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[短編小説] サーカスティック・オートマタ

 何もかも上手くいかない。
 それは、あの麻耶まや総一郎そういちろうのせいだ。スクールカーストのリーダー格だったあいつが俺をイジメのターゲットにした。
 そうなれば付和雷同、俺はクラス全員から爪はじきさ。先生に訴えても両親に訴えても駄目だった。それでも必死に頑張ったんだ、でも最後は心が壊れて中学校に行けなくなってしまった。
 中学校は形だけ卒業という事にはなったが、高校になんか当然行けないし、家の外どころか部屋の外にだって出られやしない。それでもお袋にギャーギャー言われて働こうとはしたんだ。だけど、不景気だからって俺みたいのは門前払いさ。もうすっかりイヤになったよ。俺の人生、完全に詰みさ。
 それもこれもネオリベ政治家が幅を利かせるようになったからだ。あいつらは財務省と結託してこの国を縮小させようとしている。その為に、まず俺のような弱者から潰していこうという陰謀を着々と進めているのだ。
 そのお先棒を担いでいるのが、同じ市内に自宅と事務所を構える国会議員の麻耶虎郎とらおだ。集中と選択だの小さい政府だの借金返すだの耳障りだけは良いお為ごかしばかり並べて当選を重ねている。まあ、この辺りでは代々麻耶一族が仕切っているから公約だの演説だのはほとんど関係ないんだけどな。集票率のあまりの格差にまともな対抗馬も出てこない有様だ。けっ、腐ってやがら。
 だからその長男である総一郎が俺をイジめたとしても、誰も助けてなどくれなかった。あいつは父・虎郎の考え方を受け継ぎ、俺という弱者を潰して、強者どもの理想の世界を造る手助けをしたという訳だ。潰される側になりたくなければあいつらに尻尾を振るしかない。クソクラスメイトも、クソ教師も、クソ親も。
 こうして俺の人生の目的はたった一つに絞られた。すなわち、あいつを、麻耶虎郎を排除する。排除しなければならない! もう俺の人生は滅茶苦茶でお先真っ暗だ。しかし、だからこそ怖いものが無いのだ。失うものなど何ひとつありはしないのだから。
 人生の目的が設定されてからというもの、その達成に一番確実な方法をずっと考え続けてきた。そしてようやく結論が出た。それが爆弾を製造する事だった。
 幸い選挙が近いので、これから街中で演説を行う機会が増える。絶好のチャンスだ。そこに合わせて予め仕掛けておいた時限爆弾を炸裂させ、混乱に乗じて麻耶虎郎に突撃し、自爆する計画だ。愉快愉快、想像しただけで笑いが止まらない。
 それからというもの、俺は化学や電子工学の勉強に勤しんだ。そしてこれ以上無い完璧な爆弾の設計を成し遂げたのだ。
 設計ができたなら次は製造だ。何度かこっそり家を出て、ホームセンターに行って材料を買い集めた。俺的にはかなり頑張った。正直挙動不審だったと思う。怪しまれないよう途中から通販に変えた。なにしろここ数年お袋以外の人間と直接言葉を交わす事などなかったからな。親父とは会話にすらならない。互いに言ってる事が分からないレベルだ。
 そんな苦労のおかげでどうにか材料も集まり、苦心の末ついに爆薬の生成は完了した。またもこっそり家を抜け出して自転車を飛ばし、少し離れた小高い丘の森の中で実験をした。結果は思った以上だった。だがその時の爆発音で騒ぎが起こってしまったから、もうあそこで実験はできまい。
 まあいいさ。ひと気のない場所なんていくらもある。麻耶虎郎一派のせいで田舎はどんどん過疎化が進んでいるんだからな。
 今は起爆装置を作っているところだ。これが完成すればこっちのものさ。くくく、爆破の瞬間が楽しみでならないぜ。

