[短編小説]太廟・メガリス・八重干瀬
宮古島の北方の沖合いに大潮の時だけ姿を現す巨大な珊瑚礁がある。
「八重干瀬」という名だが、その稀覯と巨大さゆえ「幻の大陸」などと呼ぶ人も居る。
八重干瀬の存在を知って以来何時かは行ってみたいものだと常々考えていたが、色々な偶然が重なり沖縄に行く機会を得たので宮古島まで足を伸ばしてみることにしたのだ。
残念ながら当日は大潮ではない。八重干瀬は姿を現せば上陸する事も出来るのだが、今回それは諦めざるを得ない。それでもその海域まで行って水面下の八重干瀬を見ることが出来るというので行く価値は少なからずある。
水面下と言ってもそれほど深い訳でなく、船から海に飛び込んでスキューバダイビングやスキンダイビングで珊瑚と海を楽しむ人も多いらしい。生憎私は金槌なのでそういったことをするつもりは無いが、晴れていれば澄んだ海を通して珊瑚礁の様子を見られるらしいので天気が良くなる事を祈りながら沖縄へ赴いたのだ。
* * *
那覇空港に着くと、そこはもう全く南国そのものといった風情だった。雑誌やテレビ、映画などで見知った場所ではあるものの、現地の空気感というものはメディアからは伝わらぬものだ。
空港の到着口を出るとおもむろにアロハシャツに短パン姿の如何にも南国のイメージ通りの男性が近づいてきて私に声をかけた。
「久しぶりだね、兄さん。ようこそ沖縄へ」
私の弟だった。今回の旅は弟の家に泊まらせてもらう。有難い事にわざわざ迎えに来てくれた。
二人で空港を出て駐車場に停めてあった自動車に乗り込んだ。向かう先は那覇市の郊外にある彼の家だ。
数年前、弟は夫婦で沖縄に移住した。
弟は劇団を率いて日本全国を旅回りしていたのだが、最近では日本を飛び出して海外、特にアジア圏内の各国でも上演するようになった。
基本的にはアングラというか前衛的なものばかりで正直私には良く分からない部分もある。が、海外では評判が良いらしい。
移住したのも台湾や中国、東南アジア諸国へ行きやすいからだという。
弟は空港から家までの道中、彼の妻やその実家の話、劇団の話、前回の海外公演の土産話などを滔々と聞かせてくれた。弟は私と違って話好きだという事もあるが、退屈しないようにと気を使ってくれたのかもしれない。
一時間ほどで目的地たる弟夫婦の家だ。到着に気付いた弟の妻が玄関まで出てきて温かく迎えてくれた。
古い民家を夫婦自らの手で改装したものだが、こざっぱりとして感じが良い。
弟の妻は、気取らず気さくな人柄で大変気持ちの良い女性だ。
彼女は弟の劇団が初めて海外で公演を行ったときに知り合った現地の女性で、長く劇団の公演を手伝ってもらったりなどしているうちにいつの間にやら惹かれあい結婚を決めたという。
そう滅多に訪れることはできないので彼女と会ったのは数えるほどだが、会う度に日本語が上手くなっているし日本の風習にも馴染んでいっているのがよく分かる。実に聡明な女性だ。このような女性と結婚できた弟はなかなかの果報者と言える。
そんな弟の妻による様々なアジア圏の要素が混ざり合った創作料理を肴に泡盛やビールを飲みながら三人で談笑するうち気付けばすっかり夜が更けていた。
明日は朝一番の飛行機で宮古島まで行く予定だ。
あまり遅くならないうちに床に着いた。
翌朝は窓から差し込む朝日で目が覚めた。時計を見ると起きる予定の時刻より幾分早い。
いつもならあと少しでも寝ていたいと二度寝するところだが、今日は八重干瀬に行けるとあって寝てなどいられない。手早く着替えて荷物 ――と言っても標準サイズのリュックサックひとつだが―― を整理した。
今回の宮古島への旅は弟も一緒だ。ちょうど当日は劇団の稽古も休みな上今書いている脚本のアイデアと刺激を得たいので一緒に行っても良いだろうか?と弟が申し出たのだ。私には異論あろう筈も無い。
弟も私も宮古島は初めだが、それでも一人より二人の方が心強いのは間違いない。
朝一番の便の時間の那覇空港はやや閑散とした感じだったが、さほど大きくもない宮古空港行きのプロペラ旅客機は満席であった。着席してシートベルトを締めるといささか狭く感じたが一時間ほどなので大した事はない。
エンジン音と共にプロペラが回転し始めたのが窓から見えた。滑走路がゆっくり後ろに流れて行き、少し止まり、今度はスピードを上げてまた後に流れた。気付けばもう空の上に居た。
