[悪気のない日記]2020/8/22
今日は”先生”について考えてみようかと思う。
まず、僕の立場を明確にしておこうと思う。僕は、学校の先生の九割くらいが嫌いだ笑(学校に限らないかもしれないな)
とかなんとか言ってはいるけれど、ちなみに僕の父親は国語の先生だし、母親は英語の先生だ。そして、僕自身、塾講師を初めてもう三年になる。
そんな人間が「先生という人間が嫌い」っていうのは、少々スキャンダラスかもしれない笑
あ、「スキャンダラス」って言葉は教師っぽくないな。「醜聞的」と言っておこう笑
まず、学校の先生が嫌いだったのはなぜだろう?と考えてみる。そして、十五歳の頃に(これまで生きてきた中で最も病んでいた時期だ)書いた日記を読み返してみる。その頃、僕は目に入るものの九割くらいを嫌っていた。もちろん、先生だって嫌いだった。(あ、ちゃんとした理由が見つからない笑)
ということで、もうちょい遡る必要がある。小学生の頃、僕が学校の先生を(そして、親を)嫌っていた理由は明らかだ。それは「楽しいこと」を禁止し、「楽しくないこと」をやらせてくるからだ。
もちろん、僕は反発した。しかし、そこで納得のいく説明が与えられることはほとんどなかった。口だけは達者だったので、大抵の大人を僕は論理で言い負かしてしまっていた。いや、言い負かすというのは正しい評価ではないかもしれない。最初から口論という関係性になっていなかった、というのが正しいだろうか。僕が何かを語ろうと口を開くと、すぐに「黙って従え」だった。(まともに口論して僕に勝てる大人はほとんどいなかったし、そういう大人は僕に「楽しいこと」をしてもいいと言った。)
中学生に上がる頃、僕の中には一つの仮説が出来上がっていた。それは「学校の先生のほとんどは頭を使っていない」というものだ。(ひどいね笑)
僕は基本的に授業を聞いていない生徒だった。必要な知識のほとんどを本から仕入れた。そんな風に本を読んでいくと、所々わからないところが出てくる。近くにたまたまいた先生に尋ねてみる。答えが返ってきたことがほとんどない笑
どうやら、彼らの大半は予め聞かれる内容が分かっていない限り、答えらしい答えを思いつくことができないらしいのだ。それどころか、考えるということすら、やり始めないようだ。
「使い慣れない形で頭を使うことが嫌だ。すでに自分の頭は○○でいっぱいなのだ」
そう言っているように僕には見えていた。
そんな風に過ごしていく中で、僕はなぜか成績だけは伸びていった。(ごめんなさい)
ここで書くのをやめてしまうと、ひたすら学校の先生の悪口を並べたてただけになってしまうので、塾講師として働いている僕がどのようなあり方になってしまっているのか述べておくのがフェアというものだろう笑
そもそも、大学生になりたての頃、僕は「塾講師や家庭教師だけはやらないぞ」と決めていた笑。そして、飲食店のバイトや、婚活パーティーの運営スタッフ、外国人向けのフードツアーのガイドなど、とにかく目に付く限りの仕事に手を出して行った。
そんな中、たまたま大学の先輩の頼みで臨時の塾講をしたことがあった。その頃には、「ま、ちょっとくらい塾講師をやってみるのもありか」なんて思えるほど丸くなっていたのだ。
そして「四日間だけだ」と思ってやってみた塾講師だったが、どうも僕に向いている仕事らしい、ということが分かってしまった。校舎長のおっさんや、生徒たちまでもが、僕のことを気に入ってくれたのだ。(もしかしたらお世辞を言ってくれてただけだったんだろうか?笑)
それでちょっといい気になっちゃった僕は、それからずっと塾講師をしている。塾講師に慣れていく中で、僕はどんどん変な方向へと進んで行ってしまった。
僕は、今では自分のことをかなりダメな先生だと思っている。「これだけは説明しなきゃいけない」という物事をすっ飛ばしてしまうし、授業時間は大抵オーバーしてしまうし(開始時間が遅かったり、、、笑)時には宿題を出すのを忘れる。それでも、生徒が高校生以上であれば大して大きな問題が起こらない。(中学生以下の場合は起こる)
ただ、今年に入って、コロナ騒動があり、僕は臨時で中学生のクラスを持ってほしいと頼まれてしまった。もちろん、クラスはうるさくなる笑
隣の教室から他の先生がチラッと見にきちゃったり、場合によっては校舎長が乗り込んできたり笑
しかし、本当にまずいのは、そうやってクラスが騒がしくなっている時、僕もまた生徒たちと一緒に騒いでしまっているということだ笑(お前、止めろよ、と後から自分で自分にツッこむ笑)
「先生という感じがしない」
「新山先生は、先生じゃない」
そんなことをよく生徒に言われるし、実際、その通りなのだろう。あるいは、同僚の先生からは、僕は厳しい先生だと言われる。「自己責任」で冷たく切り捨てるタイプだと思われているのだろう。校舎長からはしょっちゅう睨まれる笑。でも、僕は僕で便利な存在なので、クビにはできないようだ。
そんな僕にも二つだけいいところがある。そのうちの一つは、即興性だ。僕は、社会以外の科目であれば、どの科目でも明日、高校三年生を相手に授業らしいことをすることができる。
もう一つのいいところは、個別指導において、特に「難しい子」の相手をすることができる、という点だ。
僕に言わせれば、「難しい子」の多くは「難しく」ない。(時々、本物の「難しい」子に出くわすことがある。そのことについてはまたいつか書こうと思う)
大抵の場合、先生たちがこっそりとやましい噂話でもするように耳打ちする「難しい」が意味するものは、単に「扱いにくい」というだけのことだ。
そういった子が扱いにくいのは、その子が独自の考えや世界観を持っているからなわけで、そういった世界観を抱えるだけの能力を持つ子は、その世界観を否定しないような形で新しい何かを提案していくと、驚くほど伸びる場合が結構ある。
こちらから理解を求める前に、まずは相手を理解すること。そうするだけでいいんだけど、意外とめんどくさがる人が多い。(僕はそういった独特の世界観に触れることが好きなので、この手の面倒ごとは苦にならない)
僕は、生徒と仲良くなろうと努力をしたことはない。むしろ、距離を取ろうと頑張ってきた。
「こう見えても僕は”先生”なんだぞ、忘れてるだろ」と何度言ってきた事か。
それでも、気がつけば変なことで生徒と盛り上がってしまう。(そして、校舎長が乗り込んでくる笑)
僕たちだって 歳喰った子供に過ぎない
寝る時が近づけば むずかるんだよ
これはルイス・キャロルの詩だ。僕はそんな感じの先生(?)なのかもしれない。
とても立派な先生とは言えないだろう(むしろ逆だろう)。それでも一つだけ自信を持って言えるのは、今の僕のような先生を子供の頃の僕は求めていただろうということだ。(そして、僕のような生徒は一定数いるだろう)
こんな人がちょっとくらいはいてもいいと思うわけです。(ただ、なるべく高校生以上を教えた方がいいわな笑)
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