僕にとってのヨシムラタカシ

僕はこの記事をヨシムラタカシへのラブレターにしたくない。
「あの時あんな事があって〜」「あのライブが最高で〜」
なんて思い出録になんかしたくない。

僕とヨシムラタカシはそんな関係性ではないし
まぁ本人も望んでないだろう。


数年前、
僕のバンドは沖縄のライブハウスでそこそこやってはいたが
よくライブハウスに来るお客さんにはハマっておらず、
同士のようなバンドのコミュニティみたいなものもなく
孤立感のようなものを感じて「ここで音楽を続ける意味ってなんだ?」って思ったこともあった。

ただ、沖縄のライブハウスにはヨシムラタカシがいた。


ヨシムラタカシが居るこの環境で音楽が続けられるなら
それだけで僕はここで音楽を続けられる誇りになっていた。


僕にとってそんな人が数年前に急に音楽を辞めて、最近またしれっと戻ってきたって話。

ほんとしれっと
あくまでしれっとだ。

人の感情もてあそぶのも大概にしろ!!

これ以上このおじさんに恋心に近いような感情を揺さぶられたくないので(一応考えたが、恋心では絶対にない)
「なぜ俺はこのおじさんにこんなにも興味があるのか?」

このテーマを真剣に考えてみた。


多分それは「ヨシムラタカシ」は
「ヨシムラタカシ」だからだ。

誰でも言えそうな事だが最後まで聞いてくれ。


僕の持論だがミュージシャンは
自分の音楽、自分のライブを
ブラッシュアップする過程で
「自分の憧れのミュージシャン」
「スタイルが近いミュージシャン」
をどんどんトレースしていく。

それはいわゆる共通認識の「正解」に近づいていくという事なので間違いではない。

ただ、ずっと音楽を続けるなら、どこかでミュージシャンはその着飾ったものを全て捨てて「自分」にならないといけないと個人的には思う。




着飾ることを捨てて徹底的に「自分」という要素で音楽を鳴らす。

僕にとって1番身近でそれを感じる存在が
「ヨシムラタカシ」だった。

だからこそなのかもしれない。
ヨシムラタカシはいつだってヨシムラタカシだった。
誰の影響とかどんなジャンルの音楽とかそんな領域で音楽を鳴らしてなかった。


そういえば、
僕はライブハウスでよくヨシムラに付き纏い、「この音楽はどう思いますか?」とよく聞いていた。

その感想が僕と同じだったり
そうじゃなかったりはしたが
何はともあれ「ヨシムラタカシの意見」として一貫していた。


その意見に僕は嘘まみれのライブハウスの中での一縷の救いを感じて勝手に安心していたのかもしれない。


(2017年時のヨシムラさん。こう見ると何も変わってない。この数ヶ月後に姿を消す。)





結局、読み返してみればラブレターになってしまったし
思い出も語ってしまった。

しかしこの記事は僕にとっての長年の
「ヨシムラタカシの残像の呪い」から解放されるきっかけさせていただこうと思う。

ヨシムラタカシはただのおじさんだし

「久々の復活!」なんてもてはやすような事じゃない。

ただ、僕にとってたまたま救いだっただけ。
また観れる機会を楽しみにしてます。
県外でもなんでも観にいきますぜ!
君は最高だから!

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