窓から水平線を挟んだ青い海原と青い空、ぽかりと浮かぶ雲を見ながら八重干瀬を ――水面下にある珊瑚礁を想像した。透明な海水を、波に揺れる陽光の反射を想像した。
やがて我々の乗った飛行機は宮古空港に到着した。宮古空港に降り立つと、那覇よりも少し蒸し暑い気がした。
* * *
その小さなチャーター船は「栄丸」という名だった。八重干瀬観光の他、釣り船としても使われるという。
船長 ――と言っても乗組員は彼一人なのだが―― は高年の男性で如何にも海の男然とした日焼けした肌が目を引いた。いささかのんびりした感じでざっくばらんな話し方をするものの気の良い人物のようだったので彼に頼むことにした。
今回はおよそ半日のチャーターで、往復の時間を除くと八重干瀬の海域に1時間ほど留まるプランを選択した。
私が箱メガネで海中を覗いていたいと言うと、船長はよしきたとばかりに店の戸棚から大きな箱メガネを取り出してきてくれた。私の持ってきたプラスチックの安物とは全然違う。これならしっかりと珊瑚礁を楽しめそうだ。
港を出て40分ほどで八重干瀬の海域に到着した。箱メガネを使わなくとも澄んだ海水を透かしてゆらゆらと珊瑚礁が見えた。ならば箱メガネを使えばもっと良く見えるはずだ。
船長に借りた箱メガネを海に突っ込み、顔を押し当てて覗き込むと想像以上の眺めだった。青く染まった世界に様々な形の珊瑚と、その間を泳ぎ回っている極彩色の魚たち――。
船長はその海域を極めてゆっくりと航行してくれた。おかげで様々な珊瑚をじっくりと見物する事が出来た。
私が珊瑚礁に夢中になっている間、弟は釣り糸を垂らしていた。釣れたのはほんの数尾程度だがその乏しい釣果の中から船長が選んだ魚をその場でマキリを使って刺身にしてくれた。実に美味であった。
帰港の時間が来るのはあっという間だった。私は自分でも驚くほど珊瑚に強い愛着を持っているのに気付き、同時に何だか帰るのがとても惜しい気持ちになっていた。
するとそれを見透かしたか、船長が提案をしてきた。
「あんた、随分珊瑚が好きなんじゃねえ。実はここから一時間くらい行くとほとんど誰も知らない秘密の大きな珊瑚礁があるんじゃけど行ってみるかい?」
もちろん追加料金が発生するが、その場で船長から提示された額はそう大したものではなかった。弟もその程度ならと同意してくれたので、ここはひとつ行ってみる事にした。
帰港が大分遅れてしまうがのんびりしようと帰りの飛行機は最終便を予約したので時間的には余裕がある。それにほとんど誰も知らないという珊瑚礁を目にする事が出来る機会を逃す手は無い。
船長によれば、そこは幾つかの大学の研究者を連れて行った程度で他の客はほとんど案内しないという。あまり有名になってしまって生態系が壊れたり汚されたりするのを避けたいからだ。
船長がそこを案内する気になったのは、私が箱メガネで覗くだけで満足する稀有な人種なので荒らされる心配が無いと判断したからだそうだ。
もともと船長は宮古島の生まれではなく、宮古島よりさらに南西の海に浮かぶ今は無人島になってしまった小さな島の出身で、秘密の珊瑚礁は若い頃にその島から漁に出た時に発見したのだそうだ。そしてその珊瑚礁は奇跡的に誰にも気付かれず、数十年手付かずのままになっていたのだ。
この珊瑚礁は非常に貴重なものだと、以前調査に連れて行ったどこだかの大学(残念ながら船長が校名を忘れてしまった)の研究者も太鼓判を押してくれたというのだから是非も無い。早速栄丸をその海域に向かって走らせてもらったのであった。
暫くしてふと船の周りが徐々に霞んできているのに気付いた。海霧だろうか。こんな季節のこんな時間に霧が出るということがあるのだろうか。
船長に聞いてみると、実際珍しい事だという。
進むにつれどんどん霧は深くなり何とも不気味な雰囲気を感じる。弟もあまり気味良くは思ってはいないようだ。しかし船長は変わらずのんびりした様子で操船している。
まあ海の事は海の男たる船長に任せた方が安心だろう。餅は餅屋と言うし。それにGPSやレーダーも備えている船なのだから霧で迷子になるという事も無かろう。そう自分を納得させた。
それからものの十分するかしないかのうちに霧が薄くなり、徐々に視界が開けてきた。なるほど大した事は無い。船長がのんびりしていたのもそれが分かっていたからだろう。
ところが今度は焦げ臭い臭いがしだした。
船長は初めて渋い顔を見せた。
「どうしたんじゃろ、エンジンがオーバーヒートしかかっとる……」
