note投稿の次なる動機
noteを投稿し始めた本来の目的は、noteのようなSNSを扱う人物を小説の中に登場させてみたかったからだ。そして、その小説を書き終えた今、note投稿という骨の折れる営みを支えていた動機は失われた。
それでも、僕は今、こうしてnoteを投稿している。そこには新しい動機がある。
その動機を掘り下げていくと、やはり、「他者を理解したい」ということに尽きる。
僕自身は他者に対して理解を求めない。部屋に引きこもって物語の中にある豊かな世界に触れていればそれで十分だ。白黒の部屋のメアリーのように、生まれて一度も赤色を目にしたことがなかったとしても、赤色に関するあらゆる物事を白黒の文字情報で取り入れることができればそれで十分だと思ってしまいがちな人間だ。
ちなみに白黒の部屋のメアリー(Mary the super scientist)という思考実験は以下のようなものだ。
メアリーは生まれた時から白黒の部屋の中で過ごしている。その場所で、彼女は赤色に関する様々な知識を吸収する。光の正体が電磁波で、その波長が700nmあたりなると、人の視細胞の中の赤錐体が活動電位を下げ(上げ?)それが『赤色』として認識されるのだ、などなど。
そんな風に『赤色』に関するあらゆる知識を仕入れたメアリーであるが、しかし、一度も白黒の部屋の外に出たことがない。つまり、赤色を直にみたことがないのだ。
さて、メアリーは赤色を『知っている』と言えるのでしょうか?
これが白黒の部屋のメアリーの概要だ。小説についても同じことが言えるだろうと思う。例えば、近しい者の死を描いた小説は山のようにある。そして、僕はそんな小説をたくさん読んできた。しかし、僕自身は身近にいる誰かを失った経験がない。
それだけではない。小説の中で描かれている物事の大半を、(当たり前だけど)僕は経験してはいない。さて、僕は本当に小説を「読めている』と言えるのだろうか?
自身の経験をなぞらえるように(あるいは、そこに新しい解釈を付け加えるように)小説を読む、というあり方もある。でも、僕がそれをするにはあまりにも僕自身の経験が貧弱だ。
僕はどのように小説を読んでいるのだろうか?
不思議なことに、僕は昔から様々な出来事について既視感のようなものを感じる。あれ?どこかで似たようなことなかったっけ?という感覚だ。あるいは、こうなることを知っていたような気がする、という感覚だ。その感覚は、僕自身の経験を小説が先回りしている結果として生じたものなのかもしれない。
話をタイトルに戻す。
僕は、紆余曲折を経て人間同士が理解し合うという小説をたくさん読んできた。逆立ちしたって理解し合えないという小説も読んできた。僕はそろそろ、小説による代理経験ではなく、僕自身の人生における実経験のようなものを得たいという段階に来たのかもしれない。白黒の部屋のメアリーでいることに、どことなく不満を感じてもいるのだ。
そうやって白黒の部屋を出たところで、”理解し合える”という経験をするのか、”理解し合えない”という経験をするのかは分からない。ただ、どちらも僕自身の実経験である。
他者と理解し合えるのか、あるいは理解し合えないのか。それを確かめるための第一段階として、自己開示をする必要がある。それがnote投稿の次なる動機だ。
もし、誰かが僕に内面を曝け出してくれたところで、僕は逃げ出さずにいられるだろうか?と自問自答する。逃げ出さない自信がある、と言いたいところだが、やはり、その時になってみないと分からないのかも知れない。
僕自身もそうなのだが、風変わりな人間ほど自分の表面を常識で覆ってしまおうとする。それでも、完全に覆い隠すことはできない。ふとした瞬間に、垣間見えてしまう。その時、僕はこのように思う。
「内側に面白い世界を抱えているのだろうなぁ。それを僕に開示してくれたらいいのに」
しかし、それは叶わない。僕自信がそもそも、自己開示を行わないからだ。当然、相手に求めることもできない。筋が通らない。
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