビになったら次の仕事ではなかなか正社員になれなかったりしますからね。そうすると「俺ダメなんじゃないか」「私ダメなんじゃないか」と思って、精神的にまいってしまう。周りでも親とかがいいますよね。そこで追いつめられてしまったり。あるいは会社を辞めたくないと思ったらすごいブラックな働き方をさせられてても、ここで辞めちゃいけないってすごく規制がはたらく。たぶんシステムが内面化しちゃってると思うんです。

――そういう生き方が自分の中の道徳観念みたいなものとして出来上がっていて、それは全然おかしいと思っていないのではないでしょうか。

栗原 ええ。だからそこで気がつかないと、本当に追いつめられて自殺とか、過労死であったりとか。そこまで行ってしまったり。あるいは精神を壊してしまったり。

――実際に過労死というか、若い高学歴だった女性が自殺されてそれが社会問題となり、「働き方改革」が叫ばれてはいますが、何となくその意識も高まりを得ていない気がします。

栗原 そこに解決策として良い働き方をして行きましょうだけだと、やっぱり「働けばいいのか?」になって、たぶん同じことを繰り返すだけになってしまうでしょう。そういうところでもう一回アナキズムへの発想って大事なのかな、って思います。

――なるほど。とはいえ、アナキズムの核って本当に根源的な発想もあるのだと思います。労働自体も根本から問い直していってしまう。

栗原 仕事の話でいえば、それこそ『はたらかないで、たらふく食べたい』と言っていいんだよ、ということもそうですね。

――つまりその方法や手段を教えてくださいというニーズに応えるというより、むしろ『はたらかないで、たらふく食べたい』というのはある種の「心の叫び」みたいなものだということですよね。

栗原 そうなんです。まずは「言っていいんだ」というところです。実際アルバイトしたり、働いたとしても、そういうことばを内側に持っているかどうか。それがたぶん大事なんだと思います。

――そうなんですね。なかなか根本から考えるのは大変な気もしますけれども。でも、栗原さんの本、たぶんけっこう売れてますよね。

栗原 そうですね。やはり一定数それを必要としている人は出てきているんだと思いますね。

――ここまでやっぱり言ってほしかったと。

栗原 ええ。うっすらと感じてたけれども、たぶん言語化できていないという人はたぶん1度本当に思ってみてもいいと思うんです。僕は大学生、大学院生の2000年前後から同じことをずっと言っているんですけど、例えば同期で就職した子とか、かれら20代の頃にはやっぱり僕が言ってることとかは、まったく意味がわからないわけですよ。だけど20代後半、30代になってくると、友だちが身体と心を崩しちゃって辞めて。そういうことがあったり、なにかしら痛い目にあって。会社を信じていたら簡単に切られたとか、そういう目にあった人だと、30代になってもう1回会って飲んで話してみると、「だんだんお前の言ってることわかってきたよ」と。そういう人とか出てきたりするので。何かちょっと働いたりして、2~3年してくるとわかるものかもしれないですね。

――もう2~3年で分かってしまうと(苦笑)。そんな時代なんですね。

栗原 はたらいてなくても、就活で痛められている学生なんかだと、わかってくる発想かもしれないですね。

                奴隷根性

――その選択がすごく葛藤を呼ぶ部分で。「ならばどうしたらいいのか」って本当に思い悩む部分ではないかと思うんですけど。で、『現代暴力論』(角川新書)で語られている暴力の問題。実は「国家は征服者だったんだ」という話ですね。われわれは征服者のふるう暴力の恐怖を見ておそれをなした奴隷だったんだ、ということが書いてあります。ここまで言い切られてうなづく人はそういないとおもうんですけど(笑)。この話を少し説明いただければとおもうのですが。