そう言った矢先に今度はGPSや無線といった電気を使う機器が全て止まってしまった。
「ああ、こりゃいけん。熱で配線がいかれたかも知れん」
私と弟はただ見ていることしかできなかった。
ふいに霧が晴れて急激に視界が広がった。すると驚いたことに目の前に大きな島影が見えるではないか。
この苦境では好都合ではあるが、こんな所にこんな大きな島があったろうかと船長は訝しんだ。が、背に腹は変えられぬ。島へ向かう事になった。
* * *
島は大きな入江を抱えていた。そして入江の中ほどが桟橋のように突き出していた。目を凝らして見たところ石垣のように大きな岩を積んで作られている。どうも人工物のようだ。
となれば助けを呼べるかもしれない。ただ桟橋にも湾にも船らしきものは見えないし、浜にも建物らしきものは何も見えない。浜からすぐに鬱蒼とした森が広がっている。住人は森の向こうに住んでいるのかもしれない。
ひとまず石積みの桟橋に停泊させてもらった。許可は得られていないが緊急避難なので仕方あるまい。とにかく陸地にたどり着けたのが有難い。緊迫した空気がやっと少し緩んだ。
「この御守のおかげかな」
船長は首からぶら下げていた500円玉ほどの大きさの板状のものをシャツの下から取り出して見せてくれた。
それは中々に立派なものであった。手間暇かけて研磨された何らかの鉱物で出来ており、肌理細やかでニスが塗られているかのような艶がある。全体に見たことのない様式の紋様が掘り込まれており、そこに雲母が嵌め込まれて紋様を際立たせている。
船長の故郷の島に代々伝わっていた工芸品で、当時の島民は皆言い伝えに従って肌身離さず持ち歩いていたという。船長自身も未だに当時の風習のまま常に身につけているのだそうだ。
ひと息ついた後、私と弟は森の向こうに居ると思しき住人を探しにいって助けを求める事になった。船長は船に残って修理を試みる。
桟橋に降り立つと、しっかりとした陸地が足の下にあるのはこんなに有難いものかとしみじみと思った。
桟橋を通って浜に下りてみると、森に一筋の道があるのを発見した。道は舗装などは一切されておらず、雑草が繁茂していた。あまり人通りがあるようには思われない。
かつては住人が居たが今は無人島なのかもしれない。急に不安になってきた。弟を見ると彼も不安そうだ。しかし希望が消散した訳ではない。とにかく道を進む事にした。
数分歩くと森が途切れ開けた場所に出た。
そこは円形に森の木を切り開いて作られた広場だった。広場でなければ庭園なのかもしれないが、どうにも異様な雰囲気であった。
広場の中央には巨石 ――明らかに人工的に四角く切り出されたもの―― が立ち並んでいる。上から見たとすれば何らかの模様を描いているようだ。
近づいてみると巨石には何れもびっしりと彫刻が施しており見るうち不思議と不安な気持ちになってきた。全く知らない様式だが、何故かどこかで見た事があるような気もした。
巨石群の中央辺には、これまた人工的に切り出された平たい巨石があった。最初舞台か何かと思ったが、この巨石は上端が下端よりも出っ張っているような形で、かつ中央部が窪んでおり、どうも舞台などでは無さそうだ。
広場の地面は背の低い草が生え固く締まった土壌だが、窪んだ平たい巨石の回りには石畳(というにはかなり大きいが)が敷き詰められており、ところどころに穴が開いていた。よく見ると、どういう用途か分からぬが隣り合った二つの穴同士が中で繋がっている。そして石畳にもまたびっしりと彫刻が施されていた。
「メガリスってやつだな」
弟は巨石を見ながら言った。
「つまり、先史時代に人工的に作られた巨大な石の建造物のことだよ。ストーンヘンジみたいなさ。ストーンヘンジは知ってるだろ?」
先史時代の遺跡にしては随分綺麗な気もするけど…と言いかけた時、広場の向こう側、今来た道の反対側に建物があるのに気付いた。
早速行ってみると、大きな扉の他は窓一つ無い土壁に瓦葺きの、さほど大きくない建物だった。日本の建築とはかけ離れているように思える。
「古い時代の中国かベトナム辺りの建物っぽいなあ。それも結構身分の高い人物のね」
弟は頻繁にアジア圏を行き来しているのでこのような建築物にも見覚えがあるのであった。また彼自身オタク的気質があり、よく渡航する国の文化や言葉なども自学しているので、より感度が高いのである。そんな彼がそう言うからには、ここはもう日本の領土の外なのだろうか……。
