挿絵_3

現代建築家宣言 Contemporary Architects Manifesto【3】人類、崇高さ、死 ―表象不可能性の先へ投擲せよ―

建築界のこの底知れぬ閉塞感と、夢のなさを肌身で実感する平成生まれの
20代建築家が、それでも建築に希望を見いだす術を模索した痕跡。
*『建築ジャーナル』2019年9月号からの転載です。 

第三回 人類、崇高さ、死 ―表象不可能性の先へ投擲せよ―

著者・若林拓哉

――現代建築家は、〈崇高さ〉によって人間中心主義を超克する。

 〈現代建築家〉は個人的性質を可能な限りつぶさに見つめ、それらを具体的に感じ、肯定し、理解する。そのリベラルな態度は個人主義的な側面もあるが、一方で極めて大局的な視点、ある種の超越的な視点を要する。第二回の終わりに、そのための現代的な問いのキーワードとして〈崇高さsublime〉を提示した。
 まず、その視点とはいかなるものなのか、というところから話を始めよう。個人的性質の差異を限りなく突き詰めれば、あらゆる人間は一人ひとり異なる人間である、というごく当たり前の結論にいたる。問題は、その

差異をどれだけ許容できるか、という〈寛容さgenerosity〉❖1の振れ幅

にある。ここに一人の人物Aがいたとして、Aは自己以外の意見・存在は認めない、とすればAの寛容さは限りなくゼロに近いだろう(寛容さを定量的に測れるものとすればだが)。反対に、どんな人間の意見・存在も認める人物Bがいたとすれば、少なくとも、前者と比較して寛容さの度合いは高まるだろう。多くの人々の意見を聴き、調停し、空間に落とし込んでいく建築家の役割として、この〈寛容なgenerous〉態度こそが求められる。ここにおいて、

「認める」ことと「賛同する」ことは全く異なる

ものであることは指摘しておかねばならない。あくまで〈寛容な〉態度とは、ある人物の意見・存在を受容することに留まる。そこに賛否の価値基準が入り込む余地はない。「認める」ことの後に「賛同する」か否かの意思決定の機会が生じるのであり、仮に賛同しなかったとしても、その人間の意見・存在を否定することにはならない。つまり、意見が違えたとしても、存在を「認める」ことは本来的に可能なのである。そして人々が生きる社会❖2 もまた、本来はひとつではないことを理解しておく必要がある。社会の複数性は、人々に、複数の現実に生きる可能性を与えるという寛容さをもっている❖3 。これは端的に言って、自己防衛のために極めて重要なセーフティネットとして機能する。個々人が自己の存在を享受し得る社会をいかに複数的に構築するか、というのは現代的な課題であろう。しかしながら、〈男性性masculinity〉❖4 の強い近代的な建築家にとってはそうはいかない。

その横柄な俗人的態度は、対立構造をでっちあげ、ありもしない敵を生み出し続ける。

 古典から近代まで通底する、建築家が目指してきた人間像は、レオナルド・ダ・ヴィンチのかの有名な「ウィトルウィウス的人体図」が端的に代弁している。それは第一に、男性であり、白人のヨーロッパ人であり、容姿端麗で五体満足の、理想的な人間(=Man)である❖5 。つまり、人間と称しながら、何者でもない虚構の存在でしかなかった。すべての寸法を、ありもしない架空の理想的な人間を想定してモデュール化すること。そしてそれは、人種的にも性別的にも宗教的にも身体的にも極めて偏った人間像であること。それが近代の産物である。しかしながら、これまで誰もそれが建築を利用する人々を代理表象していることに疑問をもたなかった。その美的価値基準を固定化し、享受することと引き換えに。近代的な人間像を中心に据えることを人間中心主義(アントロポセントリズム)❖6とすれば、わたしたちはポスト人間中心主義的(アントロポセントリック)な、種としての「人間❖7」を想定した

<人類>のための建築

を指向することもまた別様な可能性としてあろう。これは「人間」の個々人の差異を捨象することを意味しない。それとはまったく逆に、すべての「人間」の差異を受け止め、その上で〈人類〉が共存する術を模索する態度を指す。
 その可能性の一つとして、まず〈聖なるもの〉を考えてみたい。これは先の俗人的態度における〈俗〉に対する応答である。〈聖なるもの〉という概念には「宗教的なものを規定する本質(オットー、デュルケーム)だとか、世界を秩序付ける実体(エリアーデ)❖8 」といった近代の社会学者、宗教学者たちによる古典的な定義がある。しかしながら、彼らの指すところは明らかにキリスト教的背景に基づくものであり、なかなか日本人に馴染みのあるものではない。あなたはまるで聖人のようですね、というのも褒め言葉に聞こえなくはないが、神道系・仏教系の宗教人口が圧倒的に多い日本❖9 において、〈聖なるもの〉の概念よりも適切なキーワードがあるはずである。
 その前にもうひとつ留意しておきたいことがある。〈聖なるもの〉と表現した場合でも、超越的なもの、神秘的なものといったニュアンスは含意されているだろうが、先の宗教的背景以外にも、そう表現したい欲動の背後には、「俗なものではない」と主張したいという意思が見え隠れする。哲学者・倫理学者の佐々木雄大の言葉を借りれば、その時の俗という言葉の中には、経済的な利益を目的とするというニュアンスが含まれている。人間の生は経済的価値だけではない、

有用性を超える何か、人生に意味を与えてくれる何かがあるんだと言いたい❖10

がために、〈聖なるもの〉を掲げるのではないだろうか。この観点は非常に示唆的である。一方で、わたしたちは近代建築家の、そして大衆の〈俗〉さをこそ受容しなければならない。だからこそ、〈聖なるもの〉と〈俗〉という二項対立的な関係ではない地点から、問いのキーワードを提示する必要がある。

挿絵#3
 そこで提示するのが、

崇高さsublime>

である。

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