 マー君がヒキコモリになってどれくらいになるだろう。中学生の時からだから……もう十年? いや十五年かしら。人生の半分以上をあの子供部屋で過ごしてきた事になる。そんな風になるような育て方をした覚えはないんだけど。
 学校には行けない、簡単なアルバイトもできないしで、すっかりいじけてしまった……。
 もう一生このままなのかしら? そんな事考えたくないけど考えざるを得ない。だって誰も助けてくれやしないんだから。
 一番助けになるべきたけしからして、まるで関わろうとしないんだからどうしようもない。まあ、あいつはそもそもまるで子育てに無関心な態度だったけど。私にもマー君にも向き合わず、仕事に逃げたのよ。
 それでいて、たまにマー君の顔を見たかと思えば罵詈雑言。会社では社長だってふんぞりかえっていても息子一人思うようにならないのが我慢できないのよね。マー君をかばえば私まで口汚く罵って手を上げる。
 お義父とうさまが早死にしたおかげで社長になれた癖に。お義父さまの代から支えてくれていた常務が実質的に会社を切り盛りしてるのには気付いているのかしら。
 おまけに外で愛人まで作って……あんな見え見えでバレてないとでも思ってるのかしら。それとも、もう隠す気もないのか。今日遅いのも、どうせ愛人のところに行ってるんでしょうね。
 あんな人だなんて結婚するまで分からなかったわ。それでも離婚しなかったのはマー君がいたからなのよ? それなのにマー君はマー君であんなになって……。
 はあ……溜息くらい出したっていいわよね。マー君は滅多に部屋から出てこないし、口を開けば「生まれなければ良かった、何で俺を生んだんだ、生きていたくない」、ご飯を持っていけば「不味い、こんなもの食えるか!」、トイレに行くところに鉢合わせたら大声で喚いて暴力を振るう。気に食わないと暴言や暴力を振るうのは剛譲りね。
 ……ああ、もういや! 何もかもいやになった! 本当に限界! もう我慢できない! もうずっと、何年もそう思ってきた。そしてようやく決心したの……そろそろ本当に終わりにしよう、って。
 マー君を楽にしてあげて、私も楽になる。剛への当てつけにもなって一石二鳥だわ。
 その為に今日はお酒を飲むのを我慢した。いつもなら泥酔するまで飲まなきゃ眠れないんだけど。でも、夜中に起きなくちゃならないから、今日は我慢。それにせめてあの世に行く時くらいは身ぎれいにしておいた方がいい気がする。
 包丁もしっかり研ぎ器で研いでおきましょう。マー君には出来るだけ苦しんでほしくないもの。

 恵子けいこにもまさるにもうんざりだ。あいつらの辛気臭い顔を見ていると運気が逃げる。それでも叩き出さず、衣食住に不自由させてこなかったんだから感謝されてしかるべきだろう?
 それが何だ、勝がヒキコモリになったのは私のせいだと言わんばかりに恵子は愚痴ばかり。大体恵子はいつまで勝の事を『マー君』と呼び続けるつもりだ? もう子供じゃないんだぞ。まあ知能は子供並みだがな、勝は。馬鹿過ぎて論外だ。会話が成立しない。
 だがな、今夜綺麗さっぱり全て片付けてやるんだ。もう真っ平だ。
 いかにも事故死に見せかけて、悲劇の夫、悲劇の父親をちょいと演じてしばらく大人しくしていれば、何の気兼ねもなくミホと逢引できるというものさ。何ならミホの住むマンションの近くに越してきてもいい。あんな都心から離れたニュータウンにまでわざわざ帰ってなどいられん。恵子がうるさいから一軒家を買わざるを得なかっただけなんだから。思い返せばあの頃はまだ家族の体裁を整える気はあったんだろうな。今となっては信じられん。
 ただ、あの家に引越したのも良いところはあった。それは麻耶先生の地元だという事だ。地縁を元に麻耶先生に取り入って、何やかんや色々計らってもらったおかげで事業を拡大できた。勝の馬鹿が総一郎坊ちゃんにイジめられたのを波風立たぬよう見過ごしたかいがあったというものだ。もともと勝は馬鹿で意気地なしだったが、奮起どころかヒキコモリになるとは、まったく救い難い。あんな弱者に我が社を継がせる訳にはいかん。
 まあそんな事はもうどうでもいいさ。何もかも今晩けりがつくんだからな。何度も頭の中でリハーサルしてきたからしくじる事はあるまい。
 まず、一旦ガスの元栓を止める。次に、今上着のポケットに忍ばせている、この部品を台所のガスコンロのそれと交換する。自然に故障したように見せかけてあるが、実際には注意深く破損させたものだ。その上でガスの元栓を開ければゆっくりとガス漏れを起こす。都市ガスは空気よりも軽い。恵子と勝の寝室のある二階へガスは流れていく。私の寝室は一階だから、私は安全だ。でも念のためベッドではなく床に寝る事にしよう。
 一晩経てばガス中毒死体が二つ出来上がりだ。