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栗原 はい。それは大杉栄が言っていた話なんですけど。彼には有名な論文はいくつかあって、「征服の事実」「奴隷根性論」と、「生の拡充」という3つの文章が有名です。大杉栄が奴隷制の話をするときに大事なことは、最初は強制的に暴力をふるわれる。戦争とかで捕虜にされ、死にたくなかったら俺のために苦役をやれと。土木工事をやらせたりとか。農業やらせて支配者のために富をうるおわせるというふうにやらされていく。そこで逆らう人とか明確にいるけれども、そういう人たちは血祭りにあげて見せしめにして怖がらせ、恐怖で支配していくみたいな形でやっていく。それは今の時代にはないと言いたいですけど。実は今もそれはあるかな、という気もしますしね。

――そうですよね。世界総体的にみると「IS」などがやっている、あれは…。

栗原 恐怖政治ですね。

――そうですね。イスラミック・ステイトという国家を名乗っているわけだから。本当に原始的な国家とはああいうものだったんだと教えてくれる例ですね。で、それに向けて空爆しているアメリカなども洗練されてはいるけれど、その起源はある種の恐怖政治。

栗原 そうですね。従わない連中は「対テロ」の名の下に殺したりしますからね。あるいは普通の会社に入っていまのブラック企業だと実際にムチを打つようなものだったりもしますし、それ自体もリアルになってしまっているかなというふうに思います。あと、大杉が言っていてそうだなと思うのは、「奴隷根性」という話。つまりムチ打たれている奴隷はそれにずっと従わないといけないだけで行くと、生きていくのにどうしても自分のメンタルを保つことができない。だからそれを何とか正当化する方向に自分を持っていこうとしてしまって、本当は支配されむりやり従わされているのに、主人のために頑張って農作業とかをやって収穫高を上げたりする。そうすると主人にほめられたりして。すると俺がやっていることはすげえ良いことなんだみたいに思い込んでしまう。だからつい頑張ってしまう。それが主人に認められて自分がやったことに対して見返りをもらうみたいな。本当はムチ打たれているだけなのに何か自分から喜びを感じて行ってしまう。自発的に、進んでやらされていることへ従っていってしまう。そういう種類の自発性があるんだという話。それを大杉は「奴隷根性」と呼んだりしてるんですけれども、そういう感覚まで来ると文字通り現代というのはそうかな、という気がします。

――私も同様のありようで苦しかったなぁという記憶って学生時代までさかのぼった部分でしかないんですけど。それは学生時代にある宗教団体に入って、大学4年の時に学生幹部になったときなんです。そのときにやることはお金にはいっさいならないですけど、何か布教で。

栗原 ノルマを課された。

――そうですね。究極的には会員とか、シンパをなるべく多く集めるということ。それを精神的に追いつめてやるわけですよ。学生相手だから気軽に過激なことを学生幹部は言うわけで。それをまともに受けてつらくて逃げ出した。で、24、5歳のときにそういうところを逃げてそこから5~6年はやっぱり逃げたことの葛藤とか、逃げた自分が悪かったんじゃないかとか。そういうことを思い続けて家から出るのが怖くなった。最初の頃は家から出たら学生幹部が追いかけてくるんじゃないかと思ったり。というか、実際家に来たりするんです。組織が学生から青年組織とかさまざまにあって、名簿やなんかを持って家にやってくるんですよ。オウム真理教を笑えない(苦笑)。

栗原 それこそまだネット社会じゃないから家に来るんですね。

――来るんですよ。でもこちらは罪悪感を持ってますから。「俺、悪い」と思ってるんで。もしかしたら昔の不登校の子も同じなのかなぁ?もし仮に不登校で学校の先生とか、友だちが訪ねてきて、「おいでよ」みたいなこと言われたら相当な苦しみかもしれません。まあとにかく「正しい」と思っている行動家の人は本当にたまらない(笑)。自分も同じことやってきたからしみじみ反省してるんですけどね。

栗原 同じ構図ですよね。大杉栄が言っている奴隷根性というのは実はあらゆる道徳の起源なんだという話なんです。だからそれをやらない奴隷たちに対して奴隷たち同士で「なんでお前は働かないんだ?」みたいな感じで責めはじめて、負い目に感じて主人のために働いてしまう。だからそういうものを「倫理」とか「道徳」というふうにいう。

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              自分が持つとらわれから抜け出す

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