ふいに我々の背後から声がした。日本語とは似ても似つかぬ私の知らない言語だ。慌てて振り向いた。
声の主は長いマントのような服を着て、頭には頭巾のような被り物をしていた。
頭部をすっぽり覆ったその被り物には目の部分にだけ四角い穴が開いている。が、目の細かい網が張られているようでその奥にあると思しき目は見えない。
装束の形はKKK団の衣装に近いが、上から下まで黒に近い暗灰色に染め上げられ、頭巾には放射線様の蜘蛛の足を連想させるような大きな紋が入っている。
彼 ――性別は不明だが便宜上 "彼" としておく―― は再び同じ言葉を発した。
バヌラ アイィ ニークリウ ファーピヌノイグビトィン ダザイ
(私の耳には大体このように聞こえたが実際には日本語では書き表す事の出来ない奇妙な発音とイントネーションであった)
「お前たちは何者だ、って言ってるみたいだ」
弟が囁いた。いくつかのアジア圏の言語の特徴が混ざっていて何となく意味が取れるという。弟のオタク気質がこんな所で役に立つとは思わなかった。ただ正確には何語かかも分からないし、向こうに分かるように喋れる自信は無いそうだ。(これ以降の "彼" の言葉は弟の意訳がベースであることをお断りしておく)
――其の方は何者じゃ。此処は神聖なるピヌノイグビトィン様の太廟ぞ。
つまり皇帝とか王様とかそういった人物を祀ったところということだろうか。するとこの頭巾男はさしずめ墓守といったところか? それとも聖職者とかか? 何にせよ彼は神聖な場所に踏み込まれて怒ってるようだ。
とは言えこちらも好き好んで来た訳じゃない。船が故障して仕方なく寄港させてもらったこと、助けてほしいことを日本語は素より弟による片言の中国語やベトナム語など数ヶ国語で訴えた。が、頭巾男には通じたのか否か全く判然としない。
するとまた例のよく分からぬ言語が頭巾男から発せられた。
――ふん。蛮族か。此の太廟を穢した罪は重いぞ。捕らえよ!
最後の言葉を聞いて弟がはっと回りを見た。その視線を追うと森の中から頭巾男の手下と思しき数人の集団がこちらに歩いてくるのが見えた。やはり頭には頭巾 ――ただし位が低いと見えて無地のもの―― を被っていて、手には見たことも無い形状の大振りな刃物を携えている。
「まずい! 兄さん、逃げよう!」
弟が私の腕をつかみ、踵を返して走り出した。私もはっと我に返り一緒に走った。
森の中の、先程歩いて来た道を逆戻りすると、どうにk栄丸が停泊してある浜まで出られた。そのまま桟橋を走って栄丸まで行くと、船長が船べりに腰をかけてのんびりと煙草を吸っていた。
「そんなに慌ててどうしたの? エンジンはもう大丈夫やけど電気を使う機械が動かないのさ。一休みしたら配線回りを見るよ」
エンジンが直ったのならもっけの幸い、早く船を出してくれ、よく分からないが追われてるんだ、殺されるかもしれない、と訴えたが船長にはもちろん事情が分からず戸惑うばかり。
「GPSも無線も何もかも使えないんだから、てきとうに出発しても遭難するだけだよ。一体全体どうしたの?」
その答えは我々から言うまでもなく直ぐに理解できたと思う。頭巾男の手下が桟橋まで追いかけてきて我々を取り囲んだからである。万事休すだ。
我々三人は見るからに切れ味の良さそうな大きな刃物を突きつけられ、生きた心地もせぬままに先ほどの広場まで連行された。
居並ぶ巨石群の前で頭巾男が待っていた。
――今宵の光臨の儀が穢れぬよう其の方らには死をもって贖わせる。凌遅刑と五つ裂きの準備をせい!
何という事だ。どうやら我々は恐ろしい邪教の巣窟に流れ着いてしまったらしい。何も知らずに逆鱗に触れて虐殺されてしまうなんて、こんな酷い人生の終わり方があるものか。
怒りと絶望、そして恐怖で全身が震える。じっとりと額に脂汗が滲んだ。
ふと頭巾男が船長の前で動きを止めた。彼は船長の首からぶら下がっている御守りに目を留めたようなのだった。
――貴様等、ナンユェンダヲのシィョヌグローか。これはちょうど良い。
そう言うと、頭巾男は手下どもにこう告げた。
――凌遅刑と五つ裂きは中止!
やれうれしや、どうやら命を取り留めたらしい。よく分からぬが船長の御守りには何か大きな意味が隠されていたようだ。成程肌身離さず持っていろと伝承されていた訳だ。
しかし次に出た言葉でまた落胆してしまった。
――こやつらは今宵の光臨の儀の贄とする! 鎖し籠めよ!