 あら、剛オジサマからメッセージが届いてるわ。

今夜決行
楽しみに待っててくれ

 ふふっ、オジサマ、ついに決意した。
 あなたって罪な女ね、ミホ。
 この美貌と肉体、そして性技に参らない男なんてまずいない。ことに奥サマとロクなセックスしてこなかったオジサマなんかイチコロ。
 もちろんその為に整形して、エステとジムに通ってるんだから当然の事だけど。つまり努力と投資の賜物よ。ワタシはただそれに見合ったリターンを得てるんだけ。
 でも、そろそろ最後の刈り取りと行かせてもらうわ、たけしオジサマ。
 ガス漏れに見せかけて妻と息子を殺す計画、全部自分で考えたつもりになってるけど、実際は私が誘導していったのにまるで気付いてないなんて、滑稽よね。あれで大会社の社長っていうんだから、笑いが止まらない。いいトシしてホントに色ボケなんだから。今までで一番トントン拍子に上手くいったかも。
 ま、お利口さんほど操りやすいものなんだけど――軽くてバカだから神輿に乗せられてるのにも気付かない。チョロいモンよ。
 挙句自分で自分に生命保険をかけて、受取人を私にするのも何の疑問も抱かずやってのけるんだからさ。その調子で安らかに天国に行ってちょうだいね。
 そういえばあいつで何人目かしら。まあ何人目でもいいけど、そろそろ潮時ね。保険会社も怪しんでるだろうし。
 もう十分蓄えたから、南の島ででもノンビリ暮らそうかしらねえ。
 でも、この商売も刺激的で好きなのよね。何より最後に保険金がどっさり手元に入ってくる瞬間がたまらない。
 南の島ではきっと味わえないわ。残念ね。

 おや、父さんが帰ってきたようだぞ。随分荒れているようだ――また孝次郎がやらかしたかな。
 まったくいい加減にしてもらいたいね。あいつは何をしても火に油を注ぐばっかりなんだ。結局僕がなだめなければならない。
 父さんも歳をとるに従って、より一層頑固になってきてるからなあ。まったく、長男はつらいよ。
 孝次郎はもうちょっと空気を読めるようになってほしいね。でも末っ子気質だからな。いつまでもあんな調子では政界で生きていけないぞ。でもあいつ、地盤を継ぐのは長男――つまり僕なんだから、次男坊の自分は一生秘書のままで良いとでも思っているのだろう。向上心のない奴め。
 おっと、一応この後のスケジュールを確認しておくか。……ふむ、料亭『小梅』で会食、と。相手は芽庫裡めぐりコーポレーションの畔原くろはら常務か。あの怪しげな関西弁を喋る爺サンだな。先代の頃からずっと勤め続けてるとか言ってたっけ。
 て事はまた『山吹色』だな、あそこも必死だね。表向きの会食の後は、いつもの通り『遠回り』して『ドミノス』。
 ……あれ? そういえば、『芽庫裡』ってずっと前にどっかで聞いた気がするな。小学生か中学生の時くらいにそんなやつがいたような気がするが……思い出せない。
 まあ記憶に残らない程度の事なら大した事はないんだろう。
 そんな事より、父さんの話を聞きに行く頃合いを見定めないとな。余計なとばっちりは御免だ。

 ぼんが社長になって良かった事いうたら、それはやっぱり麻耶センセとコネクションができた事やな。おかげで大きな仕事がちょくちょく回ってきて金回りは随分良うなった。
 その分『山吹色』の出費があるけど、それは全体の利益からすれば微々たるモンや。大きな視点を持って経営せなあかん、先代はよくそう言うてたもんやけど、まったくその通りや。
 しかし坊……いや、社長は自分じゃ切れ者や思うとるけど、汚れ仕事をするワシみたいな古参がおらんかったら立ち行かなくなるちう事が分かっとるんかな。最近じゃ何もかも自分の手柄みたいな顔しとるもんな。まあワシも先代からの恩もあるし、ぶっちゃけ自分もオイシイからえんやけどな。
 今日の麻耶センセとの会食の後は『遠回り』して『ドミノス』やろうか。上手い料理食うてオネエチャンとしゃべくるのもええけど、ワシもトシのせいか、いい加減ちょっともたれる感じはあるなあ。でもようやくアポ取れたしな、踏ん張りどころや。急な話で社長には事後報告になってまうけど、いつもの事やしな。
 今日はどっちの坊ちゃんを連れてくるのやろか。他人のワシから見ても孝次郎坊ちゃんより総一郎坊ちゃんの方がしっかりしとるよな。でも『出来の悪い子ほど可愛い』って事もあるしな。
 坊ちゃんもさる事ながら飼い犬 ――ペコちゃんいうたかな―― もえらい可愛がっとるよなあ、センセ。下手すると坊ちゃん達より愛情深いで。ペコちゃんの話振ったら、そりゃあ目ェ細めて嬉しそうに話するもんな。お陰で話題とおべんちゃらには困らんでええ。
 そういえばペコちゃんは何て犬やいうてたかな。ワシ、ワンちゃんの種類はよう分からんねん。小っさくて毛ェが短うて、エエとこの嫁はんが連れてそうなやつ――ああ、チワワの何たら言うてたな。

