見出し画像

コラム-3. エホバの証人の祝い事の禁止、本当に聖書で求められていること?

3個目のお題は
”エホバの証人の祝い事の禁止、本当に聖書で求められていること?”
今回は各種の祝い事についてです。
宗教2世で育ってきた方は祝い事についても禁止事項が多く、周りの友達との差に苦しんできた人も多いのではないでしょうか。この記事ではエホバの証人が教えている主な祝い事を中心に聖書的かどうかを考察したいと思います。

1.祝い事についてエホバの証人が教えていること

 エホバの証人の出版物である「神にずっと愛されるために」という書籍の中の13章で各種の祝い事について言及されているので見てみましょう。


JW.ORG 書籍「神にずっと愛されるために」13章

 全文を載せたいくらいなのですが大分長くなるので書かれている各種祝い事についてまとめたいと思います。
詳細をご覧になりたい方は下線部の「JW.ORG 書籍「神にずっと愛されるために」13章」からサイトへ飛べます。

まず書かれている祝い事は以下になります。
・クリスマスについて
・誕生日について
・イースターについて
・ハロウィーンについて
・結婚式の中で行われる慣習について
・乾杯について

エホバの証人ではこれらの祝い事はしてはいけないことになっています。
その理由としてそれぞれあげられていますが共通して言えることは"異なる宗教が起源になっている"ことです。

ここで疑問に上げたい項目は下記になります。
疑問1. 聖書は異教の祝い事についてなんと書かれているのか
疑問2. 今現代において宗教的意味合いのない祝い事についてはどう考えるべきか

2.聖書に書かれていること+私の考察

(考察は私の一意見であり正しい解釈がこれだという意図はありません)

まず疑問1を考えるにあたり、イザヤ書の65:11、12を見てみましょう。

JW.ORG 新世界訳イザヤ65:11,12

 聖句を確認してもエホバの証人の資料にあるように確かに異宗教(他の神)の祝い事に関してはエホバから見て"悪い事"、"不快な事"というように扱われています。

なので疑問1.の"聖書は異教の祝い事についてなんと書かれているのか”についてはエホバの証人が伝えているように神が喜ばれていないので行わないことが賢明だと考察します。

 では続いて疑問2.の”今現代において宗教的意味合いのない祝い事についてはどう考えるべきか”について考えてみましょう。

聖句を探してみましたがそのものずばりを指摘している聖句は見つけられませんでした。(もしご存じの方がいれば教えてください。)
今現在において"祝い事に宗教的意味合いがあるかどうか"というものは他者からは非常に見分けにくく、それぞれの祝い事に宗教的な意味合いがあるかどうかはグラデーションがかかっているでしょう。その国の文化的背景も色濃く反映されていますし、日本という他の国に比べると宗教観が伴わない形で宗教的イベントを取り入れる文化では主観によってさらに変わってきます。

つまりはその祝い事に宗教的意味合いがあるかどうかということは個人の信仰によって決めるべき内容と考察します。

私個人の主観ですが、クリスマスは宗教的な祝い事と認識している人が多いのではないかと思います。イベントとしてはプレゼントを贈りあう宗教的な感覚はないと思いますが、何をお祝いしている日なのか問われたらイエスの誕生日を祝うと答えられる人が多いと思います。
しかし乾杯においては宗教的な祝い事と認識している人は少ないでしょう。
何をお祝いしているのか問われたら、「その日のおめでたい事や苦労をねぎらうため」と答える人が多いのではないでしょうか。

 では異なる宗教の祝い事であっても、ある人はその信仰心から祝わないでいて、ある人はその信仰心から祝っても良いと考えるならどちらが正しいのでしょうか。

私はこのどちらも正しいと考察します。それはローマ人への手紙の14:1-6の聖句からそう考えます。

JW.ORG 新世界訳ローマ14:1-6

この聖句に疑問2.の”今現代において宗教的意味合いのない祝い事についてはどう考えるべきか”の答えが入っているように考えます。
そのものずばりの回答している聖句とは言えないかもしれませんが、個人の信仰心の上で宗教的意味合いがあるかどうかを考え、祝う祝わないを決定されたのであればその決定を他者は裁くべきではないと考えます。なので組織(ものみの塔協会)がこの祝い事はダメ、という禁止事項を作り、裁く行為は聖書的ではないと考察します。

