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「多様性を絶対的正義」とするリスクについて

多様性の重要性が叫ばれている昨今。

偏見・バイアスにとらわれずに、すべての人を認めようという流れが起きている。

肌の色のような見た目から考え方の多様性、宗教に関してもそれぞれが信仰しているものを大切にしていこうというもの。

LGBTQ、性に関することも色々と言われてきている。

同性婚が住んでいる場所によって認められ始めたり、レインボープライドのパレードが行われたり、性的マイノリティが認められるということも世の中で起きている多様性の一種。

あらゆる分野がお互いに認める、自分の考えや存在を是とすることになることは、多くの人にとってとても進んだ考え方であるような気もする。

多様性は素晴らしいこと、それを認めることはとてもいいこと。

多くの分野で感じることもあるかもしれない。

しかしながら、全てに多様性をとしてしまうことのリスクというのも存在するのも忘れてはいけない。

それはどのようなことなのか。




全てに多様性を認めるという事のリスク、それは極端な場合であっても多様性を認めなければならないということ。

多様性こそが正義となることで、恐ろしい事態になることもあるかもしれない。

それは時には犯罪や迷惑になることすらも、多様性の中になることで認めるという事も言えるのかもしれない。

もしその人が現在の倫理環境において秩序に反することや、それを超える考え方をすることについても、多様性の一種として認めることになるのか。

ある考え方に反対するということで凶行に及ぶこと、これも多様な考え方の一つだから認めろということもあるかもしれない。

誹謗中傷やヘイトを行うことも、それは多様性の一種だから認めるということになるのか。

「この部分の多様性を絶対的に認めない」という考え方を認めるのも、多様性の一つになるかもしれない。

「思い込みこそ正義」みたいな形で、周囲が絶対に認めないようなひどいことでも、「多様性だから認めろ」と多様性を主張することがあったらどうするのか。

ここで書かれていない内容で、気が付かないで多様性を認めたがために誰かが不幸になっている事例もあるかもしれない。

もしかしたら気が付いていないだけで、多様性について行き過ぎと言われてる分野もあるのではないのだろうか。

それによって、色々とおかしなことになっているのではないのだろうか。




多様性を本当に認めること、それにはしっかりとした制限・制約が必要。

多様性、それは相手を尊重することではあっても、それが本人に直接・間接的にも危害を加えないこと。

考えの強要や物理的に問題となる接触にならないこと。

それこそがあるべき多様性の認められ方であるような気がする。

それらが気が付かないうちに何でもかんでも「多様性を認めろ」という正義の元に、おかしなことがどんどん進められている。

多様性こそ正義、それを認めないのは悪。

それが結果として行き過ぎた多様性による混乱した世の中につながっているような気がする。

何事についても、行き過ぎというものは考えもの。

それは本当に多様性としていいものは何なのか。

そのあたりをしっかりと考えないと、無限に無秩序に壁が解かされる多様性になっていく。

どこまでが認められて何が認められないのか、正義と振りかざされているものは果たして本当にいいものなのか。

まだまだ多様性というものについて、色々と考えるべきことが沢山あるような気がする。




ありがとうございました。

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