[悪気のない日記]2020/8/13
夕立から逃れるようにマックに入り、文章を書いている。マックの窓の外を注意深く見れば、僕の住むアパートに直接つながる電線が揺れるのが見える。雨粒がその線を伝わり、一定のリズムで落ちている。
どうして雨宿りのために家からほんの数十秒の距離のマックに行かねばならないのか、と言うと、それは僕が鍵をなくして閉め出されてしまったからだ。
またやらかした。
僕は、物持ちはいいはずなのに(例えばスマホは六年半同じものを使い続けている)忘れ物が多い。致命的な忘れ物に気づいた時には随分と鬱屈した気分になる。この鬱屈とした気分のために夕立の幻を見ているのではないか、なーんて思ってしまうほど、鬱屈した気分になる。
今日は鍵について書いてみようかと思う。僕は、基本的に鍵というものを(そして、そこに関わる様々な事象を)憎んでいると言ってもいいのかもしれない。こんなことがあるたびに(いや、なくても)鍵ってめんどくさいな、と思う。それは、僕が性善説であり、セキュリティ・コストを忌み嫌うから、というだけではない。(もちろん、そうした理由もあるけれど)
僕が鍵を嫌っている一番の理由には一般性がない。極めて個人的な話だ。僕はこれまで、一度も鍵に守られた覚えはないし、むしろ通せんぼされたり、なんだか損した気分になったりしたことしかないからだ。つまり、鍵が僕の生活にもたらしているメリットとデメリットを天秤にかけ、冷静に測ってみたらデメリットの方が圧倒的に多くなるような気がする。
高校生の頃、僕はマスター・キーホールの寮部屋に住んでいた。マスター・キーホール、という言葉には説明がいるだろう。僕の部屋の鍵は壊れていて、その寮に住む誰の鍵でも開いた。一方、僕の鍵でみんなの部屋が開くか、というとそんなことはなかった。(不公平だ)
そんな僕の部屋の鍵穴を「マスター・キーホール」と僕は呼んでいた。
さて、僕は今と変わらずおっちょこちょいなので、時折鍵を無くしたりした。置き忘れたり、道端の猫に持っていかれてしまったり。(信じられないだろうけれど、そういうことが実際にあったのだ)
そんなことがあっても、ただ、近くの部屋にいる友達の鍵を借りて部屋の中に入ることができた。そのおかげで鍵を無くして困ることはあまりなかった。
ちなみに、誰の鍵でも開くなら、鍵を閉めたって意味がない、と思う人も出てくるだろう。その通りだ。僕が部屋を施錠していた唯一の理由は、施錠することが寮則だったからだ。それ以外には何もない。
鍵って、本当に必要なものなのだろうか?必要だと思われているだけなのではないだろうか?
鍵を落とすたびにため息をついて考える。自分でもバカらしいけれど、本当に、ただこれだけのことで随分と気分が落ち込むのだ。
そろそろ夕立が終わる。鍵を探して本日のルートを逆走していきましょうかねぇ。
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