愛猫はペットか家族か?それはあなたぁ!次第です!
今回は久々に猫のお話です。ダラダラと結論のない長文ですが何卒ご容赦くださいませ。
さて、先日6月16日は愛猫ゲンの一周忌でした。しかし特に何をした訳でもなく、ただただ平穏無事にその日を迎え、その日が過ぎるのを待っていた次第です。
ゲンが埋葬されているペット霊園は自宅から車で15分という近所ですが、お参りに行く気にはなれませんでしたし、これまでもただの一度もお参りには行っておりません。おそらくこれからも行くことはないでしょう。
……季節はもうじき夏ですね。8月には盆休みがありますが私は母のお墓参りには行きません。
理由はただ一つ、墓など見たくもない!この一点に尽きます。これは昨年末の母の一周忌法要にて経験というか感じたことです。
母の墓石の前に独り立つ。
母が逝ったことをまざまざと見せつけるかの様な墓石。
情け容赦ない現実。
この時私は三回忌法要まではもう二度と来ないと決心いたしました。
お墓参りには様々な意味があるようですが私的には母もゲンも私の心の中で今も生き続けております。
なのでわざわざ二人のお墓に死を確認しに行く必要などないということです。行ったところで大いなる矛盾を感じ、私の心・頭が混乱するだけです。
しかも二人はもうとっくに天国に行っているはずなのでそこに居ないことは明らかです。
それとも私がお墓に行けば二人は天国から降りて来るのでしょうか?
もしそうだとしても二人にそんなご足労をさせたくはありませんね。
天国から降りてくるならお墓ではなく私のアパートに降りてきて貰いたい。
夢の中に出てくるのはダメです。所詮、夢は夢に過ぎません。
幽霊でも何でもいいから私の目の前に出てきて貰いたい。
幽霊・化け猫?何だって構いません。私は大歓迎です。
何ならついでに私を天国に連れて行ってくれても構いません。
ですが二人はいつまで経っても出て来てくれません。
……きっと私は二人の相次いだ死を今尚受け入れられていないのでしょう。とはいえ、そもそも私は二人の死を受け入れなければいけないのでしょうか?
私に女房子供でもいればいつまでもメソメソしている訳には行かないのでしょう、しかし私は幸か不幸か独身ですので自分の気をしっかりさせる必要などありません。
ですので私はこれからも遠慮なくメソメソした人生を送らせて頂きます。
それもまた私の人生。私の自由です。はい。
冒頭から話が盛大に脱線してしまいましたが、今回は改めて飼い猫の家庭内での立場について考えてみました。
我が家に猫がやってきたのは私が物心ついた頃でした。それから私は50年以上猫と暮らして来ました。
昨年2021年に亡くなった愛猫ゲンは我が家の五代目の愛猫になります。
初代から四代目のミミまでのお世話は、猫砂やフードの買出し以外は2020年12月に亡くなった母が全てを担っていました。
愛猫ゲンについては母の高齢化に伴う頻発する病気により、ゲンが3歳頃から12歳11ヶ月で亡くなるまで全て私がゲンのお世話を担当して参りました。
要は50年間猫と暮らしておきながら、私が一から十まで愛猫のお世話をしたのは五代目のゲンが初めてだったということです。これは以前の何かの記事にも書いたことですね。
ここでちょっと我が家の愛猫歴を簡単に振り返させて下さい。
初代のミー・チビは、ミーは8歳で急逝。チビは我が家から脱走して行方知れず。
二代目のミチは、異変が生じ動物病院へ入院するも間もなく死去。生まれつき腎臓が一つしかなかったようです。クル病でもありましたね。
三代目ミルは、17歳まで元気に生きるもある日突然急逝。
四代目ミミは、生後6ヶ月で逝去。ゴタゴタがあったものの先天的な脳腫瘍?ぽいですね。
そして五代目ゲンは、ご存知の通り扁平上皮癌による丸5ヶ月間の過酷な闘病の末に死去。中程度の慢性腎不全でもありました。
こうして振り返ってみると我が家の全ての愛猫はもちろん家族であった訳ですが、そうは言っても所詮はペットの域を出てはいなかったのかなぁ?だからこそ五代目のゲンを迎えたのだろうと思えて来ます。
初代のミーの時は私は幼く、二代目のミチは異変から入院死まで僅かな期間。
三代目ミルは17年間もの長きに渡り私と母を癒し続け、最終的には何の異変も気配も感じさせることなく、最初から最後まで何一つ面倒を掛けることもなく静かに逝きました。
四代目ミミは生まれつき健康体ではなかった様です。