弟によれば「贄」というのは「生贄」とか「百舌の速贄」だとか、そういった類の意味の「贄」だろうと言う。即ち「贄とする」というのは我々の肉を、人肉を喰らうという事だと思われる。するとこの邪教はカニバリズムの徒か。
頭巾男が何とかと称する儀式は今晩執り行われるらしいので、あと少しだけは命を永らえた事にはなるが、いずれにせよ恐ろしい運命が待ち受けているのに違いは無い。
弟も船長も一様に顔から血の気が引いた恐怖とも諦めとも取れる顔をしていた。鏡で見れば私も同じ顔だろう事は容易に想像できた。
我々はそのまますぐに手下に取り囲まれ、大きな刃物に追い立てられて森の中に連れていかれた。
森の中に少し入った所に小屋のような建物があった。近くまで行くとそれが格子状に木を組んだ牢屋であることが分かった。
中には数人の先客が押し込められていた。老若男女、子供も居る。皆襤褸をまとい肌は浅黒くアジア的な顔立ちをしている。見ると彼らの首には一様に船長の御守りと同じようなものが下げられていた。
彼らに話しかけてはみたものの、案の定言葉が通じず全く意思の疎通は叶わなかった。彼らの様子を見ると、彼らもまた絶望と諦念に支配されているようであった。
牢内の全員が押し黙ったまま、ただ時間だけが過ぎていった。
* * *
陽が沈み、辺りは徐々に闇に包まれていった。ふいに真っ黒い森の木々の向こう、広場の辺りに松明らしき明りが灯された。いよいよ儀式が始まるらしい。
松明を持った手下が数人現れ、我々を含む全員を広場まで連行した。
巨石には松明が据えつけられ、広場全体が明々と照らされていた。
憐れな囚人たちは一列になって広場の中を歩かされ、窪んだ巨石の前の石畳まで来た。そこには頭巾男が待っており、列をなした囚人たちを順番に何やら身振り手振り ――恐らく呪詛の類と思うが―― をして見せ、石畳の上に座らせていった。
座った囚人には素早く手下が縄を掛けて、その縄の両端を石畳に開いた穴に通して固定した。
突然「きぃいいいいぃぃぃぁぁぁぁぁ」というような甲高い奇声が辺りを切り裂くように響いた。奇声の主は恐怖のあまり錯乱した船長だった。
船長は奇声を上げながら並ぶ囚人たちを突き飛ばして走り出し遁走した。
が、直ぐに数人の手下に取り押さえられた。船長はそれでもなお手足を振るって抵抗したが手下どもに殴る蹴るの暴行を受け大人しくなった。
半分失神したような状態の船長を手下どもが引きずるように頭巾男の前まで連れて行った。すると頭巾男は何事も無かったかのようにまた船長に向かって身振り手振りを行うと、手下が強制的に船長を座らせた。そのまま手早く縄が掛けられ船長も石畳に繋がれてしまった。
その後、頭巾男は順に全囚人に対して呪詛を行った。当然私や弟に対しても同様に呪詛が執り行われた。目の前に頭巾男が来て身振り手振りを行ったが、身振り手振りだけでなく同時に小声でブツブツと呪文のようなものを唱えていた。頭巾男からはこれまで嗅いだ事の無い吐き気を催すような異臭がした。
最終的に窪んだ巨石の前に全員が座った状態で繋がれた。囚人は窪んだ巨石に対して平行にふた筋の列をなした。私と弟は最後尾近くを歩いていたため後ろの列に繋がれる事となった。本来ならば船長も一緒だったのだが、先ほどのイレギュラーな行動によって列が乱れ、前の列に繋がれている。
まさに絶対絶命。これからどんな恐怖が待ち受けているのか、どんな惨劇が行われるのか、全く想像もつかない。
ただただ恐ろしい、頭の中はそれだけであった。
やがて頭巾男が合図をすると、手下どもがその場に跪き、同時に頭巾男は囚人たちの列の後ろに回って何やら呪文のようなものを唱え出した。それはおよそこんな風に聞こえた。
マンギャーリン・ブン・マダ
デンツィオ・アン・トッヅォイ
クルーナ・ロン・マー・ピヌノイグビトィン
マンギャーリン・プーマンター・ディートゥ
ヴィ・ロン・ディッダイ
トゥン・ウェラァハ・イェンラゥ・ピヌノイグビトィン
頭巾男はその呪文を何度も何度も繰り返し続けた。やがて手下どももそろって復唱し始めた。まるで声明のようだ。
ふと上を見上げると、よく晴れた夜空であった。そして広場のほぼ真上に満月があった。その満月に徐々に異常が起きているのに気付いた。
呪文の奉唱を繰り返すに従い月の色が徐々に赤く染まりだした。皆既月食かとも思ったのだが皆既月食なら地球の影が動くはずなのに、つい今し方まで明るく輝いていた満月がまるでスプレー塗料をかけられているかのように全体的に赤みを増しているのだった。