 ペコはどこに行ったんだ。ペコを膝に乗せて撫でてやればこのイライラも多少収まるだろうに。
 ああ、イライラが止まらない。孝次郎ときたら、いつまであんななんだ。大学の入学も卒業も面倒を見させて、その上女癖 ――正しくはストーカー癖か―― まであるときた。どれだけ揉み消してきたと思ってるんだ!
 まともに就職活動もできないから、仕方なく呼び戻して秘書にしたんだぞ、あいつその立場を分かっているのか?
 だいたい今日の運転は何だ。さんざん路肩すれすれの所は走るなと言ってるのに平気で路肩に寄っていくんだから。挙句の果てに釘か何か踏んでタイヤをパンクさせるなんて! 家の近くだったから無理矢理走らせて帰って来れたからいいようなものの、もっと遠くだったらどうするつもりだ。予定があるんだぞ! 私は忙しいんだ!
 ……はあ、どれだけ言っても孝次郎には馬耳東風だがな。親の心子知らずとはこの事だ。
 ただ、今日は『小梅』の後に『ドミノス』へ行くからな、せめてママに癒してもらおうか。もちろん『山吹色』にも癒し効果が相当あるけどな。
 それに、帰ってくればペコもいる。あいつは本当に無邪気でかわいいよ。

 パパはいーつもボクをかわいがってくれる。ボクのかおを見れば「ペコや、ペコや」ってよってきて、だっこして、なでてくれる。
 それにくらべて、コージローはいっつもパパにガミガミ言われてるよな。
 コージローのやつ、ほんとに気にくわない。ボクより後にパパのむれに入ったくせに、パパとよくいっしょに出かけるんだから。ボクだってパパとおさんぽに行きたいのにさ。
 そうやってすぐちょうしにのるから、むれの中で一ばん下だってことを分からせてやらなくちゃならない。だから、ほえたり、かみついてやったりするのさ。
 あいつ、ちょっとほえただけですぐビビるんだ。それに弱虫でぜーんぜんやりかえしてこない。だから、ついおもしろくて何回もほえちゃう。
 ……おや、コージローのやつ、『ブーブーのへや』に入ってったぞ。どれ、また分からせてやるか。
 きょうは一日中おとなしくしてたからすーごく元気なんだ。いつもよりいーぱいコージローをかんでやるぞ。