早い話が猫は家族だ!と言いながらも彼ら彼女らの死が私の骨身に染みていない、猫の寿命は人間よりはるかに短いのだから飼っている以上、愛猫の死は仕方のないこと的な感覚。
結局のところ猫は所詮ペット。実は私はそんな感覚に半世紀にも及ぶ長期間支配されていたかと思うと慙愧に堪えません。
もちろん全ての愛猫に愛情を注いでいましたし家族だとも思っていました。
ただ各々の愛猫との別れ方が、必至に命の綱引きをした末に最終的に無理やり連れて行かれてしまったという敗北感があまりなかった分、命が失われることの重大さを十分に理解・実感出来ていなかったということです。
これを気付かせてくれたのが五代目の愛猫ゲンです。
ゲンを迎える理由として一番大きかったのが、四代目のミミの想定外の早すぎる死でした。
もたらされるはずだった我が家への癒しに対するある種の物足りなさがありました。
そして母と私の年齢を考慮して検討した結果、何とか次の猫を迎えられそうだ、しかし今度こそ完全に我が家最後の猫になるということで迎えたのがゲンであります。
猫の腎臓病についてはそれなりには知っていましたが、扁平上皮癌なんて言葉は50年以上生きてきて生まれて初めて聞きましたし、愛猫が日々朽ちていき死んでいく様を目の当たりにしたのも初めてでした。
四代目ミミも近いものがありましたが母が面倒を見ていたことやそもそも食が細く、急に病気になった感じでもなかったのでゲンほどの落胆は不思議となかったですね。まあだからこそ五代目のゲンを迎える心境なれた訳ですが…
再度ここで、これまでの我が家の愛猫達に対する私の思いをまとめさせて頂くと、初代から四代目までは家族の一員だと思いながらも決して抜けることのなかったペット感覚。
そんな「愛猫はペットじゃなくて家族ですぅ」的な感覚を超えて、もはや「肉親」であると心底思わせてくれたのが五代目の愛猫ゲンなのです。
血がつながっているいないとか、動物種的にどうのこうのと言うのは私的にどーでもいいことです。なので私的にゲンは肉親です。はい。
これは幸なのか?不幸なのか?
幸:愛猫がペットの域を超えなければ悲しみもそこそこで済む。
不幸:愛猫がペットの域を超えた存在であればその悲しみは深く計り知れない。
中々難しいところではあります。
ゲンの死について言えば私の場合「不幸」に該当しますが、命の重さや尊さを私に教えてくれたという意味では「不幸」だとは感じていません。むしろ感謝です。
ただ、肉親を失ったという悲しみというのはそう簡単には消えません。これはペットだろうがなんだろうが関係のない話ですね。だって肉親なのですから。
しかし誰もがその肉親の死を乗り越えて行きます。
冒頭で私はメソメソしながら生きていくと書きましたが、そのうちに時が癒してくれる、いつか時間が解決してくれることは明らかなので私は絶望はしていません。ゲンとの日々という思い出が消えることも決してありませんしね。
そう、私の心の傷的なものを癒してくれるのは時間であり、次なる猫を迎え入れることではないのです。なので私が猫を飼うことはもう二度とありません。
もう二度と猫を飼わない理由を挙げると、単純に私は定年もチラチラ見えてきた中高年であり、しかも単身者であるということ。
要はバトンタッチする相手がいないということです。
単純に新たに子猫だろうが成猫だろうが猫を飼えない状況・環境であるということですね。
今から猫を迎えたところで私の方が先に死ぬ可能性すらあります。たとえ先に死なないまでもおちおち入院すら出来ません。
自分が入院したらその期間、愛猫をペットホテルに預ける等の方法もあろうかとは思いますが、愛猫のストレスを考えると「その手がある!」という心境にはなれませんね。
あとは何と言っても私とゲンとの関係性の中で明確になった、ゲンは「ペット」ではなく「家族」もはや「肉親」であるということです。
愛する我が子が病気なり事故なりで亡くなった場合「ほんじゃ次いこ次」ってなりますか?って話です。
例えば我が子を乳幼児の時点で病気等々で亡くし、その後子宝に恵まれず孤児院から恵まれない子を養子として引き取るケースもあるかとは思います。
しかし私は必ずしもそれが一般的でありがちなことだとは思っていません。
特に物心が付き、親と子・人間対人間というコミュニケーションが成立している状況の中で我が子を失った場合に「子供がいないのは寂しいし、出来そうもないから孤児院から養子でも貰ってくるか?」という人がどれだけいるのでしょうか?