やがて黄金色に輝いていた月がすっかりネオンサインのように赤く染まった頃、次なる異変が起こった。赤い月から一筋の光が広場に射した。正確には窪んだ石を挟んで我々が繋がれている石畳と反対側だ。
その一筋の光はどんどん強さを増し、終いには直視する事が出来ないほどになった。刹那一陣の突風が我々を襲った。あまりの風圧に一瞬誰もが目を瞑らざるを得なかった。
そして目を開けると、広場の中央、窪んだ巨石の向こう側、今しがた光が射していた場所に ――奴が居た。
* * *
あれが頭巾男の云う "神聖なるピヌノイグビトィン" なのだろうか。
だが神聖と言われて我々が思い浮かべるような神とか天使とかのようなものとは全く違う、まさに異形としか言いようの無い醜悪で禍々しい姿の生物がそこに居た。
見上げる高さは10mはあろうか。とにかく大きい。立てられた巨石の倍以上はありそうだ。しかも奴は座っているようなのだ。座高でこれならば立ち上がったらどれほどになるのか。
姿形は全くこの地球上の生物とは異なる。身体の表面は松明の灯りをぬらぬらと反射していた。皮膚の表面には何種類もの毒々しい色に彩られた鱗に覆われまるで模様を描いているかのようだ。腕と思しき場所は触手のようなものが何本も生えており、ゆらゆらと揺れている。その先端は手のような形をしているが指は十本以上ありそうだ。頭部と思しき場所にも触手のようなものが生えており、眼球もしくはそれに準ずる感覚器官と思われるものが幾つも並んでいた。
奴が姿を現すと見るや手下どもは地面にひれ伏した。
繋がれた囚人たちの多くは失神したようだ。私と弟はあまりの恐怖と驚愕に声も出ず、ただ口をぽかんと開けて目の前の異常事態を凝視するのが精一杯だった。
そして頭巾男はというと、彼はその場に跪いて両手を広げ、奴、即ちピヌノイグビトィンと思しき醜悪な怪物に呼びかけたのであった。
――よくぞ戻られた、神聖なるピヌノイグビトィン様! 今宵の贄たる鮮らかなシィョヌグローを屠り、また翫味されよ!
やはりこの怪物がピヌノイグビトィンなのか。「神聖」などとは到底思えぬ。これぞ正しく闇が形を得たかのような邪悪、禍々しき暴悪そのものではないか。
呼びかけに応じるようにピヌノイグビトィンは耳を劈くような咆哮を上げた。頭巾男とコミュニケーションがとれているのだろうか。そのような知能があるということか。
そして「贄」は頭巾男やその手下が喰らうのではなく、ピヌノイグビトィンが喰らうという意味だったのだと、事ここに至って私はようやく理解したのであった。
ピヌノイグビトィンはもう一度咆哮すると、その触手とも腕ともつかぬ器官を伸ばし繋がれた囚人たちに向かって振るった。
次の瞬間、最前列に繋がれていた囚人たちのうち半数ほどが消えていた。囚人たちの泣き叫ぶ声が上方からかすかに聞こえた。
見上げるとピヌノイグビトィンの腕が囚人たちを一掴みにして、その頭と思しき所まで差し上げていた。まるで品定めをしているかのようだ。
囚人たちを掴むその手に一気に力が籠められた。囚人たちの悲鳴と共に彼らの皮膚が弾け鮮血が噴き出した。その血は奴の前にある窪んだ巨石に注がれた。
ピヌノイグビトィンは血を絞りきられた後の先刻まで囚人たちだった肉塊をバラバラに千切ると、その血と同様に窪んだ巨石に放り込み、その血と死骸が入った窪んだ巨石を易々と持ち上げると頭と思しきところまで持って行くやそのまま口と思しき器官にあてがい、入っていた血と死骸を一気に飲み干してしまったのであった。
――おお、神聖なるピヌノイグビトィン様! お気に召されたようで何より! 鮮らかなるシィョヌグローはまだまだ候えば御緩と楽しまれよ!
頭巾男の叫ぶ声がしたが、もう彼奴の方を向くような余裕は無い。私はその時目の前で起こった余りにも恐ろしい暴虐に失神寸前であった。
しかしここで気を失ってはならぬ。何とか逃げ出す糸口を見つけなくてはならぬ。とにかく生きて帰りたい一心で必死に自我を保った。
再びピヌノイグビトィンの腕が動き、最前列の残りの囚人たち全員が奴の手の内にむんずと掴まれた。船長も一緒だ。船長は上半身がピヌノイグビトィンの手から露出していた。
ピヌノイグビトィンは、その手を先ほどと同様に頭の前まで差し上げたので結果的に船長は奴と対峙するような形となってしまった。その醜悪な姿を眼前にした船長は錯乱して大声で悲鳴を上げた。船長の恐怖は如何ばかりか!
