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意識を失う体験から考えたこと

人間ドックを受診してきました。

年に1度、自分の健康状態をチェックするのは最重要事項です。

おかげさまで、今年も特に懸案となる所見はありませんでした。


胃の検査はこれまでバリウムを飲んで、身体をぐるぐる回されるレントゲン機材で検査をしていたのですが、昨年から内視鏡検査に変えました。
胃カメラです。

いまの胃カメラは、事前に鎮静剤を注入されて意識を無くしている間にやってしまうので、まったく苦痛がありません。
そのうえ、バリウムのように下剤を飲んだり排出したりといった後処理がないのでラクです。


鎮静剤を打つと意識が無くなります。

私はいつも意識を無くす瞬間を感じたいなと思っているのですが、その瞬間を認識することはできません。

いつの間にか意識を無くなり、気が付くと胃カメラは終わっています。

いつどのタイミングで意識を失ったのかまったくわかりません。


意識が無くなる。けれどもその瞬間は認識できない。

もしかしたら「死」もこのような感じではないかなと思います。

だとしたら、死の間際に「自分はもうすぐ死ぬ」という感覚は、おそらくないのではないかなと思います


死ぬ前に「ああすればよかった。こうすればよかった」と自分の人生を後悔する人がいるという話も聞きますが、死の間際にそんなことを思うタイミングがあるのだろうかとも思います。


しかし、確かに死の間際はそうかもしれないけれども、突然死でない限り人間の身体は徐々に機能劣化を起こしていきます。これまで出来ていたことができなくなります。

歳を重ねてできないことが増えてくると選択肢が狭まります。

選択肢が少なくなってくると、「あのときあれを選択しておけばよかった」と後悔するのかもしれません。


しかし失ったものを取り返すことはできませんし、そのことを悔やんでもとうにもなりません。悔やむぐらいならやれる範囲のことをするだけです。


私が好きな逸話があります。

ルービンシュタインというピアニストは、89歳まで現役でコンサートを開いていましたが、この偉大なピアニストも加齢によって肉体的な機能が衰えます。

しかしルービンシュタインは、演奏する楽曲を厳選し、それだけを集中して練習する。速いパッセージの前の部分は、敢えてスピードを落としてコントラストを際立たせる。

といった手法を用いて、加齢による衰えをカバーしたそうです。


つまり自分のいま現在のリソースから使えるものを絞り込むということです。


このエピソードから学べることは、自分の衰えを自覚するようになったら、その時点で使える自分のリソースを洗い出して、そこに注力するということです。

加齢という制約によって選択肢は少なくなります。そのことを嘆いたり、あれやっとけば良かったなどと後悔するよりもいまに目を向けて、活かせるものを活かす。という生き方がいいのかなと思います。


胃カメラで意識を失う話から始まりましたが、「死」を意識することで自分の在り方を考えるよい機会になりました。

というわけで、鎮静剤を使った胃カメラ、おすすめです。


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