 参ったなあ、今からタイヤを交換しろだなんて。あんなにガミガミ言う事ないのに。挙句兄さんと比べられちゃ堪らないよなあ。
 そりゃあ確かに兄さんは優秀だし、第一秘書だし、父さんの地盤を継ぐのは間違いなく兄さんだろう。それは認めざるを得ない。でもあまりに兄弟で依怙贔屓をしすぎじゃないか? 俺も一応秘書という事にはなってるけど、基本運転手兼雑用係だもんな。雲泥の差だよ。
 ただ兄さんは兄さんでなかなかに性格悪いところもあるんだよなあ。中学の時なんか、同じクラスの誰だかをさんざんイジめて不登校にしてやったなんて自慢気に話してた事もある。それはさすがに引いた。だけど外面はいいんだよな。そこは父さん譲りだ。
 あれ? タイヤの交換ってまずどうするんだっけ。自動車学校の授業で一回習ったきりだもん、忘れちゃったよ。ジャッキの使い方から思い出さないと。
 夜だから業者を呼びつける事もできやしない。でも今日はこの後出掛けなきゃならないっていうんだからなあ。急過ぎるよ。俺だって予定があるんだからさあ。でもそれを言うとまた小言が始まるからなあ。
 なにしろ今夜の用事は父さんの大好きな『山吹色』だからね。
 タイヤって重たいなあ。でも慎重にやらないと。車体にキズでも付けたらまた怒られる。自慢の高級車だもんな。
 でも、多少きつい仕事を押し付けられたって、乗り越えられるんだ。心に決めた女がいるんだからね。彼女の事を思い出せば元気が出るんだ。
 名前は栂谷とがやミホ。
 ああ、ミホ、ミホ、ミホ。名前を呼ぶだけでワクワクしてくる。
 出会いはまだ俺が大学生の頃だったか。父さんのお供で行った高級クラブ『ドミノス』のホステスだった。顔もスタイルも抜群で、もう一目惚れさ。
 暇を見ては『ドミノス』を張り込んで、ようやく出て来たミホの後をつけて家を見付けたのさ。結構立派なマンションだった。
 だが、同時にミホに虫が付いている事も分かった。目下のところそれが悩みだ。結構年配のエロそうなオヤジなんだ。多分不倫だな。あのオヤジをどうにかせねば。俺が一番ミホの事を愛しているんだからな。
 そうしてるうちにミホは『ドミノス』を辞めてしまった。だから今日は料亭の後『ドミノス』に行くけど全然楽しみじゃない。
 きっとあのエロオヤジと愛人契約を結んだのだろう。つまりあのエロオヤジ、ミホを抱き放題って事だ……くそ、あんな奴に!
 ううう、こうしちゃいられない。父さんの用事が終わったら、すぐにミホのところに行こう。

*  *  *

 ガレージを覗き込んだペコは、孝次郎がこちらに背を向けて何かしているのを見咎めほくそ笑んだ。
 犬がほくそ笑む事などあろうか。しかし、ペコは本気で自分を人間と同類と見なしていたのだ。ならばほくそ笑む事も可能だろう。
 ペコはそっと孝次郎の背中に近づき、でき得る限りの音量で「ワン!」と一声鳴いた。
「ひゃあっ!」
 孝次郎はビクリと体を強張らせて、尻もちをつき、手にしたレンチを取り落とした。甲高い金属音がガレージに響く。
 振り向くとペコが立っていた。それを待っていたかのように、ペコは一瞬で孝次郎に跳びかかると、その脚に喰らいついたのだった。
「痛い、痛いよ! やめろ、ペコ!」
 床に転がるようにして、孝次郎は何とかペコを引き剥がそうとした。しかし今日のペコは頑なに噛み付いて離さない。
「やめろ」「グルルッ」「痛い」「バウッワウッ」「離せ」「ガフガフ」
 あまりの執拗さに、孝次郎の心中にかつてないほど強烈な怒りが湧き上がり、思わず叫んだ。
このバカ犬がーッ!
 その勢いのままに力いっぱい脚を振り回すと、さすがのペコも顎の力が及ばず、床に転げ落ちた。
 思いがけず格下に反撃されたペコは怒り心頭に発し、再び噛み付こうと唸り声を上げながら孝次郎に向かっていく。しかし一方の孝次郎もまた、怒髪が天を衝き、その脳髄は抑えられない憤りに支配されていたのだ。孝次郎はためらう事なく一気に足を振り抜いた。
 ペコの小さな体に爪先がめり込み、この上ないほどの勢いでペコはガレージの壁に叩きつけられた。これまで経験した事のない激痛に、ペコはたちまち意気消沈し、ふらふらと力なくガレージを出て行った。
 孝次郎は半ば夢を見ているようだった。しかしそれも短時間で、次第に頭がはっきりしてくるに従い、妙に自信が湧いてきた。
 ――俺だってやればできるじゃないか。ならばよし、決めたぞ。今宵、ミホを俺のものとする!
 孝次郎はガレージを飛び出した。

