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モテている人を手に入れた喜び[恋と似て非なるもの2]


「世界中が君を嫌ったとしても、僕は君が好きだ」

(あれ?もしかして僕は今、かなりクサイことをいきなり言っちゃったのだろうか?笑)

 スロヴェニアのユーモラスな哲学者、スラヴォイ・ジジェク(どうもジャック・ラカンを継承しているらしい)は、こんな小話を挙げています。(なんて本だったか、どうしても思い出せない。知っている人がいたら教えていただきたい。ぜひ、読み返してみたい)

「もし、無人島で絶世の美女とセックスをしたとする。男はそれだけでは満足できない。セックスが終わった後に、目の前にいる美女に男友達の変装をしてもらい、『俺は絶世の美女とセックスしたんだぜ』と自慢話をする必要がある。それで初めて満足することができる」


 どうやら、承認欲求はあらゆるものに結びついてしまうようだ。恋愛感情とて、例外ではない。

「こんな美女とセックスしたんだぜ、すげ〜だろ」

「これまで n 人とやったんだぜ、すげ〜だろ」

「俺には0.1くらいの関係性の女子が10人いる。足し合わせれば一人の彼女がいるも同然なんだ!」

 三つ目はちょっとばかしズレているけれど笑。どのセリフもよく聞く自慢だ。あからさまな形で表現されることこそないものの、よく見かける。それこそ、本屋さんに行けばそんな感じの帯が目に付く。(いやでも目につくような場所に置いてあったりする。おそらく、よく売れるからなのだろう。)

 こんな風にモテている人をゲットし、周囲に自慢して回ることには快感がつきまとう。それを恋と見間違うことがたまにあるようだ。

 それが長じていくと、やがて、バートランド・ラッセルのようになってしまうんじゃないかと思う。
 バートランド・ラッセルはイギリスの哲学者で、ノーベル文学賞も受賞しているし、平和活動家としても名高いのだが(そういう、文句なしの外面を持つのだが)私生活はひたすら荒れている。支配欲と性欲が結びついて、混じり合って不可分になってしまったのか、彼は次から次に女性を征服し、征服したそばからせっせと捨ててしまっている。その手が触れた瞬間に、対象の輝きは失われてしまうらしい。
 おまけに、手を出す対象ってのが、知人や友人の妻だから、、、


結論じみたもの

 そういうわけで、僕は冒頭のクサイセリフに帰るわけだ。

「世界中が君を嫌ったとしても、僕は君が好きだ」

 そんな風に、心の底から言えるのが恋だと僕は思う。少なくとも、僕にとっての恋の原体験はそうであった。

※もちろん、どちらかといえば、僕の方がより世界から嫌われちゃいそうな人間だった。僕が初恋をした相手の名誉のためにも、そのことだけはことわっておく。芯から優しいその子を嫌うのは、はっきり言ってどこかこじれたところのある奴ばかりだった。


以下、個人的な体験を書くので後に有料結界を張る。

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