船長と同様手の内にいる他の囚人たちも泣き喚いたが、そんなものにはお構いなしとばかりにピヌノイグビトィンがその手を握り締めると手の中から断末魔の声が一瞬発せられた後すぐに静かになり、忽ち大量の血液が窪んだ巨石に滴り落ちた。
ピヌノイグビトィンは手に残った船長と囚人たちの死骸をまたバラバラに千切り窪んだ巨石に放り込むと、軽々と窪んだ巨石を持ち上げ顔の前まで持っていき、一息の元に飲み干してしまった。
さあいよいよ我々の番か……と思った矢先、突然ピヌノイグビトィンの様子がおかしくなった。体が小刻みに震えているようだ。そして我慢の限界が来たかのように大きく咆哮した。
――何事でございますか、ピヌノイグビトィン様!
どうも頭巾男にも予期できぬ異変が起こったらしく、慌てているようだ。
再びピヌノイグビトィンが咆哮した。そしてその口から何か吐き出されて地面に撒き散らされた。それは夥しい数の人間の骨肉片と血液であった。
そしてさらに何度も咆哮した。まるで怒りを表明しているかのようだ。実際憤怒しているらしいことは頭巾男らの慌てふためく様からも察せられた。
その咆哮は今まで聞いた中でも最も大きく、一時的に難聴になってしまうほどに荒れ狂っていた。その咆哮に合わせて地面が揺れだし、徐々にその揺れは大きくなってまるで地震のようになった。
巨石が倒れ手下が何人か下敷きになった。地割れがおこりその下から真っ赤な溶岩が覗いた。我々が繋がれている石畳も、あるものは出っ張りあるものは沈み亀裂が入って割れ始めた。
私が繋がれていた石畳は斜めに盛り上がり、じきにヒビが入って真っ二つになった。その拍子に繋がれていた縄が緩んで私は地面に投げ出された。
千載一遇とはこの事、この機を逃しては死あるのみ。何とかこの地獄のような場所から脱出しなければ。しかし弟を残していく訳にはいかぬ。
弟はどこかと探すと、すぐ近くのほぼ完全に垂直になった石畳に繋がれたままの状態で失神していた。幸い縄は緩んでいたのですぐに解けた。地面に下ろして揺さぶったり頬を叩いたりなどするとすぐに正気を取り戻してくれた。
回りを見ると他の囚人たちも自由の身になれたらしく蜘蛛の子を散らすように森に走っていくのが見えた。
我々も森に飛び込み小道を走って浜まで辿りついた。その間も咆哮が島中に鳴り響いていた。
気付くと先ほどあんなに赤かった満月がもう元の黄金色の輝きを取り戻していた。月明かりに照らされた桟橋に栄丸が繋がれて波に揺れているのが見えた。
その時、誰かが私の肩を掴んだ。振り向くと頭巾男だった。
――貴様等の所為でこのような事になったのだぞ! 許さぬ!
その手を見るとまるで爬虫類のような鱗に覆われ、指先から太く長い鉤爪が生えている。その鉤爪が肩に食い込み私は苦痛に悲鳴を上げた。
――異物を喰ろうてピヌノイグビトィン様はお怒りじゃ! あと数万年はこの星には御光臨いただけぬぞ! ええい、この手で八つ裂きにしてもまだ飽き足らぬ!
頭巾男は私の肩を掴んだまま私を振り回し、地面に投げ飛ばした。そして鉤爪を私に向かって振り上げた。
が、それと同時に「うわああああああ!」という声を上げながら弟が突進して頭巾男に思い切り体当たりした。不意を衝かれた頭巾男はもんどりうって倒れ岩場に頭を打ち付けて動かなくなった。
頭巾が脱げて首筋の辺りが見えたがそこもやはり鱗に覆われているようだった。しかし我々はそれ以上追究する事はせず、頭巾男をその場に残して桟橋へ走った。何故なら手下どもが森から出て来たのが見えたからである。
一気に桟橋を走り抜けて栄丸に飛び乗った。弟が操舵室の機械を見様見真似と勘で動かすと幸運にもエンジンが始動した。
私は舫綱を解こうとしたが、慌てているしそもそも素人なので中々解く事が出来ない。ふと船長が物入れにマキリを仕舞っていたのを思い出し、慌てて物入れを開ければ果たせるかな中からマキリが出てきてくれた。
何とか舫綱を切断できて顔を上げると今まさに手下どもが桟橋を駆け渡り栄丸に手を掛けんとしていた。
が、まさに間一髪の差で栄丸は自らのスクリューを力強く回転させて真っ黒な海を走り出し、手下どもをその場に置き去りにしたのであった。
桟橋の上でどうする事も出来ずにいる手下どもがどんどん小さくなっていく姿と、未だ響き渡るピヌノイグビトィンの恐ろしい咆哮が、あの忌まわしい島での最後の記憶となったのだ――。
目が覚めると太陽が高く昇っていた。
