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シリーズ・映画配給会社プロジェクト    その3. 『私の20世紀』『心と体と』

 UPLINK Cloudの「Help! The 映画配給会社プロジェクト」を受けて、先日から開始した「シリーズ・映画配給会社プロジェクト」。前回はホン・サンスの『正しい日 間違えた日』を紹介したが、第三回はハンガリー・ブダペストの映画監督、イルディコー・エニェディの作品から『私の20世紀』(1989)と『心と体と』(2017)の2本を取り上げようと思う(ともに配給:サンリス)。イルディコー・エニェディは大学で経済学を学んだのち、ブダペスト演劇映画学校(現・大学)で映画制作のいろはを身につけ、いくつかの短篇作品の監督を経て、『私の20世紀』で長篇デビューを果たした。現在は映画監督、脚本家としての活動に加え、母校であるブダペスト演劇映画大学で教鞭を執っている。
(ヘッダー写真:『心と体と』© INFORG - M&M FILM)

新時代の価値観は実現されたか


『私の20世紀』の舞台は、19世紀の終わりから20世紀はじめ。ぽよんぽよんと弾む丸い月、そしてその月のところにおそらく黎明期の映画と思しき映像––––どうやら人が大砲に首を突っ込んでいるようだ––––がはめ込まれたオープニングのタイトルバックに次いで、暗転した画面に「ニュージャージー州メンローパーク 1880年」と字幕が現れる。ここで行われるのは、エジソンが発明した電球の点灯お披露目だ。木々に取り付けられた数々の電球が光ると歓声が上がり、同時にそこに大勢の人が集まっている様子が照らし出される。セレモニーを盛り立てる音楽を演奏するマーチングバンドの面々がかぶるヘルメットにも電球が取り付けられていて、みな頭部がピカピカだ。そこにエジソン登場。群衆は叫ぶ。「エジソン万歳!」「新時代だ…」

 同じ頃、ハンガリー・ブダペストで女の子の双子が生まれた。名前はリリとドーラ。場面は続いて数年後のブダペストのクリスマスイブへと移る。雪が降り積もる中、広場で「マッチはいかが?」と道ゆく人に声をかける二人の少女––––リリとドーラ。「親のいない孤児なの」「マッチを買って」と言っても誰も相手にしてくれない。いつしか眠ってしまった二人のもとにどこからか一頭のロバが近づいてきた。それに気づいたリリとドーラはロバに乗って……しかしロバのくだりは夢の中の出来事。実際には二人の男がリリとドーラそれぞれを連れ去っていったのだった。

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© Hungarian National Film Fund- Film Archive/photo:István Jávor


 1900年の大晦日、つまり19世紀最後の日にドーラ(ドロタ・セグダ)はオリエント急行に乗車している。あまり品性を感じさせない出で立ちのドーラは詐欺師である。同日、オーストリアでは気の弱い革命家となったリリ(ドロタ・セグダ二役)が同志から伝書鳩を受け取って、オリエント急行に乗り込んだ。詐欺師たるドーラが男たちから金を巻き上げる行為は資本主義を象徴しており、一方のリリが成し遂げようとしているのは社会主義革命である。この対比は物語が進むにつれて見事に効いてくるのだが、ともあれリリとドーラは逆方面に向かう列車の中で新年を迎える。20世紀の幕開けだ。

 その後、二人はブダペストで男Z(オレーグ・ヤンコフスキー)に「それぞれ」出会うこととなる。Zはリリとドーラを一人の人物として認識しており、そのことが思いがけない誤解やすれ違いを生みながら物語は進んでゆくのだが、Zの思い込みによる、資本主義的詐欺師と社会主義革命家を一人の女性が担っている、つまり一人が二重性を有しているという事象は、作中の時代のハンガリーがオーストリア=ハンガリー二重帝国であったことを想起させる。「いわば父権的オーストリアに対してアジア的な古き母権性の面影をとどめる女の世界が、二重帝国における下位の部分をなすハンガリーの王国的特性であったといえようか」(種村季弘『ぺてん師列伝 あるいは制服の研究』所収「女闇公房の使者」)ということである。

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© Hungarian National Film Fund- Film Archive/photo:István Jávor


