何かしらの価値を実現しないといけないのですか?
この話をすると、いつも喧嘩になる。特に、何かを頑張っている人に対してこのことを話すと、必ずと言っていいほど不穏な空気になる。
それは、「どうして頑張らなきゃいけない?」という話だ。あるいは、「どうして目的を持たないといけない?」という話だ。
□
東大には(意識しているかどうかは別として)自分のことを『エリート』だと思っている人は多い。何かしらの目的を持って、それを成し遂げようと日々努力している。そんな人たちに、僕が上に述べたような問いを投げかけると、おかしな空気になってしまうことが多い。とても、とても、多い。彼らは「お前は”こちら側”だと思っていたのに」とでも言いたげな目で僕を見る。すみません、僕はどうも違うみたいなんです。
彼らは「目的を持たず、ただ、ダラダラと生きている人間が嫌いだ」とも言う。「そうですか?」と僕は尋ねる。何の悪意もなく、ただ、好奇心で聞く。そうすると、相手はギョッとしたような表情を浮かべる。
□
ここから先は、僕の個人的な見解になる。もしかしたら、酷く間違っているのかもしれない。間違っていると思ったのなら、コメントか何かで教えていただけるとありがたいです。このことに関して、僕はいつも何が正しいのか分からなくなる。そして、本当なら対立したくない人たちと対立してしまう。
□
エリート意識のある人間の多くは、そうでない人間——つまり、目的を持たず、ただ惰性で生きて、周囲に文句を垂れ流すだけの人間——に対する強い嫌悪感を抱いている。そして、その嫌悪感を動機づけとして再利用している。これが僕の個人的な仮説だ。そのことを言うと、彼らの大半は「そんな事はない!」と怒る。その苛立ち方は、まさに「図星をつかれた人間」のそれにしか見えない(申し訳ないけれど)。
もちろん、彼らが、非エリート達への嫌悪感のみを動機づけとして頑張っているとは思わない。しかし、彼らは決して無視できないほどの割合で、それを利用しているように思えるのだ。
もっと幼稚に(元も子もなく)言ってしまえば、僕から見ると彼らは「何かを我慢している」ように見える。それゆえに、我慢していない人たちに「我慢ならない」。口先では「自分のやりたいことをやっている」と言うのだが、本当に楽しんでいるようには見えない。どう見ても、何かの加減で偶然、仲間外れになってしまった小さな子供のように見える。
その子(Aくん)は、楽しげに遊んでいる子たちの輪になかなか戻れない。みんなは今の遊びに夢中で、仲間外れになっているAくんには気づかない。そのうち、Aくんは楽しそうな輪に戻るのを諦める。そして、以下のように思い込む。それによって、心理的なバランスをとる。
「僕はみんなと輪になって遊ぶより、一人でいる方が好きだ」
それだけならまだいいのだが、さらにこのように思う。
「輪になって遊んでいる連中なんて、低レベルだ」
そんな勘違いの社会序列化(と、それに伴う優越感)が孤独なAくんの心の支えになる。そんな『エリート』が東大には多くいる気がする。彼らはそんな”勘違いの社会序列化”の中で、自分本位の上昇志向を持ち、その枠組みの中で一生懸命に努力をしている。言いかえれば、何かしらの価値の実現のために様々な我慢をしている。そして、我慢していない人間(惰性で生きている人間)を軽蔑する。その上で、「あんな風にはなりたくない」とさらに頑張る。
□
こうしたあり方には、どこか強迫的な匂いがしませんか?
□
同じ匂いを、僕はテレビによく出てくるような有名教授にも嗅ぎ取る。いや、基本的にメディア露出の高い有名教授ほど、そうした傾向が強いように思う。そういった『エリート』はやはり、『非エリート』たちを軽蔑しているようなところがある(気がする)。表では決してそんな事を言わず、人当たりの良い知的な人間を装っているけれども、ふとした時に、言葉の節々に、そうした匂いを嗅ぎ取る。
そんな時、僕は彼らの根本的な動機に”仲間外れになった寂しさ”を感じる。かつて、この記事に書いたものと同じ寂しさだ。
誤解して欲しくないのは、僕は彼らを決して嫌ってはいない、という事だ。場合によっては、とても魅力的な人間に思えることもある。ただ、見ていて辛くなることがある。
<そのうち、この記事には続きを書くかも>
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?