[悪気のない日記]2020/10/2
ずいぶんと久しぶりになってしまったnoteの投稿。忙しかったから、というわけでもないし、心が重たかったから、というわけでもない。ただ、小説を書いていただけです笑
※わりと攻撃的なnoteになってしまった気がするので、そのうち有料結界を張るかもしれません。
話がずいぶんと飛んでしまうけれど、ここ最近、僕の頭の片隅に浮かび続けている”かなとこ雲”について今日は書こうかと思う。それ以外の何かを書ける気がしない。
僕は10月いっぱいで塾講師をやめる。およそ三年ほどやってきた塾講師だ。
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※ちょっとばかし「教育」に関わる領域の話をするので、最近のミモザさんのnoteに言及させていただこうかと思う。
僕は基本的に「教育格差については語らない」という方針をとることにしている。ただし、語ってはならない、という立場をとっているわけではない。もしも語るなら全力で語るべきだし、そうでないなら、口をつぐむべきだ、と思っているだけだ。なぜなら、教育格差とその深刻さについて書いた物事を読むのは決まって「教育熱心」な親たちであり、やり方をかなり工夫しないことにはさらに分断を推し進めてしまう、という方向に作用すると思っているからだ。格差や分断の是正を目的として書かれた記事の大半は、その目的の正反対の方向に作用するのではないか?であれば、中間的なあり方をとるべきではない。やるなら徹底的に。やらないなら徹底的に。
そのように思っている。少なくとも今月で塾講師を辞めて、それっきり教育に関わらないであろう僕は、そのことについては口をつぐんでおくべきかなと思う。(このあり方には賛否両論があるだろう、とは思いますが。)
教育格差について書かれた書籍の中では、幅広いデータで示した松岡亮二さんの本がよかった。本当に読み応えのある本だったと思う。主観的になりがちな教育論に、データで客観的に挑む。確か、松岡氏も「データ収集」を出発点として掲げていたように思う。そして、僕が今書いたような「教育格差について語ることのジレンマ」を後書きに添えている。ぜひ、見かけたら立ち読みをお勧めします。(内容はかなり難し目よりなのかな。ずいぶんと硬い感じの本です)
教育格差 (ちくま新書)
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大学生になりたてのころ、僕は「先生」と名のつく仕事だけにはつくまいと考えていた。僕がかつて、「先生」と名のつく人たちの90%までを深刻に嫌っていたからだ。(その90%の中には僕の両親も含まれる。)
「先生」という人種は、成績表の数字だけで人を判断する(それでしか判断できない)人たちだと思い込んでいたし、そのあり方は、今でもそれほどには変化していない。ただ、そうしたあり方を(そして、そうしたあり方をする人間が大半であるという現実を)受け止められるようになったというだけのことだ。
僕は基本的に学校の授業を聞かなかったし、宿題もやらなかった。テストだって無視することが多かった。そのために「劣等生」のラベルを貼り付けられることが多かったが、ある時、僕は何かしらの全国模試で(河合塾全統記述模試か駿台全国模試のどっちかだった。どっちだったかは思い出せない)で七番をとり、それ以来、先生たちが(そして親が)掌を返したように「お前は、そのやり方でいい」と言うようになった。
そう言われた時、僕の内部から激しい怒りが湧き上がった。やはり、成績表の数字でしか僕を判断しないのだ。彼らは「肩の上がちょっと寂しい」というだけの理由で頭を乗っけていて、それが使えるものなんだということを知らないらしい。(思いつきもしないらしい)
僕はそのように思った。なぜなら、僕のあり方はその成績をあげる以前と以降で何一つ変わってはいなかったからだ。変わったのは模試の成績。全国模試成績優秀賞の図書カードをもらっただけだ。
そんな奴らが「お前のためを思って言っているんだ!」という手垢にまみれたフレーズをマントラのように唱えながら、様々な物事を押し付けてきていたのだ、と思うと、本当に腹が立った。お前のため?僕と、それから世の中の何を知って「お前のため」なんて軽々しく言ってるんだ?
そんな素敵な思い出があったので、僕は「先生」と名のつく仕事だけはするまい、と思っていた。僕が、あんな集団の一員になるなんて考えられなかった。
でもまぁ、ふとしたきっかけで塾講師を単発でやってみた結果、どうやらその仕事が自分に向いているらしいということが分かってしまったので三年も続けてくることになった。
さて、僕は今月でこの仕事を辞める。これから先、再びこの仕事につくことはないと思っておいた方がいいだろう。
あと三回の授業で、僕の塾講師人生は終わる。それまでに、僕は伝えるべきことを伝えられるのだろうか?
もちろん、ニコラス・ルーマンの言うように
「教育は教育意図を超える」
だから、僕があれこれと頭を捻ったところで、何一つ意味のあることを成し遂げられないのかもしれない。それどころか、僕の発言はマイナスに作用するのかもしれない。かつての先生たちが、僕に対して振る舞っていたのと全く同じことが起きるのかもしれない。
それでも、僕は彼らに、ある種の「心構え」のようなものを伝えたいと思わずにはいられない。
「これから先、君らはきっと山ほど嫌な思いをしていく。そして、同じくらいの数の後悔をしていくと思う。」
そういったところから僕の話は始まるだろうと思う。そして、それでも「まともに」生きていくための心構え(僕自身がまともな人間であるのかどうかはさておき)を伝えずにはいられない。
もしかしたら、僕がそこで伝えるのは「幸せになるための知恵」ではなく、むしろ「不幸になる知恵」なのかもしれない。どうなんだろう?僕のやろうとしていることはやはり、独りよがりの正義感に満ちた、とるに足らない自己満足なのだろうか?
僕は「不安」について語らなかった。それは、僕なりの原則のようなものだった。僕はそれを塾講師をする間中、貫き通したと思っている。
ちなみに、ほとんどの先生は、生徒に勉強をさせるために「不安」「恐怖」といったネガティブな情動を利用する。
「勉強しないと将来困るぞ」
「落ちこぼれると孤独だぞ」
「あんな風になってもいいのか?」
「生きていくためにはそれくらいやらないといけないぞ」
「立派な人間は、、、、」
いくらでもこんなセリフが並ぶが、これらは差別意識と表裏一体だと僕は思う。これらの言葉で成績の上がった子は成績の悪い人を見下すようになるし、成績の上がらなかった子は自己否定に陥る。
僕が全力で推していたのは学問そのものの面白さだった。その奥深さや、世界の広がりだった。しかし、このあり方は本当に正しかったのかと言われると、、、自信を持てない。
あと三回だ。その三回を、僕なりの全力を尽くして過ごすしかない、というありふれたポイントに再び立つことになる。(これで何回目なのかは覚えていない。)僕は、本心の部分で、彼らには幸せになって欲しいと思う。(そう思うことが、何一つ有効性を発揮しないのだとしても、そう思わずにはいられない)
ただ、人を幸せにするという試みは、極めて難しい。努力や、意志よりも偶然の方が遥かに大きな影響力を及ぼすことだって珍しくない。大体、結婚して一人の女性を幸せにしようと努力しても、それが叶わないことの方が多い世の中なんじゃないだろうか?(結婚したことないので知らんけど)
ましてや、ほんの少しの時間を共にした彼らの幸せを願うことは、、、
ずっと、この不安が頭の片隅にある。
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