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上海妻と僕の国際関係③

僕の妻は上海人。僕は国際結婚を選択した。

この国で僕が避けては通れない 日中戦争の事

日本の親に結婚を報告
父は自分の道だからと結婚に反対せず、多くを語らず応援してくれた。
母は日本で暮らして欲しいという願いを残しつつ静かに受け入れてくれた。

色々親も気持ちの整理が必要だった。

息子が国際結婚をするとは想像もしていなかったから

妻となる劉さんを見て、彼女を信じ安心し最後は祝福してくれた。
そして10日ほどの日本滞在が終わり上海へ戻った。

上海に戻り、劉さんの両親にも報告する為、挨拶にいった。

劉さんの親とも交流があったので、緊張はなかった。

実際に籍を入れるのは少し先。数か月後になる。準備期間を長くとり慌てず、ゆっくり進めていた。


劉さんのお父さんは、あっさり結婚を認め、とても喜んだ。

中国の結婚事情として、特に都会の娘を嫁にもらう場合に男側がマンション、車を持つ事を条件に提示される事が少なくない。

娘側が家財道具を揃える。という風習がある。

地方出身者が上海で生活し仕事するのは簡単ではない。ましてや嫁をもらうとなると、それなりに娘を裕福にできるのかと!親は心配になる。

地方に娘を連れていかれたり、一人娘に貧しい暮らしをさせない為に上海の娘を持つ親は厳しいと評判でもある。

僕が外人であり日本人である事もあり、劉さんのお父さんは逆に喜び、その厳しい結婚条件を求める前にあっさり結婚を認めてくれた。

結婚する報告を済ませ、劉さんの両親は直ぐに父側の親戚を集め会食する事となった。親戚と会うのはこの時は初めてだった。

劉さんの父の兄弟は6人兄弟の二番目で長男。

その為、兄弟を面倒見るようなポジションで一人娘が結婚するという事で親戚が沢山集まってくれた。

一人一人、どういう背景でどういう人かなど説明はしてくれるが顔と名前も一致しないほど、次から次へと説明ラッシュ!そして日本人が珍しいのか質問責め!話を聞いていると、何だか複雑な人間模様がありそうだ。

一番高齢で劉さんを子供の頃育てた、お婆ちゃんは体調が悪く参加できなかった。僕たちの事を祝福している話を聞いて、会えなくて残念だった。

ここに集まる年代の人たちは、中国の複雑な時代を経験してきた人が多い
劉さんのお父さんの時代は毛沢東から鄧小平の激動時代でもある。

青年の頃、文化大革命を経験し、紅衛兵となり毛沢東を崇拝していた10代後半、そして山下郷運動の政策に紅衛兵は地方へ強制的に飛ばされ劉さんの両親は二人とも上海を離れ東北のソ連の近くハルピンへ行く事になる。

10年間上海に戻る事ができず毛沢東が亡くなり文革が終わりを告げ両親は二人で上海に戻り結婚し、僕の妻になる劉さんを生んだ。当時の同僚たちの多くは、そのままハルピンで暮らす組と故郷に戻る組とに分かれた。

少なくとも、この会食の親世代は、その時代を経験してきた人達。
そして、妻になる劉さん世代は1980年から開始された一人っ子世代

この多人数でメンバーが集まると、いつのまにか昔話をよくするらしい。

それくらい時代の変化をみてきた人達かもしれない。



暫くしてから今回、参加できなかったお婆ちゃんの家に劉さんが行く事になり僕が会って結婚報告をしたいと告げると、

実は、お婆ちゃんは癌で自宅で闘病をして余命も少ないという事が判る。会食に参加できないのは病気だったからで、詳しい事は僕には伝えていなかった。

子供の頃劉さんを育てたお婆ちゃんに1度でいいので会いたかった僕の無理も聞いてもらい、一緒に付いていく事が許され、会いにいった。

決して広いとは言えない家の中で3世代6人で生活していた。

体調が悪いと聞いていたので少しの時間だけお婆ちゃんが寝る部屋に入り、挨拶と結婚報告をした。

お婆ちゃんは、僕が部屋に入った時は起きていて笑顔で迎えてくれた。
髪は白く束ねていて、少し濃い肌色で中国の年配の人が着る厚手の服を着て深い皺の顔をクシャクシャにして笑顔で笑っていた。

「よくきたね。そうかい。そうかい お前も結婚かい」と劉さんに話をする

「よかったね。本当によかったね。日本人とだってね。それはよかったね」

「また日本人に会えるとは夢みてるみたいだよフフフフ」と

笑いながらゆっくりと話をしてくれた。

少し元気になり、久しぶりに劉さんの顔をみながら昔話を始めた。
少しのやり取りをしながら昔話を何個かしてくれた

それを劉さんが通訳してくれた。

お婆ちゃんの子供の頃の話になり、戦争時代の話を少し教えてくれた。その話の途中で、劉さんのお父さんが、その話をお婆ちゃんにさせるなと 怒り話は途中で中断になる。心の中で僕はもう少し話を聞きいていたかったと思ったけど体の負担もあり、これ以上話をするのを止めた。