栄丸は見渡す限り水平線の凪いだ大海の真ん中にぽつんと浮かんでおり、そのエンジンは停まったまま決して動こうとはしなかった。
それから数日間漂流した我々は、偶然近くを航行していた巡視船に救助されて九死に一生を得た。
巡視船に乗せられて沖縄に戻るとそのまま検査入院する事になった。すぐに弟の妻が半狂乱で病室に飛んできて弟を固く抱擁し、わあわあ泣いた。幸いな事に弟も私も命に別状無く、漂流による軽い脱水と栄養失調程度だったのですぐに退院した。
その後飽き飽きするほど海上保安庁や警察の事情聴取を受けさせられたが、生きて帰れたのだから贅沢は言えまい。
最終的に栄丸は嵐の中エンジントラブルで遭難し、船長は海に転落して行方不明になった、ということで決着がついた(事にされた)。あの島での出来事をありのままに語ったところで誰が信じてくれようか。
話によると、我々が八重干瀬から離れた後急に天候が悪化して海が大荒れになったのだという。当然海霧など何処にも出なかったし満月が空に昇ることも無かった。ましてあの辺りの海域にあのような島など何処にもないのであった。
あの島……そして、あの異常な体験は何だったのだろうか。時間が経つにつれ、あれは極限状態で見た妄想だったのかもしれない、とさえ思えてきた。
船長は天涯孤独の身であったため近所の人が簡単に葬儀を執り行い、栄丸や店は人手に渡ってしまった。
弟は元気を取り戻し、彼の妻に支えられながら元通り劇団の稽古に励んでまたアジア諸国を旅回り公演するのだと張り切っている。私の方もやっと落ち着きを取り戻した。
そうして私と弟はあの忌まわしい記憶を胸にそっと蔵っておこうと決め、日常に戻っていったのだ。
* * *
それから暫くして、テレビから流れてきたニュースに私は驚愕した。
それは東支那海に浮かぶある島の近くの海底で遺跡が発見されたというものであった。海底の砂に埋もれて隠されていたのが、海底の隆起と、それに伴う海流の変化によって姿を現したらしい。少なくとも10万年以上前の先史時代のものである可能性が高く歴史を塗り変える大発見だと大きく報じられていた。
それは正しくあのメガリスであった。風化しているものの、その配置や大まかな形状は保たれていた。クローズアップで映し出されると、表面にびっしりと彫られていたあの忌まわしい彫刻がまだ(かなり薄れているとは言え)残っていた。あのピヌノイグビトィンが器にしていた窪んだ巨石も、真っ二つになってはいたが、そこにあった。
しかし何より驚いたのは海底の巨石群の隙間から発見されてダイバーが持ち帰ったという装飾品だった。風化によって表面の艶は失われ、そこここが削れて傷だらけではあったが見覚えのある紋様とそれに嵌め込まれた雲母……。あれは間違いなく船長が首から下げていたあの御守りではないか。
私は慌てて弟に電話をかけた。実はその時弟も同じニュース番組を見ており、私に電話しようと思っていたところであった。
そのまま二人密かにあの島での忌まわしき出来事について話し合った。実に久しぶりの事だ。
「実はね、ずっと気になっていて調べていたんだ。あの頭巾男が言っていた『シィョヌグロー』って言葉をね」
しばらく互いの記憶を確認した後で、意を決したように弟は話し始めた。
「あの頭巾男の言語はアジア圏の言葉の特徴が混じっていると言ったのは覚えてるよね? そこでまだ学んでない言語も含めて似たようなものが無いか探して調べたんだ。で、この前やっと結論らしきものが出たよ。確証は無いけどね」
そこで弟は言いよどんだ。
「何だい?」
私はそう促しはしたものの、心のどこかでは聞きたくないという思いもあった。
弟は、ごくりと唾を飲み込んで、ようやく言葉を発した。
「『食肉用の家畜』さ」
* * *
「頭巾男の言ってた『異物』というのは船長なのだと思うんだ。船長も僕らも、他のシィョヌグローたちとは、謂わば別の世界から来た訳なのだからね。結果としてそれが僕たちにとっては救いになった訳だけど……」
弟は言葉を詰まらせた。犠牲となり、結果的に我々を救ってくれた船長に思いを馳せたのであった。
私も同じだった。
それ以降我々があの島での異常な体験について話すことは絶えて無い。しかし、ふとした拍子にあの忌まわしい呪文が頭の中に蘇り、耳の奥に響くのだ。
まるで私をあの太廟に、あのメガリスの石畳に、あのピヌノイグビトィンの前に呼び戻そうとするかのように――。
(了)