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「信頼」からこぼれ落ちるもの ー第26回福島ダイアログ所感

「第26回 福島ダイアログ 福島第一原発の廃炉・廃棄物管理と地域の未来」に参加してきた。

はじめに、本来は一体として考えるべき「廃炉」「廃棄物管理」「地域の未来」がそれぞれの領域だけで語られているという問題意識を共有。国内外の事例発表があったのち、午後のダイアログでは、国や東電と地域住民との間の「信頼」が主題に上がった。

「ことが起きてから謝る、方針を決めてから説明に来る。これでは対話とはいえない。信頼関係は結べない」

「簡単なことではないけれど、議論の嚙み合わなさ、わかりあえなさを前提として、それでも膝を突き合わせて対話することこそが重要だ」

「13年半、ずっと信頼関係のことは話題に上がってきていて、まだ言い続けている。徒労感がないわけではない。それでも続けるしかないという悟りの境地に至っている」

完全にわかりあえなくても、立場や肩書きではなくひとりの人間として関われば、そこには信頼関係が芽生える。確かにそうかもしれない。表向きには対立している許せない相手でも、直接会って話してみると切実さや愛らしさを感じる、ということもあるだろう。


気になったのは、「廃炉と廃棄物と地域の未来」を考えるにあたって、ほんとうに「信頼」だけが主題なのだろうか?ということだ。言い換えるとすれば――人間的な関わりがない相手のことは、慮れないのだろうか?

膝を突き合わせて話ができる相手との間には共感が生まれやすいし、信頼関係も結びやすい。しかしながら、顔も見たことがない、よく知らないどこかのだれかが苦しい思いをしていたとしても、私たちはそれを知る由もない。

ダイアログの中で「この手の議論には強者男性ばかりが登場し、女性や障害者などのマイノリティの声はなきものにされている」という指摘もあった。会って対話ができるということ自体が、ある種の特権であるともいえる。会って対話ができる、信頼関係を結べる人たちだけで「地域の未来」を考えてよいものだろうか?


福島を訪れてくれる友人を、双葉町にある「東日本大震災・原子力災害伝承館」へ連れて行くことがある。2020年に開館した、県立のアーカイブ施設だ。何度行っても強烈な違和感を覚えるのが、順路の最後にあるスペース。被災の記録や現状の課題などが紹介されてきた展示の最後に、突然、再生可能エネルギーとハイテク産業といった未来感あふれる展示があらわれる。福島県が考える「地域の未来」。これでは、「原子力 明るい未来のエネルギー」の「原子力」を「再エネ」に置き換えただけではないか。

再エネは比較的クリーンなエネルギーなのかもしれないが、それでも、中国やアフリカの山奥では被ばくの危険にさらされながら再エネ設備に必要なレアアースを採掘している児童労働の現場がある。再エネ発電所の建設のみならず、「イノベーションコースト」を実現するために、土木工事や物流によって化石燃料が大量に消費される。気候変動が進めば、将来世代の生活環境はさらに過酷化してしまうだろう。

そのように考えると、そもそもエネルギーを潤沢に使うということそのものが、加害から逃れられないと思うのだ。福島の原子力災害は、ふだんは外部化・不可視化されている被害が、たまたま国内にあらわれた事例だということもできる。

原子力を再エネに言い換えて「イノベーションコースト」をぶち上げることは、遠く海外の労働環境も、未来の人々の生活環境も毀損してしまうことにつながってしまいかねない。こんな「地域の未来」でいいのだろうか。


もちろん、権力者が市井の人々との信頼関係を築いたうえでことを進めることは重要だ。しかしながら、今ここにいない、信頼関係が結べない存在をおざなりにするのであれば、「廃炉」「廃棄物管理」「地域の未来」のいずれにおいても、倫理的な意思決定はできないのではないかと思う。「信頼」は必要だけれど、それだけでは不十分だと率直に感じた。


そんなことを考えていてふと思い出したのが、紛争解決活動家・永井陽右さんが朝日新聞のウェブメディアに寄せていた連載シリーズ「共感にあらがえ」だ。最後にその一部を紹介したい。

目の前に次の2人がいると仮定しよう。ひとりは、内戦に追われて難民となり独りぼっちで食べるものが無く服もボロボロで今にも餓死してしまいそうな10歳の白人の女の子と、もうひとりは、道端に力なく座り込み服もボロボロで今にも餓死してしまいそうな中年の黒人の男性だ。さて、あなたはどちらに共感するだろうか。想像してみてほしい。

&M「共感にあらがえ」<02>見過ごされる“共感されにくい人たち” どう救うべきか?/永井陽右

確かに、国際協力や人道支援のポスターには中年男性よりも少女の写真が採用されていることが多いのだろう。より共感が得やすいほうが採用されるというわけだ。ここには、共感の格差が明確に存在する。

今回のダイアログに引き付けていえば、直接会って対話ができる人には共感しやすいとも思える。旅行や文化交流で海外に友達ができれば、その国と戦争しようだなんて思わなくなる、ということにも似ているような。会ったことのない、対話ができない存在とは信頼関係は結べないから、共感は生まれにくくなってしまう。

そして、永井さんはこう続ける。

共感できない・共感されにくい人をなおざりにしないために、共感に代わるものが必要となる。私はそれこそが「権利」だと思うのだ。共感できる・できないに一切の関係なく、全ての人には人権があり、無条件に尊重されなければならない。その射程は、共感の及ぶ範囲をはるかに越え、全ての人が含まれるべきだ。

同上

私たちは、遠く地球の裏側で、あるいは未来で生きる人々の「権利」を保障する選択ができているだろうか。「廃炉」と「廃棄物」と「地域の未来」が不可分であるように、会ったことも見たこともない人の「権利」もまた、それらに分かちがたく結びついていると思う。

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