「また今度ね。またお話教えてね」と伝えて部屋を出た。
お婆ちゃんも笑顔で僕が部屋から出るのを見ていた。

少しの時間だったけど、結婚を報告し昔話も聞けて来てよかったと思えた。

お婆ちゃんの家の帰り路、お婆ちゃんの話が頭から離れない。

簡単に説明すると

お婆ちゃんには妹がいた。10代後半の頃。無錫(むしゃく)に近い小さい村に住んでいた。(上海から南京へ行く途中の村)村は日本軍に占領され村の男性は奴隷のように使われ、抵抗する人は・・・された。年頃の女性は男に・・・された。
当時まだ10代後半、日本軍が占領し日常が一変し怯えながら生活をしている中、同じ年の女友達が日本兵に・・・にされた。屈辱のあまり、のちに自ら命を絶つ、次は自分の番だと恐怖していた夜に全てを捨てて妹と二人で村から逃げる。捕まれば殺される覚悟、裸足で逃げたという。たどり着いたのが上海。煌びやかに見えた都市、上海。何もかも親も友達も生まれた村も家も捨てて、二人で上海で生きる為に必死だったという話。

お婆ちゃん曰く、私は綺麗じゃなかったので相手にされなかったと笑った。

初めて見た大都会、上海。

外人が我が国のように住み中国人は追いやられている中国の中にある外国。
華やかな上海の光と影。租界が作り出した景色。

それが子供ごころに美しくもあり、華やかさもあり、寂しさもあり、悔しかった。
その時の事は年老いた今でも鮮明に記憶していると。それを笑いながら話していた。そんな酷い目にあった日本軍の行為だったけど、不思議と憎んでいないらしく、そのお陰で私は上海に来て新たな人生を歩み結婚し今の家庭があるのも、あの時に妹と二人で村を出たからという。その裏には、そんな単純じゃない事くらいは容易に想像できたけど、日本人の僕の顔を見てお婆ちゃんは笑っていた。


劉さんの両親は僕にそんな話を聞かせるな!と劉さんに怒った。
そんな戦争の話を日本人の僕にするんじゃない!と

僕は全然平気だから気にしないで。

こんな話 日本にいては絶対に聞けない。

ここにいる他の大人達も、そういう過去を知り日本軍に被害を受けてきた話は、親から受け継ぎ知っている世代。聞けばいくらでも出てくる。

今、時代は大きく変わった。

戦争の話を僕とするつもりはない。だから劉さんのお父さんは怒った。

劉さんのお父さんは、そんな事は俺たちには関係ない。
それだけを言って 黙ってしまった。

そんな話をさせてしまった僕は申し訳なくなった。




上海、いや中国本土で繰り広げられてきた日本と中国の戦争の歴史を知らないまま、この国にやってきた。僕には配慮が足りなかったと感じた。

上海も戦場となり多くの民間人の知られざる犠牲者が沢山いる。お婆ちゃんんの親も、友達も、お婆ちゃん自身も犠牲者なのだ。
普通に暮らす人たちの人生を戦争は簡単に破壊していく。

アメリカから見た戦争

日本から見た戦争

中国からみた戦争

戦争は問題しか生まない。 そんな事を考える。

僕は戦争を知らない世代、戦争はもう昔の話で終わった事で、今更蒸し返す事でもないように思う部分があったが、まだ戦争被害の中で、それを継承し生き続けている人がいるという事。日本にも中国にも。


劉さんのお婆ちゃんの世代は、日中戦争を子供の頃経験した。

劉さんの親は文革を経験した。

劉さんは急激に中国が発展し改革開放路線に入り一人っ子政策世代。

この3世代では経験した事が あまりにも違い過ぎる。



お婆ちゃんは その一月後、この世を去った。

人生の最後に人生を狂わせた日本人と再び会った事になる。

思い出したくない遠い過去の記憶を思い出させてしまったかもしれない。

嫌な顔せずエピソードを語ってくれたお婆ちゃんの

笑顔は素敵で僕の胸に強く残った。

この国で僕が避けては通れない 日中戦争の歴史

普段、戦争の歴史の話をする事は滅多にない。しかし僕は、この国で暮らす以上は知る必要があると、この事をきっかけに思うようになる。

なぜなら、あまりにも何も知らな過ぎたから。

同時に中国という国を、もっと知りたいと思うようになった。

ここは妻になる人が、生まれてくる物語が刻まれた街、上海。

お婆ちゃんに劉さんの子供の頃の話を聞く事ができなかったな~
それだけは心残りだった。 

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