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父の教え-田中隆昭-
高校時代を振り返る前に父の記事を書きたいと思います。
自分がサッカー選手として有名になって、父の名前をもう一度全国に広める。
目標のうちのひとつでした。
まったく有名にはなっていませんが、現役のうちにやれることはやりたいと思います。
鹿児島県曽於市岩川で育ち、岩川高校を経て日本体育大学に進学しました。
生粋の野球少年で高校では岩川の江川(ファイヤーじゃないですよ)と呼ばれていたみたいです。
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大学では学費を稼ぐために競技部には入らず、英会話部と軟式野球部に。
あの巨体で英会話部は想像できません。
大学の鹿児島県人会で隣の席になった体操部の女性と運命的な出会いを果たしました。母です。
卒業後、父は東京都の教員に。
はじめは東京都品川区立伊藤中学校に赴任しました。
部活動の指導はバレーボール部の手伝いに。
バレー部顧問の寺村先生の手腕が光り全国優勝。
それを目の当たりにした父は、自分の部活を持ちたいと思い野球部創設を考えました。
しかし、校庭の真ん中に大きな木があり許可が出ませんでした。
そこで任されたのがサッカー部でした。
野球一筋からのサッカー部の監督です。とても厳しかったそうです。
その後、世田谷区立駒留中学校に。
数年勤務したのち、都内で強豪の暁星中学校へ転勤することになりました。
野球少年が全国大会優勝の監督へ
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1998年全国中学校サッカー大会岩手でベスト8。
1999年7月に腎臓癌と診断され、1年後の生存率が20%と言われました。
この年の新潟での全国大会は1回戦敗退でしたが、入院中の病院から駆けつけ応援することができました。
翌年の2000年、鹿児島での全国大会。
結果は、故郷に錦を飾る優勝。(延長の末、両校優勝)
どのチームよりも走り込んでいたという自信から、決勝まで相手に走り負けるということはなかったみたいです。
「走る」ことの大切さは今も昔も変わらないですね。
岩川の野球少年がサッカー部監督として暁星中学校初の全国優勝を果たしました。
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2001年都大会を優勝したところで肺への転移が分かり手術し入院。チームを離れますが高校サッカー部から林先生、荒木先生をはじめ多くの方々のサポートにより2年連続全国優勝。
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2002年は関東大会で予選敗退。僕は中1でしたね。
その後、頚椎などに転移し再度入院、手術をしましたが癌は全身を蝕んでいきました。
そして入院生活が続き2003年夏に亡くなりました。
父の教え
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今も大事にしている、父の教えがあります。
「あじみこしそ」です。
人として大事なことの頭文字を取ったものです。
○あ…挨拶
○じ…時間を守る
○み…身だしなみ
○こ…言葉遣い
○し…姿勢
○そ…尊敬
これらのことができなかった時には、「正座しろ、歯を食いしばれ」でしたね。
他にも沢山のことを僕に伝えたかったと思いますが、そのチャンスを僕は自分から逃しました。
亡くなる前に母から、父の意識がある時に病室に行くようにと言われていたのに行かなかったのです。
友達と花火や映画を観に行ってました。
あり得ないですよね。
父が入院しているのに。
けれど当時の自分は、まさか父親が死ぬなんて思ってもいませんでした。
父親がどんな気持ちで病室で過ごしていたか考えるだけで、自分が未熟で馬鹿で本当に情けなく思います。
しかし、父が亡くなってから、今日に至るまでサッカーを通して人として何が大事かというのを伝えてくれている気がします。
困った時にはすぐに夢に出てきたり、日々の生活で何かサインを出してきます。
高校、大学、プロ生活、どんなときでもこの世にいないはずの父親が真後ろにいる。
そんな気持ちでした。
他にも父の教え子の方々や、当時お世話になっていた先生方が父のエピソードを色々教えてくれました。
それが僕としてはすごく嬉しくて、いまだに完成していない父親像がちょっとずつ形成されていきました。(父のエピソードがあれば恐縮ですがコメントやメッセージで教えて頂けたら嬉しいです)
現役としてあと何年やれるかは分かりませんが、父親が伝えたかった「なにか」を感じながら、これからも真後ろにいる父親と共に毎日愚直に取り組んでいきたいと思っています。
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ついに娘の前にも現る父
最後に、先日家族でお墓参りに行った際の出来事をお話しします。
父のお墓に挨拶を終え、家族で車に乗り込み墓地を出ようとしたところ
後部座席の娘がぶつぶつと話し始めました。
「たーかー?たーかー」
4歳になり平仮名を読み書きできるようになったので、車の外に見える看板の平仮名を読んでいるのかと思いました。すると
「たーかーきー、たーかぁきーだ!」となにか判明したかのようなリアクションをしました。
娘にどうした?と聞くと
さっきお祈りしたお墓に平仮名で「たーかぁきー」と書いてあったと言うのです。
ちなみに娘は父親の名前を知りません。
そうです、父の名前は「たかあき」
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