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雲の上の話

その人の記憶力には恐れ入る。
幼稚園の頃の友達との会話を逐一覚えているし、中学校の理科の授業で先生が炎色反応の説明をしていた様子もついさっきのことのように話す。
あまりの記憶の鮮明さは、「覚えている」のでなく「忘れられない」と言ったほうがよく、嫌な記憶に苦しめられることもある。そう考えれば一種の記憶障害というか気の毒な個性なのかもしれない。
その人は、昨日のことでもすっかり忘れていることがある僕がうらやましいと言う。それは半分嫌味で半分正直な気持ちだろうと思う。

記憶力の良すぎるその人は、生まれる前のことまで覚えている。そういう人は他にもいるようで、生まれる前は雲の上にいて、母親を選んで生まれてきたとか、概ねそんな話だ。
その人の話も似ている。雲の上の、なんだかふわふわしたところにたくさんの子供と一緒にいたのだそうだ。何人いるのか分からないが子供の集まりがあって、一人のリーダー的な大人がおり、羊飼いのように子供たちを先導していたらしい。
その大人は神様?と聞いたら「そうだったかもしれないけれど、そのときはただの集団のリーダーくらいにしか思っていなかった。子供をわりと雑に扱っていたし」ということで、その人を神様と呼ぶのには抵抗があるそうだ。

なかなかに興味深い雲の上の話。ここから先は、その人の言葉で書く。

あるときリーダーが、あ、もう神様でいいか。神様が子供たちに「お前らもいよいよ生まれるときが来た」みたいなことを言ったのよ。で、子供一人一人に「どんな親の元に生まれたいか」と聞いて地上に落としていった。
子供の希望は叶えられるようで、たとえば裕福な家に生まれたいと希望すればそういう家の子になれたみたい。けど希望を言わなければ不人気な親を押し付けられるんだよね。私は面倒くさがりなので「何でもいい」と言ってしまって、あの母親のもとに落ちてきた。なので、生まれた瞬間「しまった」と思ったよ。

地上へはすべり台みたいなもので降りてきたっていう人もいるけど、私のは消防の避難用のチューブのイメージ。もちろんあんなゴワゴワの素材じゃなくてツルンとした感じで、何度かひねりというか、体がぐるんと回った感触があった。驚異的な安産だったみたいよ。母親が便意を催してトイレでしゃがんだら私まで出てきたって。水のたまる洋式だったら死んでたわ。

雲の上での話は他にないかって?
そうねえ、そろそろ生まれるっていう少し前に神様のレクチャーがあった。就職説明会みたい?まさにそうで、地上での生活はこういうものだからこういう点に注意しなさいとか、そんなの。でもさ、どうせ生まれたらそんなこと忘れてるのに意味あるのかって思うじゃない?それでよそ見してたら神様に「真面目に聞け」って怒られた。それで一応レクチャー内容は理解したんだけど、それってある程度大きくなったら自然に記憶から消えていくんだろうね。私もその辺の記憶はないの。すごく大事なことだったって今は思うけど、具体的なことは覚えてない。とにかく赤ん坊ってね、まだ何もしゃべれないけど実はすごい大事なことを知ってるんだよ。

でね、生まれてからしばらくはまだ「雲の上」とつながってる。ヘルプデスクみたいな感じで、困ったときは神様が相談に乗ってくれるんだけど、私は使ったことなかったな。話のネタに一回くらい使えばよかったかな。
雲の上で近くにいた子供は地上でもわりと近くに生まれるみたい。子供の頃、幼稚園とかで初めて会う子なのに「あれ?この子どこかで会ったことある」って思ったことが何度かあるし。向こうは全然気が付かなかったけど。

私は、次に生まれてくるときはどんな親がいいか今から決めてる。いい親の元に生まれた子は、神様にどんな親の元に生まれたいか聞かれたとき即答していたから。きっと前世で苦労したんだわ。アンタも考えておいたほうがいいよ。来世でどういう人生を送れるか、準備は雲の上から始めといたほうがいい。親は誰でもいいなんて言ったらえらいことになる。だからって『推しの子』みたいにアイドルの子になりたいとかキモイこと言うなよ。

あとね、神様が面白いことを言ってた。「夫婦は2回出会う」って。人間は何度も生まれ変わるけど、夫婦は生まれ変わってもう一度出会うんだって。もっとも、ほとんどの人は前世のことなんて覚えていないから気付かないけどね。でも、なんで2回なんだろうね。1回目で失敗した夫婦にセカンドチャンスが与えられるのかな。あ、チャンスとは限らないか。もう出会いたくない夫婦もいるだろうし、何度も生まれ変わって出会いたい夫婦なら「2回まで」の制限はいらないものね。アンタは来世では絶対近づいてこないでよ。たまたま近くにいても声かけるなよ。分かったな。

あ、今大事なことを思い出した。ホームとアウェイって言うじゃない?今いる「ここ」と「雲の上」はどっちがホームかっていうと、雲の上なんだよ。私らはこの世に旅行に来てるのかもね。ふふふ、じゃあね。

***

秋というのに真夏のような入道雲。
きっとあの上で、今日も神様のレクチャーが開かれている。そして、そのうち消えてしまう大事な記憶を抱えて、新しい命は旅に出る。
良い旅を、と僕はただ祈るのみである。