[悪気のない日記]2020/8/12
思ったことを、思ったまま自由に書く。徒然なるままにひぐらし〜というように。これまで僕一人の内部で閉じていたものを一時的に開いてみようかと思う。そうすることに何かしらの目的意識があるわけではない。生きることそのものに特に目的がないように、文章を書くことにも特に目的はない。マックス・ウェーバーの社会行動四類型で言えば、単なる習慣的行為として、僕は文章を書く。それをnoteとして公開してみるのはただの気まぐれだ。
さて、僕には悩みがある。それは、「僕が廃墟を好きであること」だ。どう考えても健全な趣味ではない。まだ、アイドルにゾッコンハマっている方がマシだと思われる。
特に僕が崇めている(と言っていい)ブログがある。それは
というブログだ。このブログの写真を見ていると、「あぁ、分かっているな」と思わせてくれる。このブログの写真を撮っている人は、廃墟そのものが好きなのだ。そして、たぶん、僕と同じように廃墟が好きなのだ。
大学生になりたての頃、僕はいくつか廃墟を愛する人たちの集まりに顔を出してみたことがある。しかし、どうしても馴染めなかった。そこには方向性の違いが明確にあったからだ。本当に指で触ることができそうなほど、くっきりとした断絶があった。
廃墟を好きな人たちは、大きく分けて三種類いるだろうと思う。一つ目は心霊的なものを好む人たち。そして、廃墟を恋愛関係のスパイスとして利用する人たち。そして、廃墟そのものを愛す人たち。
僕は三つ目のグループに属しているだろうと思う。小学生の頃からよく廃墟に一人で行っていた。近所の山に(僕は田舎出身なのだ)廃神社がある、という噂を聞きつけた週末、僕は一人でその山を歩き回り、鬱蒼としげる低い木々や、高い草々の中に色あせて傾いた鳥居を見つけた。中学生の頃は、嫌なことがあるたびに廃ホテルに入った。そして、その場所に残る柱時計の振り子を指で揺らしていた。
そうした廃墟を歩きながら、僕が味わっているものは何だろう?と時々考える。それは、
その場所にある名残り
その場所にいた人が残していった痕跡
途方もない時間の流れ
そうしたものが凝縮された経験、だろうか。僕の理性には納まりきらない何かが、強く僕の胸をうつ。
一応、もう少し細かく書いてみようかと思う。廃墟そのものを好む人の中にも、「歴史的な流れの中に位置付けられる、ある種のモニュメントとしての廃墟」を好む人がいる。僕はそうではない。僕はもっと具体的な想像を好む。例えば、廃ホテルの部屋全てに、一脚ずつ椅子が残っているとする。その椅子が最後に果たした役割は何だったんだろう?なんていう想像を好む。具体的で、局所的だ。そこには抽象化も一般化もない。
廃墟をめぐる団体に、それでも我慢して着いて行ったことが一度だけある。(何事につけ、食わず嫌いはよくない。)そのグループは肝試しとして廃墟を利用していた。恋愛関係のスパイスとしても(要するに吊り橋効果的なものとしても)使っていた。男女1組のペアでそこを周るのだ。
僕とペアになった子は、相手が僕だということに強い不満を抱いているようだった。ごめんなさい笑
まぁ、僕としてはそんなこと、どうでもいいのだけれど笑。その子は、何かしらの物理的刺激を受けるたびに妙な叫び声をあげた。本当にうるさかった。静かにしてくれないかな、と僕は思っていた。廃墟では神妙にすべきなのだ。そこにあったはずの痕跡をなぞりながら、想像を膨らませて行くことに喜びがあるのだ。
もちろん、そんなことは口に出して言わなかった。どう考えても、廃墟そのものが好きだ、というのはまともじゃない。それよりは、廃墟をダシにして恋愛を楽しもう、ということの方がまともだ。
僕は廃墟が好きだ。どうしてかは分からない。そのことで僕も困っている。もう少しまともな趣味があれば、僕の寂しさは(ちょっとくらい)種類を変えるだろう、と思う。
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