 虎郎とらおがガレージに姿を現したのはそれからしばらくしての事だった。
「孝次郎、交換は終わったのか!」いつもの通り威圧的な声で呼びかける。しかしガレージには誰も居なかった。
 見れば一応タイヤ交換は為されたようだが、自動車はジャッキアップされたままで、工具が床に散らばっている。
「何だ、あいつは! だらしない!」
 そこに現れたのは虎郎の長男、総一郎だった。幼少時から総一郎は空気を読む事に長け、いつも絶妙のタイミングで姿を現すのである。
「どうしたんです、お父さん?」
「おお、総一郎。いい所に来た。すまんが紅沢町の『小梅』までクルマをやってくれないか? 孝次郎にタイヤ交換をさせてたんだが、姿が見えないんだ。言われた事ひとつきちんとできないんだからな、まったく」
 溜息交じりにこぼす父親をなだめながら、総一郎はジャッキを降ろし、散らかった工具を手際よく片付けた。
「今日の会食は芽庫裡コーポレーションの畔原くろはら常務ですよね。来年度の大規模プロジェクトの件でしょうか」
「うむ、そうだ。会食が済んだら『ドミノス』に連れていく。道は分かるな。『遠回り』だ」
「分かりました」全てを心得ている総一郎はすまし顔で後部ドアを開ける。
 虎郎は慣れた様子で車内に滑り込んだ。柔らかなシートに腰を下ろすと同時にドアが閉められ、すぐに長男は運転席へ着く。
「では行きましょう、麻耶先生」
 二人を乗せた高級車は夜の街に溶けていった。

 時計を見て頃合いと判断し、ミホは黒いジーンズに黒のブルゾンといった出で立ちで玄関に向かった。普段はパンプスやハイヒールだが今日はスニーカーを履いた。スニーカーは趣味じゃないが今夜ばかりは動きやすい恰好をしなければならない。
 玄関の隅に用意してあった小ぶりのトートバッグを手に取りそのままマンションを出た。
「うん? あれはミホか? どこへ行くんだろう。今日は休みの筈だが」
 ミホのマンションに張り込んでいた孝次郎は、マンションから出てきた彼女を目の当たりにして思わず呟いた。いつもよりも随分地味な恰好をしているので見違えてしまうところだった。
 もちろん休みだからって夜に外出する事だってあるだろう。コンビニに買い物に出るとか、友人に誘われたとか。……それとも男のところへ行くとかか? もしやあの虫……エロオヤジのところだろうか……くうう、気が狂いそうだ。あんなオヤジがミホのあの身体をまさぐり舐め回しているだなんて絶対に許せない。必ず奴を除去し、俺がミホのエロスを思いのままとする側となるのだ!
 孝次郎はミホの後をけて歩き出した。幸いミホは一心に歩き続け周囲に気を配る様子もなく、尾行は容易だった。
 ミホは電車に乗り、とある駅で降りてさらに歩き始めた。その道はニュータウンに繋がっている。

 もうすっかり夜は更け、ニュータウンに立ち並ぶ家々は一様に静まり返っていた。
 自宅に帰ってきた剛はひっそりとした玄関の前で一旦足を止め、家の様子を観察した。
 居間や台所の電気は消えている。また、二階の寝室の電気も消えているようだ。恵子は寝ているな。どうせ深酒してほとんど気絶するように寝てるんだろう、あのキッチンドランカーめ。
 恵子の寝室の向かいにある勝の部屋は……カーテンの隙間から灯りが漏れている。勝はまだ起きているようだな。何をやってるんだか。どうせ変なアニメとかゲームとかだろうが。あんな奴が自分の息子だなんて、虫酸が走るようだ。
 まあどうせヒキコモリなのだ、部屋から出て来る事もないだろう。気付かぬうちに音も無く充満したガスによってあの世に行く事になる。アニメだかゲームだかの最中に死ねるなら勝も本望だろ。
 剛は静かにドアの鍵を開けると、音を立てぬように靴を脱ぎ、忍び足で台所に入り、ガスの元栓を締める。
 見ればガスコンロはまるで新品に見えるほど掃除が行き届いていた。恵子の手によるものだ。潔癖過ぎるんだよ、あいつは。息苦しくてかなわん。こんなだから勝がひ弱に育ったんだ。……まあ今回ばかりは手が汚れなくてありがたいがね。
 作業し易い位置までガスコンロをずらすと、上着の右ポケットから取り出したドライバーでネジをゆるめて蓋を開け、部品の一つを取り外し、左ポケットに入っていた同型の部品と交換した。あとはまた元通りに蓋を戻せば一丁上がりだ。
 ハンカチで口と鼻を抑えながらガス栓を捻る。シューというごく小さな音 ――ガスの漏れる音―― が聞こえた。よほど注意して聞かねば分からぬほどの小さな音だ。しかし剛にはそれが人生の新たなる楽章に響くファンファーレに聞こえた。