そういうのってかなりレアなケースだと思うんですけどね。
だからと言って孤児院から貰うなと言っているのではありませんよ。念のため。むしろ貰ってあげた方がその子にとっても幸せになれる可能性大な気がします。
では何故そういったケースはレアなのでしょうか? やはりそれは亡くした我が子の代わりにはなれないからでしょう。
この感覚が私が新たに子猫なり成猫なりを迎え入れる気に全くなれない最大の理由です。
では、愛する我が子に先立たれるも次なる子供が出来ない・貰うこともしない親はその後どうするのか?
それは悲しみを抱えながら生きて行くということでしょうね。いつか心が時間に癒され、心が穏やかになれる日が必ず訪れることを信じて…
これはさっき書いたことの繰り返しです。
私が愛猫ゲンを失ったことと世間の親御さんが愛する我が子を失ったケースと何ら変わりはないということです。
ここで更にもう一度まとめさせて下さい。
・私にとって愛猫ゲンは「ペット」を超えた「家族」もはや「肉親」です。
・私はゲンとの思い出を頼りに悲しみを抱えながら生きて行きます。
これはもはやペットロスではありません。完全に家族ロスです。
・私はもう二度と猫を飼いません。
理由はゲンは誰も代わりは出来ないかけがえのない存在であったことや、私は中高年の単身者であり、飼い主として最期まで責任を全うする自信がないからです。
さて今更ですが私が何故この記事、愛猫は「ペット」か「家族」かというテーマについて書くことになったかと言いますと実はきっかけがありました。
それはSNSで発信されていたものです。内容は1年前の私と同じ様な立場の方の発信でした。
その方も高齢猫を飼っていてその子もかなり重い病気を患っており、余命いくばくもない看取り段階に入っていました。
しかも私と同じ中高年の単身者のようでしたので、その偶然見かけたSNSでのその方の発信は同士的な意味合いでとても気になり、常々拝読させて頂いておりました。
その方が大変なのは百も承知していましたのでコメントはせずにただ読むだけ、陰ながら応援していた次第です。
ただその方の看取りは獣医さん任せといった感じで、あまり主体性が感じられませんでしたので必ずしも共感は出来ませんでしたが…
そしてその子の容態は日々悪化して行き、やがてお亡くなりになりました。
あー死んじゃったかこの子…まあ看取りに対する考え方とか方法とかは自分とは違うアプローチだったけど飼い主さんもこの子もホントよく頑張ったよなぁと。
その後のその方のSNSでの発信は葬儀であったり片付けであったり、悲しみの文章であったりと、ごく自然なものでした。
しかしその子の逝去から1,2週間くらいたったある日、その方がある発信をしました。
それは「新たに子猫を迎え入れるために準備開始!」みたいなものでした。正直えっ!って感じでしたね。
そりゃーね、ぶっちゃけウチだって初代から四代目のミミまではそんな感じでしたよ。
でもそれは幸か不幸か愛猫との別れ方がシリアス過ぎていなかった分、愛猫の死の悲しみが飼い主の私や母の骨身に染みていなかったから、やっぱり我が家には猫がいないと寂しいねぇ、と…
でもさあ、こないだ亡くなったおたくの子はウチのゲン同じとは言いませんが、結構大変なことになって死んじゃったんじゃないの?
よくそんな前向きな気持ちになれるなぁ、しかも私同様に中高年の単身者なんでしょ?最期まで面倒みれんのかよ?ってね。
もちろんそんなコメントなどしてませんよ。だからここに書いてるんです。はい。
ただ、その方のSNS上での発信がきっかけとなり、
・ペットはあくまでもペットなのか?
・ペットは家族だとよく聞くがそれは真実か?
・我が家の愛猫達は何者だったのか?
・ゲンとは私にとって何だったのか?
を自問することになりこの記事になった次第です。
そういった意味ではあの方の不思議なまでの前向きさは自分を見つめ直すとても良いきっかけになりましたね。
「ペットは家族」
これはホントよく聞くセリフですし、私もよく言ってきたセリフです。
で、家族って何よ?
死んじゃったから新しい猫を迎える。ところでその死んだ猫って本当に家族だったの?それって家族じゃなくて単に同棲・同居してただけじゃね?