 作中のあちこちには、20世紀的なものと前時代的なものとが配され、この対比が実に面白い。ニコラ・テスラによる空中放電実験、『性と性格』で知られる哲学者、オットー・ヴァイニンガーの講演、シネマトグラフ、電報––––こうした新しい技術や考え方の一方で、伝書鳩やマッチ、犬ぞりなどが主にリリと紐づいたかたちで登場するのだ。そうした世紀の移行期間を背景にした本作は、作中のリリのセリフを借りれば「女性だって…好きに生きる」「男性優位主義者は滅びるの」「母親たちがコーヒーをいれる代わりに爆弾を作る時代が来る」というように、女性の新しい生き方像を提示しているともいえるだろう。とはいえ、この作品は『私の20世紀』以後の世界が必ずしも前時代の価値観を払拭してはいないことを知ったうえで制作されている。その意味では、映画の中で示された女性の自由さが現実の女性の扱われ方への問題提起となっているようにも思われるがいかがだろう。

「うつし世はゆめ 夜の夢こそまこと」的映像世界


 ところで、イルディコー・エニェディの名を日本に知らしめたのは『心と体と』(2017)であろう。2017年ベルリン国際映画祭金熊賞(最高賞)受賞、2018年のアカデミー賞では外国語映画賞ノミネートといった話題も大きかったが、孤独な男女を主人公に据えた不思議な味わいの恋愛作品としてじわじわと評判になっていった印象もある。この『心と体と』のヒットを受けてかどうかは定かでないが、先の『私の20世紀』は2019年に4Kレストア版が劇場公開の運びとなったのだった。

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© INFORG - M&M FILM


 ブダペスト郊外にある食肉処理場。マーリア(アレクサンドラ・ボルベーイ)は産休の社員の代理としてこの職場にやってきた。仕事は品質検査官だ。着任したその日の昼食時、社員食堂で財務部長のエンドレ(ゲーザ・モルチャーニ)に話しかけられるも、緊張のせいか堅くギクシャクした対応をしてしまうマーリア。彼女は人とのコミュニケーションが得意ではないのだ。ある日、皆が出社すると警察が捜査に来ていた。鍵をかけて薬品棚にしまっておいたはずの牛の「交尾薬」が何者かによって盗み出されたのだ。この盗難事件の解決と再発防止–––つまりは怪しいやつ捜し–––のため、二ヶ月後に予定されていたメンタルヘルス検診を繰り上げて実施することとなった。最近、様子が変わった者がいなかったかどうかを、メンタル面から探ろうという試みだ。

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© INFORG - M&M FILM

 このメンタルヘルス検診で、エンドレとマーリアが同じ夢を見ていたことが判明する。その夢とは森の中で雄鹿と牝鹿が出てくるもの。これをきっかけに二人は急接近、となれば話は早いのだが、何しろマーリアはコミュニケーション下手であるし、エンドレは年齢や過去の経験から本気の恋愛に対して及び腰なところがある。したがってなかなか思うようにことは運ばないのである。この思うようにいかないもどかしい感じは、まるで我々が夢の中で体験(?)するそれのよう。そのことを象徴するかのように、マーリアの服は柔らかなトーンでまとめられ、エンドレの着ているものも強い色合いがない。とりわけマーリアへのカメラのまなざしはどこか夢見心地なニュアンスが込められており、それは二人が夢で見る二頭の鹿と森の景色の凛としたムードとは対照的なのだ。江戸川乱歩ではないが「うつし世はゆめ 夜の夢こそまこと」といった風情である。


 これまで『私の20世紀』と『心と体と』それぞれについて簡単に触れてきたが、最後に両作品に共通する部分を述べておきたい。まず一つは動物の存在感だ。『私の20世紀』で重要な役割を果たすロバや伝書鳩、あるいは動物園を訪れたリリとZに「話しかける」チンパンジー、頭に電極を装着される犬。『心と体と』では雄鹿と牝鹿、そして牛。言葉を話さない動物たちは、作中、時として人間よりも雄弁に我々に語りかけてくるように思う(チンパンジーは実際に話すが)。それからさりげないユーモアも特筆すべきところだろう。どちらの作品にも、クスッと笑えるシーンがいい塩梅に配置されているので、そのあたりはぜひご覧になって確かめていただきたい。

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