 剛が台所の電燈を消し自分の寝室に引っ込んで堅い床に寝転がった頃、ミホが芽庫裡家に到着した。
 まずはそれとなく近所の様子を探り、周囲にひと気の無いのを確認すると、ミホはおもむろに門扉を開けて滑り込み、庭に侵入した。家の造りや間取りは把握している。剛からうまく聞き出したのだ。もちろん一階の寝室の位置も。
 ちょうどその寝室らしき窓の灯りが消えた。寝入るまでもう少し待つ事にして、ミホは家の壁にぴったりと寄り添った。家の周りにはコンクリート塀が巡らせてあり人目には付かない。
 ミホの手には、この家の合鍵が握られている。剛からこっそり盗み出して作った合鍵だ。寝静まった頃にこの合鍵で侵入し、トートバッグに忍ばせたホースをガス漏れしているコンロに取り付け、寝室のドアの隙間にガスを導く計画だった。
 床に寝ている剛にガスが吹き付けられればひとたまりも無い。早朝にホースを回収すれば、ガス漏れによる一家全滅の悲劇の出来上がりという寸法だ。
 いつしか、ミホの顔にこの世で最も邪悪な笑みが浮かんでいた。

 尾行していた孝次郎は、ミホがニュータウンのとある一軒家に侵入するのを目前にして面食らった。どう見ても犯罪行為だ。
 様子を見ようと、塀の上端に手をかけて懸垂のように身体を持ち上げる。が、体が重たくて顔を出すのがやっとだった。頑張って覗き込んだが、庭は真っ暗でミホの姿は確認できない。
 もどかしかったが、運動不足で全身がたるみ、体力は落ちる一方だ。
 しかし、兄のように足繁くジムに通う気にはなれなかった。本人の怠惰もあるが、兄の後追いに思えてプライドが許さないのだった。

 料亭『小梅』での会食は、業界の動向や景況感といった当たり障りのない会話に終始した。料理も話題も出尽くしたところで麻耶まやが腰を上げた。
畔原くろはらさん、次は『ドミノス』へ行きましょう。もちろん割り勘ですよ。ははは」
「おっ、ええですなあ。お付き合いしましょ」
 二人揃って料亭を出ると、玄関先に麻耶の高級車が待ち受けていた。麻耶と畔原に気付いた総一朗が後部座席のドアを開ける。
「総一郎さんは、いつも立派な仕事ぶりですねえ。これなら麻耶家も安泰ですなあ」畔原の言葉に虎郎は相好を崩した。
「いやいや、まだまだですよ、ははは」
 見え見えの世辞だが、まんざらでもなさそうだな。総一郎は父親を分析しながらアクセルを踏む。
 しばらく走ったところで、おもむろに畔原が内ポケットから分厚い封筒を取り出した。
「では、今度の件はこれで……」
 すると、虎郎はわざとらしく答える。
「おや、何ですかこれは? 困りますなあ」
「先生だけが頼りですから、ここはひとつ……」
「おやおや」「是非是非」「いやいや」「何卒」「……うーん、仕方ありませんなあ」
 虎郎はしぶしぶといったていで封筒を受け取ると、厚みから値段を概算しつつ、上着の内ポケットに納める。
 運転席の総一郎は含み笑いを浮かべながらそのやりとりを聞いていた。地盤を引き継いだら俺もこの茶番を演じねばならないのだな……まだしばらく先の事だろうが。
 『山吹色』の受け渡しが終わると、後部座席の二人は雑談を始めた。畔原はよく喋る男だ。話題が途切れたところで、ふと畔原が窓の外を見た。
「おや、ニュータウンを走っとるんでっか?」
「そうですよ。どうかしましたか?」総一郎が快活に応じる。
「いやあ、うちの社長――芽庫裡の自宅がちょうどここいらですねん。ははは」

