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[悪気のない日記]2020/8/23

 タトゥーについて、今日は考えようかと思う。

 タトゥーに限らず、身体改造をテーマにした小説や物語はたくさんある。例えば谷崎潤一郎の『刺青』。彼によればこの作品こそが処女作なんだとか。あるいは金原ひとみの『蛇にピアス』

 こういった作品を読んでいく中で、タトゥーについてのぼんやりとした理解を掴んでいるのか、掴んでいないのかよく分からない状態になっていたのだが、ある時、タトゥーを入れた女の子とじかに話したことで、そのイメージは急に具体性を帯始めた。


 二年前の春、僕は引越しの手続きをミスしたせいで二週間ほどホームレスになった。(こういう致命的なミスを僕は時々やらかす)
 その二週間を僕は友達の家やちょっとしたゲストハウス、ドミトリー等で過ごした。また、山奥で一人キャンプをしたりもした。

 そんな風に転々と過ごす中、僕は、僕と同じように転々とする女の子と知り合った。その子は知り合って三日ほどが経ったある日、突然タトゥーに関わる話をしてくれた。

 どうして彼女がそんなに踏み込んだ話をしてくれたのかは分からない。もしかしたら、僕には”王様の耳はロバの耳”に出てくる穴のような才能があるのかもしれない。あるいは、彼女は知り合った人みんなにその話をしているのかもしれない。もしくは、その時僕らが二人きりでいた空間が、妙にホーム・ムービーっぽかったからなのかもしれない。

 彼女がタトゥーに関わる話をしてくれた時、僕らはとあるドミトリーの供用スペースにいた。その四畳半ほどの家庭的な空間には、僕とTさんしかいなかった。

 Tさんはトースターを睨みながら食パンが程よく焼き上がるのを待っていた。僕はカップ麺に湯を注ぎ、四分が過ぎ去るのを待っていた。僕はいつの間にか彼女の右肩に入っている蔓草模様を(そう、それは確か植物だった)見つめていた。

 食パンを指先で取り出しながら、Tさんは「気になる?」と言った。僕は「少しは」と言った。Tさんはちゃぶ台を挟んで僕の向かい側に座り、「父から決別するために入れた」と言った。

 Tさんは父親から暴力を受けていた。その暴力の細かい内訳について、彼女はそれなりに丁寧に説明をしてくれたのだが、僕の理解が追いつかない種類のものも多かった。それについてはここには書かない。書けないのだ。僕の文章によって表現できる範囲を超えている暴力だ。ちなみに、母親についての話がその口から出ることは一度もなかった。もちろん、これほどセンシティブな内容について僕が自ら首を突っ込んで尋ねることなんてできない。(やってはならないだろう)

 そういった環境から彼女が抜け出たのが三年前とのことだった。それから彼女はいわゆる水商売をしながら転々と生きてきた。そして、ほとんど着の身着のまま家を抜け出して一年ほどが過ぎたある日、家に帰りたくなっている自分に気づいたのだと言う。

 戻ったらタダじゃ済まないだろうし、次にそういった環境から抜け出せるのはいつになるか分からない。それでも、彼女は「戻りたい」気分になっていたのだ、と言った。自分と父との間には歪な繋がりがあり、それがまるで強固な鎖のように彼女を手繰り寄せようとしている。

 そうした繋がりを断つために、彼女はある種のイニシエーションを必要とした。

「この段階を経れば、もう元には戻れないのだ」

 そういうイニシエーションだ。

 彼女は「文字通り、心身に新しい自分を刻み込んだ」と言った。それから二年間、彼女は転々と過ごしてきた。

 この話を聞いた後で、僕は恐る恐る、「Tさんみたいな人をかくまってくれる施設が世の中にはたくさんあるのだ」ということを説明した。彼女は「知っている」と言った。それでも、そうした機関を頼りたくはないのだ、と言った。そして、その理由も話してくれた。

 彼女ははじめ、「何かに頼る」ということは「その分だけ自由を手放す」事になる。それが嫌なのだ、という意味合いのことを言っていたのだが、やがて、「そんな”普通の環境”が自分の肌に合わない気がする」というところに落ち着いて行った。僕の頭の中には、フリードリヒ・ニーチェの言葉が浮かんでいた。

「昼の光に、夜の闇の深さが分かるものか」

 もちろん、そんなことは口に出して言わなかった。彼女は深刻な話題について話しながらも、その口調は常に陽気で、淡々としていた。僕は彼女が時折見せるガムスマイルに見惚れていた。その中心にある強さに憧れたのかもしれない。

 彼女はトーストを食べ終え、ちゃぶ台の上のパンクズをかき集めると出かける準備を始めた。僕は伸び伸びになった麺を処理して、やはり出かける準備をした。特に用事も無かったのだが。



 彼女が今、どのように過ごしているのかは全く分からない。同じ生活を続けているのかもしれないし、どこかの時点でより生きやすい環境に移ったのかもしれない。

 僕はふと、彼女の肩に巻きついていた蔓草模様を思い出す。アルハンブラ宮殿の壁に描かれているような。
 それは複雑に入り組みながら、建物の全てを覆い尽くしてしまうのではないかと思えるほど、広がっている。


 塾講師を続けていると、「タトゥーを入れようか迷っている」という相談を生徒にされることがたまにある。その子は、常識的な答えを僕に期待していない。この人なら、「やめとけ」の四文字で片付けはしないだろう、そう言いたげな目で僕を見る。

 それでも僕は「入れた人の9割くらいは後悔するらしいよ」という客観的事実を淡々と伝える。肩透かしを食らったような顔をされる笑。

 そこで僕は必ずこう言うことにしている。

「一週間くらい、タトゥーシールを貼ったまま過ごしてみたら?それでもタトゥーが必要なら、入れてみたらいいんじゃない?」

 今のところ、本当にタトゥーを入れたという話は聞かない。


 僕がイニシエーションとしてのタトゥーを見たのはその一回きりだ。(他には腹部に"VEGAN"と彫ったオーストラリア人の女の子と話したことがあるくらいだ。そのことについてはまたいつか書こうと思う)

 自分が嫌で嫌でたまらなくなった時(たまーにそういうことがある)、僕はTさんのことを思い出す。僕もまた、元には戻らないぞ、という決意の証としてタトゥーを刻んでしまいたくなる。
 それでも、今のところ、その一歩を踏み出したことはない。僕は新しい自分を目指しつつも、元の自分にずるずると逆戻りする。そして、現状の自分に飽きてきたらまた新しい自分を目指し、再び挫折する。そんなことをもう何年も繰り返している。あと60回くらい繰り返せば人生が終わるのだろう。

いつか、そんな自分に心底愛想を尽かしてタトゥーを入れるんだろうか?

 


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