[悪気のない日記]2020/8/19
継続二日目、、、
昨夜はなぜかふと思い立って小説を書き始め、気が済んだときにはすでに朝になっていた笑
やはり、計画的な趣味を持つことは難しい。
さて、ミモザさんともあさんには許可?のようなものをいただいたので、それを縁に本日の日記を書かせていただこうかと思います。
それにしても昨日の日記のコメント欄はいいですね。微笑ましい気持ちになります。まさかもあさんもミモザさんの継続noteに感化されて毎日投稿を始めてらしたなんて笑
プラトンの言うミメーシス(感染的模倣)のようなものがまさかネット上で発生するなんて。また、その現象の中に自分がどうもいるらしいということについて、僕は思わず笑ってしまいます。あ、noteやってみて良かったんじゃないかな?という風に笑
ずっと前に書いたことですが、僕がnoteを書き始めた本来の理由はnoteのようなSNSを扱う人物を小説の中に登場させてみたかったからです。全く知らないことについては書けないので、ちょっとくらいは自分で使ってみようかな、と。そんな風にして始めました。確か、四月くらいのことです。
その小説を書き終わったあともなんとなく続けているわけですが、「続けていて良かったな」と思います。
※脈絡なくものを書いてしまいます。昨日、徹夜で小説を書いてしまったがために疲れているのかもしれません。あるいは酔っ払っていること(今、僕はジンのロックを飲んでいたりします)も原因なのかもしれません。あれ?よくみたら前置きが長すぎますね笑
さて、この記事を読むと、僕は文学部にいた友達のことを思い出します。彼は夏目漱石の「夢十夜」に関する卒論を出した。僕は、その卒論をぜひ読ませて欲しい、と頼んだのですが読ませてはくれないまま今にいたります笑。
その友達も同じようなことを言っていました。「どうせ文学なんて、学生は本気でやらんだろう」という態度の教授。そして、実際に本気でやらない学生。そういった甘やかし合いの関係に嫌気がさしたという僕の友達は、卒論で大風呂敷を広げ、そして、、、どうも風か何かに吹き飛ばされてどこかに行ってしまったみたいです笑
僕はいつも、単位は適当に出してくれたらいいのに、と思います。どうせ、僕は学問が好きなので単位をもらえようが、もらえまいが、勝手にやります。単位を出す、出さないをめぐるゴタゴタなんて面倒なだけです。ただ、成績については厳しくつけた方がいいのかな。それを活用してより広い世界に羽ばたきたい人もいるようなので。
当たり前だけれど、学問は学問のためにあるもので、何に役に立つのかというのは(あるいは誰それに勝てる、とか、誰それに認められる、というのは)あまり関係がありません。「将来、役に立つためのスキルを云々」は、学問をしているというよりも職業訓練をしていると言った方がいいでしょう。(ただ、研究活動はちょっと違うかもしれませんね。何に役に立つのかを明確に定めた上でお金を出してもらってするべきなのかなと思います)
その点、受験は楽だったなと思います。出さないといけない提出物は書類くらいで、あとは年に一回しかない試験で点を取ればいいだけ。取れなかったら、それはそれで仕方ない。別のところで学ぶだけです。
課題が多いのは困りますね。課題を出す側は、課題を出したことで仕事した気になるし、出される側は、提出したことで何かを学んだ気になります。課題を出さなくても単位をくれる教授がいたら嬉しいけれど、、、あまりいないですよね笑(たまにはいます笑)
この話も興味深かったです。偶然ですが、僕が今、noteでちょくちょく書いている小説「平面観覧車」にも援交をする女の子が出てきます。動機としても似ているかもしれません。ある種の退屈さに耐えきれずに始めてしまう、という一部分を抜き出してきたら、ということですが。(その他の細かい部分については、結構、ずれますね笑。だからこそもあさんのnoteを読む意味があります)
僕の知り合いにも援交をする人はもちろんいる。そして、僕はそういうことをする人に不思議な信頼感を抱かれがちなので(こいつには話しても大丈夫じゃね?というような信頼?)結構、愚痴を聞かせてくれたりする。そんな風に心を開いてくれるのはとても嬉しいことだと思います。その喜びに比べれば、そういった話を聞くのが好きなのか嫌いなのかというのは大した問題じゃない。
そんな風にして話を聞くうちに、僕はそういったことをする人たちの抱える苦しみについて少しくらいは理解ができるようになってくる。彼女たちはどうも、そういった行為を行う自分そのものに傷つくということはあまりないようだ。そういったことをする自分が周囲に容認して貰えないことに傷ついているように思える。例えばある女の子はふとした事件から(本当に、イレギュラーな事件だったなぁと僕も思う)援交がバレた時、中学生の頃からずっと仲良くしていたグループから追放されてしまった。そのことに苦しんでいる。そんなことで壊れるような薄っぺらい関係性だったのか、ということに対して。
さて、お二人のnoteを勝手に?引用させていただいた上で、僕なりの”付け加え”のようなものをさせていただこうかと思う。
そう、実はここまでが前振りだったんですよ笑(長い)
19世紀の偉大な哲学者にイマヌエル・カントがいます。彼はきわめて自己コントロールに長けた人であったようです。近所の人たちが時計の代わりに使っていたという散歩の逸話は有名ですよね。
カントは、人にはそもそも傾向性がある、と言います。水が低きに流れるように、人の心もまた低きに流れる。放っておけば台所のシンクには洗い終わっていない食器が溢れるし、本棚には読んでいない本が溢れる。提出していない課題が99個くらいあるくせに、徹夜で小説を書いてしまったりする。そういった傾向性(全て僕の抱える深刻な傾向性です)に振り回されるのを、彼は「自由」とは呼びません。それは不自由だ、というのです。(胸が痛い)
人には、そんな風に傾向性によって振り回されるという側面(現象界、とカントは呼びます)以外にも、そうした現象の因果の中に埋もれている自分を俯瞰して見ることで、そうした因果律から抜け出せるという側面(英知界、とカントは呼びます)もある、と彼は言います。(二世界説)
僕は間違いなく現象界にどっぷりと浸かってしまっている人間です。あるいはもあさんのnoteの中に出てくる女の子もそうなのではないでしょうか。
「流されるだけでは、どうもまずいらしい。周りはそう言っているしな」
そういう感覚を僕は持ってはいます。ただ、未来のことや、過去のことはあまり臨場感を持って迫ってきてはくれません。基本的に”今この瞬間”のことで頭がいっぱいです。そういうのを心理学では”現在に閉じ込められた性格”と表現したりするらしいです。
そこから抜け出した方がいいのかどうか、僕には、実はよく分かっていません。(分かっとらんのかい笑)ただ、「抜け出そうと思っても抜けられない」ってのはまずいと思います。だから、こうして英知界に自由に行けるミモザさんやもあさんの助けを借りて日記を継続させようと奮闘するわけです。
そういうわけで、僕はここに目標を書き出す、というおぞましいことをします。目標、という言葉は苦手ですね。大抵の場合、それが第三者によって押し付けられてしまうものだからなのかもしれません。
1.[悪気のない日記]を毎日書く。
2.上記の習慣が途絶えてしまっても自暴自棄にならないでまたやり直す。
この二つをせめて一週間くらいは続けてみようと思います。(続かなかったらいやだなぁ)
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