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エッセイー4. 元エホバの証人2世が持つ生きづらさ

エホバの証人2世の被害について記事を書きたいと思う。

タイトルにも書いているがここで言及したいのは
「元エホバの証人2世が持つ生きづらさ」
についてです。
脱2世信者において精神病に至るまでもない、どことなく抱えている生きづらさであったり、しんどさ、憎しみについて分析したいと思う。

1- 幼少期のムチによる体罰

まずエホバの証人の教育方針の中で幼少期に形成される人格に大きな影響を及ぼしたのはムチによる体罰であることは間違いない。
まず体罰が正常に機能するときとしない時というのを考えてみたい。

体罰というのは大前提として体罰される子供が心からの尊敬を抱いていないとプラスには働かない。尊敬を持ち合わせていないと体罰はただの憎しみといったマイナスの側面しか落とさない。
この尊敬を持っているかどうかは子供以外にはわからないため、必然的に尊敬されているというエゴの前提の元で大人は体罰を行うことになる。
過去に実際にプラスに働いた体罰もあったこととは思うがマイナス面の方がはるかに多かったことは昨今のムチ被害の声から明らかだろう。

幼少期においては体罰のマイナス面はまだ憎しみとして表れて出てこない。憎しみよりもはるかに親から愛されたいという気持ちが大きいからだ。そういった意味からはこの時点において体罰のプラス面が歪んだ形で出てきていると言ってもいいかもしれない。

小さな粗相を暴力で抑圧されるということは、「親という権威の前ではどんなに小さな振る舞いにおいても親の望む人間像を演技しなければいけない」ということを体感的に学習していくことになる。つまりは本音による選択は鼻から間違っていると否定されるので用意された答えに聞き従うしかない、演技するしかないという思考になる。

暴力で抑圧される小さな粗相というものが、理不尽かつ小さければ小さいほど、その後の大人になってからの生きづらさに繋がる。

また幼少期の子供にとって親と子の関係しか知らないのでそれが世界のすべてになってしまう。ということは「親という権威」というのはそっくりそのまま「世界」に置き換わる。「この世界ではこの世界の権威あるものに望まれる人物像を演技しないといけない」になってしまう。
例え成長して、世界というのが親と子の関係のみに限らないとわかっても、刷り込まれた親と子の関係はそのまま世界における権威と自分との関係として理解することになる。

離脱前ではこの「世界」というものは「ものみの塔冊子協会」であり、その権威が望む人物像を必死に演技することになる。それが生存戦略であり、平和かつ幸せになる方法だと信じ込んでしまう。


2- 青年期の演技による憑依

役者が役作りしていく中でその役に取り込まれてしまう、引きずるなんてことを聞いたことがあるのではないでしょうか。
エホバの証人2世はこの役に取り込まれる作業を青年期を通して刷り込んでいくことになる。

最初は生存戦略として平穏に暮らす為の手段が、段々と「自分がエホバの証人になりたいから」、「自分が望んで行ったことだから」と演じていた人物像が憑依してくることになる。それはマインドコントロールの一種と考えられる。

このマインドコントロールは宗教内において優秀な人間として演じさせることで自尊心・自己肯定感を刺激し、その人物像への執着心を芽生えさせる。
その執着心は「エホバの証人の情報統制」、「世の中での孤独」、「社会の理不尽」が組み合わさることでより強固な信仰心へと変わる。

ここで後々に影響する大きなポイントとして、幼少期からこの青年期に至るまで望まれた人物像を演技することで本音、つまり自分の意思による選択を全くしてきていないことにある。人生の選択において自分の意思というのは
体罰による抑圧という経験からずっと蓋をしているからである。

このポイントはアダルトチルドレンの症状に直結する。
自分の意思の選択に自分が責任を取れない(取りたくない)という思考になってしまう。なのでより演技する方向へ舵を切る。自分の意思決定より指示を守る方が自責の念に駆られる心配がないからだ。


3- 離脱後の生きづらさ

エホバの証人から離れた後、自分の意思で人生の選択をしていくことになるが今まで演じてきていたその人物像の基準を引きずることになる。間違っているとわかっていても人格形成に刷り込まれたこの認知はなかなか消すことはできない。そもそも2世信者の行動原理が周囲の期待から来ているため、自己本位な行動原理にはたとえそれが正常なものであっても罪悪感が伴うので苦痛が生じる。

この罪悪感がわかりにくいかもしれないが、例えば、大麻が合法化され明日から解禁となったとして、すぐに罪悪感なく吸える人は少ないではないだろうか。それを解禁後すぐ罪悪感を感じながら吸うようなイメージだ。それと似たようなことが小さなスケールで日常生活の細部にまでめぐっていて、たとえ法律で罰せられるようなことでなくても罪悪感を感じながら生活することになる。

前述した幼少期に経験した「この世界ではこの世界の権威あるものに望まれる人物像を演技しないといけない」という刷り込みは、離脱前においてこの「世界」は「ものみの塔冊子協会」になるが、離脱後は文字通り世界中になる。このギャップが認知の歪みを引き起こし、生きづらさになる。

そして離脱後も自分の意思の選択に自分が責任を取れない(取りたくない)という思考を持ちながら、大人になってからは今に至るまでの経験を自分の自己責任として扱われ「後悔・失敗・挫折」を味わうことになる。これが大きな憎しみとなって噴出する。
それは冒頭で話した幼少期には感じることのできなかった体罰のマイナス面が時間の損失というのも相まって巨大なものになる。
昨今のエホバの証人の虐待問題がメディアに取り上げられるまでに時間がかかったのは幼少期の体罰、成人までのエホバの証人としての教育、離脱後の自立、という経過が必要だったことも一因としてあると考えられる。

この生きづらさと憎しみに向き合いながら自分なりの答えを探しながら生きていくことになる。こんな事を考えずに生きれたらその時が本当の解決になるんだろう。

以上、元エホバの証人2世の認知の歪みによる生きづらさを自分なりに分析してみました。


この認知の歪みによる生きづらさ、しんどさ、憎しみについて、誰が悪いんだろうか。
ものみの塔冊子協会?、親?、親をエホバの証人にした関係者?
そんな宗教を放置した社会?、聖書?、信じた自分?

大小それぞれに責任はあるが結局生きづらさの解消へ行動できるのは自分。
自己責任ではないがどう生きるかは決めるのは自分しかいない。

理不尽で残酷だ

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