だって自分の子供に不幸が起きた場合、その代わりを連れて来ようとは普通そうそう思わないでしょ? なんで猫なら代わりを連れて来れちゃうの?って話です。
何度も何度も繰り返しで恐縮ですが、私も初代から四代目までは口先だけの「ペットは家族マン」でした。
それに気付くのに50年以上の歳月を費やしたことに対する自分の愚かさには呆れるしかありません。
べつにこの記事で猫を飼うな!と言っているのではありませんよ。相変わらずの猫人気に乗っかって安易に飼うのは良くないとは思いますが…
あのSNSの方には違和感を禁じ得ませんが、あの方が新たな猫を迎えることでその子の命が救われることに間違いありません。
飼い主が増えれば増えるほどに救われる命があります。
しかし救われたはずの命がまさかの飼育放棄により不幸のどん底に突き落とされるケースがあることは存じております。
愛猫のことを「ペット」だと思うからこそ安易に飼うことが出来、その分生まれて来た猫は救われます。
逆に愛猫のことを「家族・子供」であると心底思えば思うほど、安易に飼うことは出来なくなりその分救われない猫は多くなります。
もう完全にジレンマです。
正に愛猫を「ペット」と見るか?「家族」と見るか?は飼い主さん次第ですね。
飼っている時は心底愛猫は「家族」であると思い、死んでしまったらあの子は「ペット」だったのだと思い直して新たな猫を迎える。
SNSのあの方はそういう感じなのかも知れませんね。私はそんな器用に感情をコントロール出来る人間ではありません。
しかし飼っている時はとことん「家族」として接し、死んでしまったら「次いこ次」というのも必ずしも悪くありません。そうすることで救われる猫がいるのですから。
私はもう二度と猫を飼いません。そういった意味では救える命を救わないことに決めたに等しいかも知れません。
自分の年齢や単身であることを考えるとやはり責任が持てませんので。
それじゃああなたは今後世にいる猫とどう関わって行くのか?と言われるかも知れませんが私が直接的に猫に関わることは、ズバリもうないですね。
ボランティア活動?とてもとてもそんな気力・体力やお金を寄付する経済力もありませんので、ただただ世の中の猫達が不幸な「人生」を強いられないことを祈るばかりです。
祈っているだけでは何もならないとは思いますが私が出来ることはそれくらいです。
あとは精々こういった猫関係の自己満臭プンプンの持論を展開的な記事を書くことくらいでしょう。
一人でも共感して下さる方がいればそれはそれで意味のあることかなと…
そろそろこの記事も終わりにしますがもう少し言わせて下さい。それは猫の一生についてです。
猫を飼っている飼い主さんの中で猫の一生のことを「猫生」と言う人って結構いますね。「ねこせい」だの「びょうせい」だのって。犬だったら「犬生(けんせい)」でしょうか?
それらのセリフは私がゲンのことで動物病院へ行った時にちょいちょい耳にしました。「この子はあとどのくらいでしょうか?この子の猫生を考えると…」みたいな。
私は50年以上猫と暮らして来ましたが、猫の一生のことを「猫生」と言ったことはただの一度もなかったので「猫生」という言葉を見聞きすると何とも言えない気持ちになります。
私は我が家の過去全ての愛猫達に全精力を費やしたとは必ずしも言えない飼い主でしたが、それでも愛猫は家族であるとの認識は持っていました。
では家族ってどういうこと?って話ですが、我が家は当然のことながら人間の家族でしたので愛猫も人間と同じという感覚です。
そりゃ動物学的に猫が人間でないことは百も承知していますが、何と言いますか…姿・形が猫なだけで「人」と一緒。
てか、もはやその存在感は「人」なんですね「人」。
なので私は愛猫の一生のことを「人生」と言うことに対してなんの違和感もありません。
そもそも「ねこせい」「びょうせい」って語呂が悪くて言いづらくありませんか?
なのに何故わざわざ「猫生」と「人生」を区別・使い分けて言う必要があるのか全く私には理解出来ませんね。
猫に対して「人生」と言うのは何か小っ恥ずかしいのでしょうか?謎ですね。
ならおまえも愛猫とか言わないで愛人と呼ぶべきだろ!は無しでお願いします。愛人では意味合いが違ってきますのでね。
それにしても
愛猫は「ペット」か?「家族」か?
愛猫は「家族」という名の単なる同居人か?それとも肉親か?
中々難しいところです。
ゲンは私と母、二人の子供のような存在でしたのでもはや肉親です。ゲンにとっても私と母は両親のような存在だった筈です。
母が生前よく言っていましたね。ゲンは私たちのことを親だと思っていると…自分は人間だと思っていると…そして母が逝き、まるでその後を追うように逝ったゲン。
私にとってゲンの死による悲しみはペットロスではありません。母同様に家族ロスです。
愛猫ゲン逝去後一年が経ちましたがいまだに精神的にキツイものがあります。
そういった意味ではペットはあくまでもペットとして見るのが実は正解なのかも知れないなぁと思う今日この頃ですが、どうなんでしょう?
以上、愛猫をペットと見るか?家族と見るか?それはあなたぁ!次第です!でした。ありがとうございました。