注意したい点は個人の信仰心で決定すべきで他者が裁くべきではないからといって許されているんだからといって快楽主義になることは良くないこと、聖書的ではないことだと認識しておくべきと考えます。

3.考察まとめ

(考察は私の一意見であり正しい解釈がこれだという意図はありません)

疑問1. 聖書は異教の祝い事についてなんと書かれているのか
エホバから見て"悪い事"、"不快な事"と聖句で書かれており異なる宗教の祝い事を祝うことは良くない。

疑問2. 今現代において宗教的意味合いのない祝い事についてはどう考えるべきか
→個人の信仰心から宗教的な意味合いがあるかどうかを判断し、祝うか祝わないかを決定すべき。他者から禁止されるようなものではない。

お題:”エホバの証人の祝い事の禁止、本当に聖書で求められていること?”

結論:異なる宗教の祝い事を禁止(悪いこととして扱う)しているのは事実。しかし現在の祝い事における宗教的意味合いがあるかどうかは個人の信仰心によって決定すべき内容であり組織が禁止すべきものではない。

4.エホバの証人(ものみの塔協会)のダブスタ

上記の考察まとめのように結論を書きましたが、ここでものみの塔協会のダブルスタンダードに言及しておきたいと思います。

冒頭で説明したエホバの証人が教えている教えていることの中に「結婚式の中で行われる慣習について」があったことと思います。
そこではライスシャワーがあげられており下記のように書かれています。

JW.ORG 書籍「神にずっと愛されるために」13章16、17

ここでライスシャワーは間違った宗教や迷信に関係する習慣は行わないようにしましょうと述べられています。

ここで慣習の1つである"結婚指輪"について考えたいと思います。
結婚指輪の起源はご存じですか?起源はギリシャ神話から来ておりプロメテウスという神がゼウスに対し服従の証として岩のかけらと鎖で指輪を作り身に着けるという話が元になっています。
そこから派生し、誓いの証としてつくられた指輪が、結婚の誓いを意味する結婚指輪の由来と言われています。結婚指輪を身に着けることで、女性が男性に仕えることを意味していました。

エホバの証人(ものみの塔協会)からすると異なる宗教が起源になっていて結婚指輪の取り決めは行ってはいけない慣習にあたるはずですがどのように教えられているのでしょうか。

ものみの塔1992/9/1 P30-31 読者からの質問

上記を読んでわかる通り宗教的意味を失っているため結婚指輪をはめるという慣習は問題ないと教えています。エホバの証人は重要なこととして慣行が現在偽りの宗教と結び付けられているかどうかということと述べています。

気持ちいいぐらいにダブルスタンダードです。
結婚式における慣習として起源が大事といいながら
「ライスシャワーは起源が間違った宗教であるからやめろ」といい、
「結婚指輪は起源が間違った宗教だが宗教的意味合いは失っているから問題ない」と言っているのです。

宗教的意味合いがあるかないかが重要だと認識しながら、その意味合いのありなしを組織が決め、組織が禁止事項を作り、組織が裁くということは全く聖書的ではありません。

5. 2世の子供を持つエホバの証人1世へのお願い

 1世の方々は祝い事を禁止することに関して信仰心もあり、抵抗が少ないかもしれません。ですが2世の子供は親からわけもわからず誕生日やその他の祝い事を禁止され、宗教的意味合いもなくただ友達をお祝いしたいという気持ちそのものを否定され、自分もお祝いされたいという気持ちに蓋をして孤立していきます。大きくなって自立してから自分の信仰心に照らし合わせて何を祝うか祝わないかは決定すべきで、子供に強制すべきものではありません。

今一度下記を自問自答願います。

  • 祝い事のするしないはあなたが聖書と信仰に基づいて決定したことですか?

  • 組織から信仰を試されて恐怖から組織に従ってませんか

  • 子供の気持ちを理解した上で教えていますか

なんども言いますが祝い事に宗教的意味合いがあるかどうかはグラデーションです。歴史、国、人によって背景は全く違います。なぜその中でエホバの証人は宗教的意味合いがあるかないかが重要とわかっておきながら、なぜ全世界で統一して禁止事項を作るのでしょうか。それを守らない人を裁くのでしょうか。それがおかしいことだと聖書的ではないと気付いてほしいです。

以上ここまで読んで頂きありがとうございました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?