 ピピピピピ……。
 枕元に置いたスマートフォンのアラームが鳴った。寝室は真っ暗で、カーテンの隙間から街路灯の光が青白く射している。いつもなら決して起きない時間だ。
 恵子はアラームを止めた後、しばらくボンヤリと天井を見上げた。頭がはっきりしてくるに従ってこれからやるべき事が思い出された。こんな生活に終止符を打ち、勝といっしょに天国に行くのだ。
 そっとベッドから下りる。幸い照明を点けずとも外から入る光で活動は可能だ。ベッド脇の戸棚を開けると、中にはタオルに包まれた包丁が納められていた。
 あらかじめ丹念に研いでおいた。これなら一振りで咽喉笛のどぶえけい動脈も一刀両断できるだろう。最初に勝、次に自分のそれをだ。
 恵子は軽く肯くと、包丁を手にしたまま、そっと寝室のドアを開けた。
 人は、人を殺す時、頭に霧がかかったようにボンヤリとなって何もかもが現実ではないかのように思えるという――そんな話を何かで目にした事を恵子は思い出した。今まさに自分も頭がボンヤリとしている。
 ああ、私は今、本気でマー君を殺そうとしているのだ。だからボンヤリするのだ。
 血まみれで倒れる自分と勝を発見したとき夫はどうするかを想像した。まず真っ先に、迷惑そうに舌打ちする様が目に見えるようだった。恵子は一瞬だけ口元を緩めた。
 一方、その向かいの部屋では、起爆装置開発がいよいよクライマックスを迎えていた。ついに回路が完成したのだ。次は動作確認だ。
 装置に起爆剤として少量の爆薬を設置した。これが小さな爆発を起こす。本番ではその爆発が周囲の爆薬を炸裂させ、より大きな爆発を引き起こす仕掛けとする。
 本来ならどこかひと気のない場所で実験するところだが、大して大きな音はしないはずだし、翌日まで待ちきれないのでこの場でやってみる事にしたのだった。
 準備が済むと、ふうと息を吐き、努めて平常心を保ちながら自作のリモコンの起爆ボタンをゆっくり押した。――が、何も起きない。
「くそっ、何でだよ!」思わず天を仰いだ。
 気を取り直し、失敗の原因を特定するため基板に並べられた部品と配線を一つずつチェックする。
「なんだ、配線を間違えてるじゃないか。弘法にも筆のあやまりってね、へへっ」
 そんな勝の背後でゆっくりと、かつ静かに部屋のドアが開いていった。
「どうも頭がボンヤリするなあ。ここのところ、寝ずにかかりきりだからかな……」
 ぶつぶつ独り言を言いながら作業を終え、改めて動作確認をしようと起爆ボタンに手をかけた。その時――。

 ふいに天井の蛍光灯の明かりが陰った。
 勝が振り向くと、そこに鬼のような形相の母親――恵子が包丁を振りかぶっていた。

 あっと言う間もなく包丁が振り下ろされた。恵子の肩を中心に円弧を描くように放たれた包丁の刃は、床に対しておよそ三十度の角度で勝の首筋の左後ろから入り首の中央を通って咽喉の中央やや右よりの部位へ抜け、左の頚動脈と気道、食道を切断した。一瞬のうちに、まるで穴を開けたスプレー缶のように真っ赤な血液が噴出する。それと同時に痙攣した勝の手によって起爆ボタンが押下された。
 装置は完全に勝の思惑通りに動作し、起爆剤を爆発させ、次の瞬間二階全体が爆炎に包まれた――充満していたガスに引火したのだ。
 爆炎は勝が製造して自室に隠していた大量の爆薬にまで及び、たちまち誘爆を引き起こした。それが最初のガス爆発とあいまって凄まじい威力の大爆発へと発展した。
 家は、勝と恵子はもちろんのこと、一階の寝室で寝ていた剛、外壁に張り付いていたミホ、ブロック塀に登っていた孝次郎もろとも跡形もなく吹き飛び、あまつさえ周囲の住宅の窓ガラスを割り、瓦を飛ばし、壁を崩した。

「いやあ、うちの社長――芽庫裡の自宅がちょうどここいらですねん。ははは」
 そうなんですか、総一郎はそう返事を返そうとした。しかし言う事ができなかった。
 突然目の前の住宅が大爆発を起こしたからだ。
 総一郎は咄嗟に急ハンドルを切った。その途端、締め込み不足のホイールナットが外れ、ホイールごとタイヤが脱落した。
 コントロールを失った自動車は、スピンしながら対向車線にはみ出した。そのまま成す術なく歩道のガードレールに突っ込むと、衝撃で横倒しとなり、さらに数回地面を跳ね転がった末に屋根を下にしてようやく止まった。
 数秒間の静寂の後、エンジンルームから火の手が上がり、紅蓮の炎がたちまち車体を包み込む。
 業火に照らされた黒煙がもうもうと夜空に立ち昇った。

 ペコは麻耶邸の隅の暗がりにひっそりとうずくまっていた。
 存分に孝次郎を噛むことが出来て満悦は得られたが、それと引き換えに肋骨の多くと背骨が砕かれ、内臓が損傷し、激痛にさいなまれて身動きひとつままならない。

 暗がりからクウンと一つ鳴き声が上がった。
 それきり静まり返った。

<了>

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