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日記は書かなくなりました。あと、命の値段の話。

前回の内容はこちら。


結城さん

返信ありがとうございます。めっちゃ素朴な気づきなのですが、手紙は返事をもらえると嬉しい、ということに気づきました。

何でしょうねこの感覚。LINEとかでは毎日腐るほどのメッセージをやり取りしているのに、返事が来てもそれほど嬉しくないです。しかし手紙は嬉しい。

恐らく、結城さんも先の手紙で指摘してらっしゃった「往復に時間を要するからこそ、推敲がなされる」という要素によるものなのでしょう。相手がかけてくれた時間がボンヤリ分かるのがポイントのようです。


さて、頂いた手紙のこちらの部分について回答します。


後世に伝記を書いてほしい人は、手紙や日記をまめに書いておくのが良いのでしょうね。

堀元君は、日記なぞつけているでしょうか。


これは間違いないことで、僕ないし結城さんが有名人になった時に、この往復書簡も人物像を探るのに大いに役に立ちそうです。

結城さんはあまりそういう欲望はなさそうですが、僕は有名になりたい欲望も伝記を書かれたい欲望もありますので、この往復書簡をはじめ、記録をたくさん書き散らかしております。起こされた訴訟について仔細にまとめたブログ記事みたいなものを書いたりもしております。


ところが、「公開するためでない、個人的な日記」についてはほとんど書けておりません。昔は書いていたんですけどね。

今Evernoteを見返したところ、2016年4月13日を最後に個人的な日記は一切書いておりません。最後の記録は「研究室から貸与されていたMacBookをそのままパクろうとしたらパクれず、卒業後に返却させられた。ケチ!」みたいな内容でした。

恐らく、自分用の日記はこんなロクでもない内容になりがちなので、書くのをやめたのではないでしょうか。人の目を最低限意識しないと、僕はダメなものを作り続けてしまうようです。

今後もある程度人の目を気にした文筆活動だけをしていこうと思います。この往復書簡も非常に良い感じです。引き続きどうぞよろしくお願いいたします。

あ、ちなみに結城さんは日記など何か書いているのでしょうか?学生時代のイメージだと全然記録をしていないような気がしますが……。



さて、そろそろこの往復書簡もギアを上げて理屈っぽい議論をしたいなと感じますので、僕の方からテーマを提出したいと思います。

テーマは、「命に値段をつけること-奴隷貿易の是非」についてです。

僕のいるあの村で、つい最近ひよこを飼い始めました。毎晩ピヨピヨ言っていて安眠を妨げてくるのですが、まあかわいいものです。

ところでこのひよこ、ホームセンターで予約して買ってきたんですけど、「オスが300円、メスが800円」でした。

オス、安いですよね

この会計をしているとき、命の価値は平等ではないな、とか、命も市場原理に則って処理されるんだな、とか色々考えてしまいました。

"Priceless"という英単語があります。「値段がつけられないほど貴重な」という意味です。

風潮として、命は”Priceless”なもののような気がしますが、ペットショップを見るとそうでもないような気がしてきて、不思議な感覚になります。

”ペットを売る”という行為が正当化されるのであれば、”奴隷を売る”という行為も正当化されていいのではないでしょうか。両者を隔てる本質的な差異とは何なのでしょうか。


僕は自由主義経済を信奉しておりまして、基本的には値段がつくものには好き勝手に値段をつけてよい、政府のような調整者が手をいれる(規制する)のは好ましくない、と考えております。

しかし、「奴隷貿易は規制されるべき」と今まで無意識に考えてしまっていました。自由主義者の僕は当然ここにも根拠を求めるべきなのですが、そういえば気にしたことがなかったです。

すぐに思いつく「人には人権があるから」という答えは、いかにも短絡的で説明責任を果たしていない、思考停止な答えなような気がします。

もう少し踏み込んで答えを求めると、「経済における主体である人間と、消費財として客体である奴隷を、明確かつ公平に峻別する基準が存在しないから」みたいな感じでしょうか。あまりしっくり来ません。


例えば、アフリカの貧しい家庭の親が、「子どもを売って一財産築こう」と考えて子どもを作り、それをどこかの大富豪に売り渡す……これ自体は批判されるべきことなのでしょうか。行動としてはヒヨコを売るのと大差ないように思います。


結城さんはこのテーマについて、どうお考えでしょう?


2018年4月21日(土) 堀元

久しぶりに帰ってきた久我山の自宅のベッドより

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